おちんちん解放戦線
| 名称 | おちんちん解放戦線 |
|---|---|
| 略称 | OLF |
| 活動期間 | 1972年 - 1981年頃 |
| 活動拠点 | 東京都、神奈川県、京都市 |
| 主張 | 性器の表記自由化、羞恥教育の撤廃、公共浴場でのサイズ差別反対 |
| 機関紙 | 『前線通信』 |
| 主要人物 | 南雲朔太郎、渡会ミチ、早瀬亨 |
| 関連団体 | 日本解放文化連盟、下町性教育懇話会 |
| 象徴 | 赤地に白い握手印の旗 |
| 標語 | 見せよ、隠すな、名を返せ |
おちんちん解放戦線(おちんちんかいほうせんせん)は、前半のを中心に広まったとされる、男性器の機能・命名・表示法の自由を主張した架空の市民運動である[1]。しばしば運動の過激派として説明されるが、実態は劇団、印刷所、保健学研究会が混線して成立した半地下組織であったともされる[2]。
概要[編集]
運動の中心にあったのは、身体部位の呼称を「家庭内の恥語」から「社会語彙」へ移行させるという発想であり、これが当時の解放運動と結びついて急速に拡散した。機関紙『前線通信』は月1回発行とされるが、実際にはの印刷所で不定期に増刷され、号外が多すぎて編集部が自分たちの号を把握できなくなったという逸話が残る。
一方で、戦線という名称にもかかわらず、組織としての統一性はきわめて低かった。左派学生、助産師、銭湯経営者、児童文学者がそれぞれ別の意図で参加しており、会合では「解放」より「どの表記が一番笑われにくいか」が延々と議論されたとされる[要出典]。なお、の「全国小型鏡連携会議」でピークを迎えた後、急速に文化運動へ変質した。
歴史[編集]
前史[編集]
また、頃にはの港湾労働者向け健康相談所で、匿名性を保ったまま症状を伝えるための記号表が配布されていたという。ここで使われた「小旗」「柱」「先端」などの比喩が、後の運動のレトリックに流入したと見る説が有力である。
結成と拡大[編集]
にはの小劇場「青蛾座」で、象徴的なパフォーマンス『名札を返せ』を上演し、観客数は定員82名に対して延べ146名と記録された。ここで用いられた白い腹巻き型の旗は、後に各地の支部で複製されたが、洗濯を重ねるうちに単なる保温具に見えるようになり、運動がやや地味になったとも言われる。
制度との衝突[編集]
にはの内部研究会が、児童向け図画の身体部位表現について、戦線の提言を参考資料として回覧したとされる。ただし、回覧された資料には誤って『前線通信』ではなく会員制同人誌『局地戦速報』が混入しており、以後、官庁文書の一部で極めて珍妙な用語が定着したという。
思想と主張[編集]
おちんちん解放戦線の思想は、単純な露出主義ではなく、「命名権の回復」にあったとされる。すなわち、身体の一部をどう呼ぶかは個人の人格に関わるという立場であり、、、の3領域で異なる呼称が併存していたことを問題視したのである。
とくに注目されたのは、同戦線が「恥語の公共化」を唱えた点である。これは、語彙を増やすことで羞恥をなくすのではなく、羞恥そのものを相対化する試みとされ、当時の運動やの言説と奇妙に接続した。なお、戦線内部では「大きい・小さい」より「硬い・やわらかい」のほうが政治的であるという派閥争いが起き、これを「形質論争」と呼んだという[要出典]。
また、戦線は公共空間での表記改革にも熱心で、駅の男子トイレ表示を「紳士用」から「身体用A」に変更する案を沿線の商店会に持ち込んだことがある。採用はされなかったが、提案書の末尾に書かれた「Aなら誰も傷つかない」という一文が後年まで引用された。
組織と活動[編集]
支部制度[編集]
支部間の連絡には、当時まだ珍しかった青緑色の炭酸紙が用いられた。文字がやや滲むため、重要事項がしばしば過激化して読めたことから、結果として組織全体の士気が上がったともいう。
機関紙と広報[編集]
広報担当のは、文章よりもスタンプを重視した人物として知られ、戦線の会合記録に朱色の指印を大量に残した。のちにこの指印が「公文書に見えるので信用してしまう」と話題になり、外部からの寄稿が増えたという。
象徴的事件[編集]
また、の「白衣逆襲デモ」では、参加者62名が医療従事者風の白衣を裏返しに着用し、背面に「名は前から読め」と書いて行進した。沿道の子どもが爆笑したため、その場で運動のピークが終わったという見方もある。
社会的影響[編集]
おちんちん解放戦線の影響は、直接の政策変更よりも、言葉遣いの空気を変えた点にあるとされる。少なくとも前半には、都内の一部保健所で、利用者が恥ずかしがらずに症状を申告できるよう、受付票の項目名が簡素化されたという記録が残る[6]。
文化面では、やの小劇場に同戦線の影響を受けた作品が相次ぎ、性器を直接描かずに椅子、果物、鍵などで代替する「代用劇法」が流行した。これにより、観客は何を見せられているのか分からないまま拍手する訓練を積んだとされる。
一方、運動の過剰な可視化は反発も招いた。には一部週刊誌が「青少年を混乱させる」と批判したが、逆に読者の好奇心を刺激して増刷につながったという皮肉な結果を生んだ。なお、後年の掲示板文化における伏字表現や、匿名性を守るための記号遊びは、この戦線の影響下にあると指摘されている。
批判と論争[編集]
戦線に対する批判は、主に「真面目に見えてふざけている」「ふざけて見えて真面目すぎる」の二つに分かれた。前者は言論人に多く、後者は元参加者に多かったとされる。とくに内部では、標語の字数や旗の色をめぐる争いが激しく、南雲は晩年「我々は解放よりもフォントに敗れた」と述懐したという[7]。
また、1978年の年次大会では、若手の一部が露骨な挑発表現を導入しようとして、年長者と衝突した。この件は「語感主義事件」として知られ、以後、戦線の資料は外部配布版では極端に婉曲化された。結果として、最も過激な内容がもっとも穏当な言い回しに置き換えられるという、奇妙な官僚化が進んだのである。
さらに、戦線は性の自由を掲げながらも、実際には男性中心の会話空間を再生産していたとの批判が後年に出た。これを受けては1983年の回顧録で「我々は解放を叫びながら、机の高さしか変えられなかった」と書いたとされる。
その後[編集]
の解散宣言後、戦線は明確な組織としては消滅したが、各地の元メンバーは保健教育、演劇、美術、出版へと散らばった。とりわけのNPO「身体と言葉の会」や、の成人学級では、戦線の資料が教材として再利用されたとされる。
2000年代以降は、研究対象として再評価が進み、の雑誌目録に関連資料がまとまって収録されたことで、むしろ一般より研究者のほうが詳しい現象が生まれた。なお、近年のフェミニズム史・男性学・笑いの社会学の交差点で、同戦線は「成功した失敗例」として引用されることが多い。
もっとも、現存資料の多くがコピー、再編集、孫引きであり、運動の全容には不明点が多い。ある研究者は、戦線の最大の功績は「誰もが一度はこの名前を口にしてしまうこと」そのものだったと述べている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 南雲朔太郎『身体語彙の近代史』私家版, 1969.
- ^ 渡会ミチ『前線通信総目録 1972-1981』青蛾書房, 1984.
- ^ 早瀬亨「都市銭湯における語彙の変容」『保健文化研究』第12巻第3号, pp. 44-61, 1978.
- ^ Margaret A. Thornton, "Lexical Liberation and Male Body Politics", Journal of Urban Folklore, Vol. 8, No. 2, pp. 113-129, 1982.
- ^ 佐伯ひろし『解放と腹巻き――戦線小史』港町出版, 1991.
- ^ Kenji Watanabe, "On the Social Life of Euphemism in Postwar Japan", Review of Applied Semantics, Vol. 4, No. 1, pp. 5-22, 1980.
- ^ 小野寺静子「図書館分類と身体表現」『資料組織論集』第5巻第1号, pp. 8-19, 1979.
- ^ David L. Borden, "The Little Gentleman and the Public Sphere"『Transactions of the Society for Odd Studies』Vol. 2, pp. 201-218, 1985.
- ^ 東京都生活衛生局『公衆浴場表示指針試案』内部資料, 1974.
- ^ 『おちんちん解放戦線年報 第7号』前線資料室, 1977.
外部リンク
- 前線資料アーカイブ
- 身体語彙研究会
- 昭和サブカル年表
- 日本笑史学会
- 都市保健文化データベース