小笹 於祥
| 氏名 | 小笹 於祥 |
|---|---|
| ふりがな | おざさ おしょう |
| 生年月日 | 1887年4月18日 |
| 出生地 | 山形県飽海郡酒田町 |
| 没年月日 | 1959年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗記録家、擬礼研究者、講演家 |
| 活動期間 | 1912年 - 1957年 |
| 主な業績 | 応唱式記録法の提唱、地方儀礼語彙集の編纂 |
| 受賞歴 | 帝都民俗学会奨励賞、東北口上保存功労章 |
小笹 於祥(おざさ おしょう、 - )は、の民俗記録家、擬礼研究者。地方の祝詞や口上を体系化した「応唱式記録法」の創始者として広く知られる[1]。
概要[編集]
小笹 於祥は、末期から中期にかけて活動した民俗記録家である。各地に残る祭礼の掛け声、商家の口上、寺社の応答作法を採集し、これを「応唱式」と呼ぶ独自の分類体系にまとめたことで知られる。
於祥の名は、の港町で観察した年始の呼び声に由来するとされる。本人はこれを「人が言葉で互いを起こし、町を一日の機械にする技術」と説明しており、この奇妙な定義が後年の研究者を悩ませた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
於祥は、酒田町の廻船問屋の下働きに近い家に生まれる。幼少期から年始回礼や船宿の呼び込み文句をノートに書き留めていたとされ、には近所の寺での読経節回しを真似たことから、住職に「声を帳面にせよ」と諭されたという[3]。
、に進学するが、授業中に教師の発問の間合いを採寸していたため、しばしば注意を受けた。於祥はこれを「問い返しの長さには地方差がある」と解釈し、後の研究の端緒になったと回想している。
青年期[編集]
、於祥はへ出ての聴講生として民俗学講義に出席したとされる。ただし正式な在籍記録は確認されておらず、本人が残した履歴書には「聴講・見聞・筆記」とだけ記されている[4]。
この時期、彼はの講話に感銘を受けた一方で、「言葉の採集は植物採集よりも雑である」として、独自に録音筒と紙片札を組み合わせた採集箱を考案した。箱の重さは空箱で4.8kg、札を120枚入れるとちょうど背負い紐が悲鳴を上げるよう設計されたという。
活動期[編集]
、於祥はの寒川で行われた年越しの町内儀礼を記録し、初の論考「応唱式小考」を発表した。これが評判を呼び、翌年にはの委託により、全国23道府県の祭礼口上を比較する「地方声式調査」に参加した。
にはので、鉾町の呼び込み文句が雨天時にだけ3音節短くなる現象を報告した。於祥はこれを「湿度による節約話法」と命名し、以後の講演で必ず例示したため、若い研究者の間では半ば都市伝説のように扱われた。
晩年と死去[編集]
以降、於祥はの借家で著述に専念し、失われた口上の再現実演を毎月第2日曜日に行った。晩年は聴力の低下に悩まされたが、その一方で「聞こえにくいからこそ声は形式になる」と語り、研究を続けた。
11月2日、於祥は鎌倉市で死去した。享年72。死去の直前まで、枕元の紙片に「返答は三拍、礼は五拍」と書き残していたと伝えられるが、出典は未確認である[要出典]。
人物[編集]
於祥は温厚で礼儀正しい人物として知られる一方、記録対象の儀礼が整いすぎていると自ら声を崩してやり直させたという逸話がある。研究仲間からは「現場の空気を採寸する男」と呼ばれた。
また、帽子の内側に短冊を貼り付ける癖があり、本人は「忘却は余白である」と述べていた。会食では必ず最初に茶碗の縁を指で2回叩いてから箸を取ったが、これは幼少期の寺の作法を改変したものだと説明している。
一方で、地方の年中行事に関しては異様に細かく、のある集落では、雪が3cm以上積もると口上の語尾が必ず半拍遅れると主張した。これを聞いた同時代の学者は笑ったが、於祥は「笑いは反証にならない」と返したとされる。
業績・作品[編集]
於祥の業績の中心は、口承表現を音節数・返答間隔・身振りの有無で分類する「応唱式記録法」である。これは、祭礼や商いの現場で発せられる言葉を単なる民謡や挨拶としてではなく、共同体の時間管理装置として捉える枠組みであった。
代表作には『地方声式総覧』、『口上の拍数に関する覚え書』、『雨天応唱の実地観察』などがある。とくに『地方声式総覧』第3巻は全412頁に及び、からまでの応答例を19類型に整理したが、なぜか巻末に蕎麦屋の呼び声だけが異常に詳しく載っている。
には文化欄で連載「言葉の立つ場所」を担当し、一般読者にも名が知られるようになった。連載中、於祥は「声は風景の一部である」と書いたが、翌週には「ただし港町では声のほうが先に風景を作る」と自己修正しており、編集部が困惑したという。
後年、が所蔵する於祥の採集カード約3,200枚が整理され、うち47枚に「同一文句、三度採集、三度とも雨」と記されていることが判明した。研究者の間では、この偏りが彼の観察方法を示す重要な資料とみなされている。
後世の評価[編集]
於祥の研究は、生前は奇抜な口承論として扱われることも多かったが、以降はのみならずの分野でも参照されるようになった。とくに応唱式記録法は、儀礼の内容よりも応答の構造に注目した点で先駆的と評価されている。
また、やの一部自治体では、地域行事の記録様式を策定する際に於祥の分類を参考にしたとされる。もっとも、実務担当者の間では「分かるようで分からない分類」とも呼ばれ、様式が複雑になりすぎたとの批判もあった。
にで開催された「口上と共同体」展では、於祥の自筆メモが展示され、来場者の間で「なぜこんなに拍を数える必要があるのか」という反応が相次いだ。これに対し学芸員は「彼は儀礼の演出家ではなく、時間の測量士である」と説明した。
系譜・家族[編集]
於祥の父は小笹庄兵衛、母はミヨとされる。父庄兵衛は廻船問屋の帳付けをしており、数字と口上の両方に厳しかったため、於祥の方法論形成に強い影響を与えたとみられる。
妻はに結婚した小笹トモで、寺の掲示文の書き換えに長けていた。二人の間には長男・照三、長女・ふみの2人がいたと記録されるが、照三はのちにで港湾事務に就き、父の研究にほとんど関心を示さなかったという。
家系については、酒田周辺の記録に「於祥の祖父が祭礼の先唱を務めた」とする伝承が残る一方、於祥自身は「わたしの家に血統より声統がある」と述べたとされる。親族の多くは研究に無関心であったが、従姉の松枝だけが採集箱の補修を手伝ったという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小泉澄子『応唱式記録法の形成』民俗文化研究社, 1978, pp. 41-79.
- ^ 高瀬一郎「小笹於祥と地方声式調査」『日本民俗学雑誌』Vol. 22, No. 3, 1964, pp. 112-130.
- ^ Margaret H. Weller, “Ritual Reply and Civic Rhythm in Early Shōwa Japan,” Journal of Comparative Folklore, Vol. 14, No. 2, 1981, pp. 55-88.
- ^ 藤原久美子『拍数で読む共同体』東都書房, 1992, pp. 9-34.
- ^ 田口玄『口上の社会史』みすず民俗叢書, 2004, pp. 201-249.
- ^ Charles D. Ingram, “The Measure of Voice: Osho’s Archive Cards,” Asian Ethnography Review, Vol. 7, No. 1, 1975, pp. 3-26.
- ^ 小笹於祥「雨天応唱の実地観察」『地方声式研究』第3巻第1号, 1937, pp. 1-18.
- ^ 中村みどり『鎌倉の記憶装置』港の人社, 2011, pp. 88-117.
- ^ 武田桐子「応答間隔の民俗学的意義」『文化と拍』第8巻第4号, 1989, pp. 140-159.
- ^ H. L. Patterson, “When Speech Becomes Weather: Notes on Osho’s Wet-Day Theory,” Proceedings of the Society for Vernacular Studies, Vol. 19, 1996, pp. 201-215.
外部リンク
- 国立民俗資料館デジタルアーカイブ
- 地方声式研究会
- 鎌倉文化史資料室
- 応唱式記録法保存委員会
- 山形口上協会