おか 生き次郎
| 氏名 | おか 生き次郎 |
|---|---|
| ふりがな | おか いきじろう |
| 生年月日 | 1888年11月3日 |
| 出生地 | 兵庫県武庫郡西宮町 |
| 没年月日 | 1959年4月17日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗命名学者、郷土史家、講演家 |
| 活動期間 | 1912年 - 1957年 |
| 主な業績 | 生き名運動の提唱、姓名再生法の体系化、全国戸籍口伝調査 |
| 受賞歴 | 帝都学芸協会奨励章、兵庫文化賞 |
おか 生き次郎(おか いきじろう、 - )は、の民俗命名学者、戸籍寓話収集家である。『生き名』の概念をから全国に普及させた人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
おか 生き次郎は、末期から中期にかけて活動したの民俗命名学者である。戸籍上の姓名が個人の生涯に与える影響を研究し、特に「生き名」を持つ者は災厄に遭いにくいとする独自の説を唱えたことで知られる[1]。
彼の活動はの下層戸籍調査から始まり、のちにの外郭研究会、系の地方姓名実態調査へと拡大した。なお、戦前期の姓氏整理運動と一部で接続したため、後年は学術と民間信仰の境界に位置する人物として再評価されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
おか 生き次郎は、武庫郡西宮町の酒造商の三男として生まれた。幼少期から帳簿の誤記に強い関心を示し、家業の蔵では番頭が付けた通称と戸籍名の齟齬を毎日書き写していたとされる[3]。
、の教師であったに師事し、郷土の苗字分布を地図化する課題を与えられたことが、後年の研究の原型になったという。もっとも、この時点で既に彼は「名前は持つものではなく、育てるものである」と書き残しており、同級生の記録では意味不明な独白が多かったと伝えられる。
青年期[編集]
にを出ての文具問屋に勤めたが、帳合いの名寄せ作業を通じて、同姓同名による物流の混乱を目の当たりにしたことで命名問題へ傾倒した。翌には退職し、独自に「姓名更生会」を結成して関西一円の戸籍聞き取りを開始した[4]。
この頃、彼はの古書店でに似た風貌の老学者と出会ったと自著に記しているが、相手の実名は終生伏せられたままである。伝記研究では、この人物が実在の誰かではなく、彼自身の筆名の一つだった可能性も指摘されている。
活動期[編集]
の後、彼は被災地で帳簿と位牌の照合を行い、姓名の不一致が遺族の心理的負担を増幅させると主張した。これを契機に、内の寺院・町会・警察署を巡回する「名札整備運動」を展開し、1日平均17件、月間では最大412件の改名相談を処理したとされる[5]。
には外郭の「民間名号研究班」に参加し、全国4,380戸を対象とした『生き名白書』を刊行した。同書では、長男に「太郎」を付ける習慣は関西よりもで変異が大きいとされ、また「次郎」は次男ではなく“次に来る生”を意味する語として再定義された。
晩年と死去[編集]
戦後は下谷の長屋に移り、紙片に姓名の図像を描く「名相書き」に没頭した。晩年には、戸籍簿に記された漢字の偏と旁の配置から健康状態を推定する「字勢診断」を提唱したが、これは医師会から強い反発を受けた[6]。
4月17日、肺炎のための自宅で死去した。享年70。葬儀では参列者がそれぞれ自分の旧名を胸に貼る習わしがあり、会場の周辺では一時的に名札用紙が品切れになったという。
人物[編集]
おか 生き次郎は、温厚である一方、名前の話になると極端に早口になったと伝えられる。初対面の相手にも必ず戸籍上の表記、通称、幼名、旅券上の英字表記を尋ね、4種の名を聞き終えるまで握手をしなかったという逸話がある。
また、彼は講演の際に必ずで黒板へ自分の姓名を10回書き、最後の1回だけ筆圧を半分にすることで「名の重心」を示した。弟子のは、彼が雨の日にしか原稿を書かなかったのは「湿気が字を連れてくる」からだと回想している。なお、この発言の出典は弟子会報の一節のみであり、検証は十分ではない。
一方で、私生活では極端に節約家で、夕食の味噌汁に浮いた葱の本数を数えて研究メモに転記した。これがのちに「葱算日記」と呼ばれる断片資料群である。
業績・作品[編集]
主な著作[編集]
代表作に『生き名概論』、『戸籍と魂のあいだ』、『改名者のための祝詞集』がある。とくに『生き名概論』は、に紙上で連載され、改名を「第二の出生」と見なす理論を大衆化させた[7]。
『戸籍と魂のあいだ』では、姓の画数が地域の降雨量と相関するという奇妙な仮説が提示され、後年の統計民俗学に影響を与えたとされる。もっとも、彼自身が用いたデータ表にはとの数値が入れ替わっていた箇所があり、研究史上しばしば話題になる。
生き名運動[編集]
彼の最も知られる業績は「生き名運動」である。これは、出生届の段階で名の読みを1文字多く申請し、余剰の音を「将来のための予備名」として保管する慣習を推奨したもので、頃には南部の一部自治体で試験的に採用された[8]。
運動は系の教育講演と結びつき、児童が自分の名の由来を作文にする「名の作文週刊」が全国で流行した。ただし、学校によっては児童が家族の旧姓名まで掘り起こしてしまい、祖父母が戸籍役場へ駆け込む事例もあったという。
姓名再生法[編集]
晩年に体系化された「姓名再生法」は、姓名の旧字体を一度逆順に読んでから現代仮名遣いへ戻すことで、失われた家運を再起動するという手法である。彼はこの方法により、の老舗薬種商が3代ぶりに直系を得たと報告したが、当事者側の証言は確認されていない[9]。
この理論はのちに一部の占術家へ受け継がれたが、当の生き次郎は「占いではない、統計である」と反論していた。実際には統計表の注記欄に「気分がよい日」とだけ書かれた月があり、研究者の頭を悩ませている。
後世の評価[編集]
戦後しばらくは奇人学者として扱われたが、以降、地域史・家族史・姓名文化研究の分野で再評価が進んだ。特にのは、彼の調査票が戦前の庶民生活を知る一次資料として有用であると指摘している[10]。
一方で、彼の理論には現在でも批判が多い。姓名と運勢の関係をめぐる主張は学術的根拠に乏しいとされるほか、調査対象者への聞き取りの際に「名を3回書くまで帰さない」という強硬な方法を用いたと伝えられている。ただし、講演録の一部ではそれが単なる冗談だった可能性も示唆されている。
では現在も年1回、彼の命日に合わせて「名札供養」が行われており、地元の古書店では生き名関連資料が小規模な人気を保っている。
系譜・家族[編集]
父は酒造商の、母はであり、兄に番頭見習いの、妹に助産婦となったがいたとされる。本人は生涯独身であったが、弟子たちからは半ば家父長のように扱われた。
養子縁組はなかったものの、晩年にはを事実上の後継者とみなし、彼女に自作の姓名図譜3,200枚を譲った。芳枝はのちに『生き次郎資料目録』を編み、現在もで閲覧申請が行われている。
なお、家族伝承では、曾祖父が改名を3回経験したために「家が長持ちした」と語られており、これが生き次郎の原体験になったとも言われる。
脚注[編集]
[1] 生き次郎自身の講演録による。
[2] 近年の研究では、彼の活動が民俗学と大衆啓蒙の境界にあったとされる。
[3] 『おか家日録』第2巻に見える記述。
[4] なお、同会の会員名簿は現存せず、詳細は不明である。
[5] 名札整備課の内部報告書とされるが、真正性には疑義がある。
[6] 医師会側の反論文書は散逸している。
[7] 新聞連載版と単行本版では章立てが異なる。
[8] 兵庫県農政記録には痕跡があるが、制度化の範囲は限定的であった。
[9] この事例は生き次郎の講演でのみ確認されている。
[10] 中園恵理の調査は、調査票の紙質分析を含む。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 中園恵理『生き名の思想史――おか生き次郎と近代姓名文化』関西民俗叢書, 1984年.
- ^ 木下芳枝『生き次郎資料目録』国立図書館刊, 1967年.
- ^ 佐伯信吾「姓名再生法の成立」『民俗命名学研究』Vol.12, No.3, pp. 41-68, 1972.
- ^ H. Thornton, The Gospel of Living Names, University of Kobe Press, 1956.
- ^ 田辺雅人「大震災後の改名相談統計」『都市史評論』第8巻第2号, pp. 115-139, 1961.
- ^ 岡田清「戸籍寓話と近代日本」『社会と名号』第4巻第1号, pp. 9-27, 1989.
- ^ M. S. Kuroda, Naming, Rebirth and Bureaucracy in Japan, Vol. 3, pp. 201-244, East Asia Studies Quarterly, 1993.
- ^ 藤村恵『改名者たちの昭和』青葉出版, 2001年.
- ^ 平井宗一「名札整備運動小史」『兵庫文化年報』第17号, pp. 77-102, 1978.
- ^ A. R. Beaumont, Strange Tables of the Soul, Vol. 1, pp. 1-33, London Folklore Review, 1949.
外部リンク
- 国立姓名文化アーカイブ
- 兵庫民俗命名学会
- おか生き次郎記念資料室
- 名札供養保存会
- 昭和戸籍寓話データベース