きなこ墓地
| 名称 | きなこ墓地 |
|---|---|
| 種類 | 共同納骨施設・観光施設 |
| 所在地 | 北海道函館市白菊町 |
| 設立 | 1897年(明治30年) |
| 高さ | 管理塔 18.4 m |
| 構造 | 石積み地下納骨室、木造管理塔、砂礫舗装 |
| 設計者 | 佐伯庄之助、M. R. ハーグレーヴ |
きなこ墓地(きなこぼち、英: Kinako Cemetery)は、北海道にあるである[1]。きな粉状の砂礫層を用いた独特の区画管理で知られ、現在では観光と追悼を兼ねた施設として紹介されることが多い[1]。
概要[編集]
きなこ墓地は、の北側丘陵に所在する墓地施設で、墓所の地表を淡黄色の砂礫で覆う点に特色がある。名称は、上層に敷かれた「きな粉色」の保護砂が、遠目には菓子粉に見えたことに由来する。
現在では北海道内外から見学者が訪れる景観施設としても扱われており、春季には追悼行事と歴史解説の公開催事が行われる。なお、敷地内の一部はによって保存対象に指定されている[2]。
名称[編集]
「きなこ墓地」の名称は、創設当初の正式名称である「黄粉覆土共同墓域」に由来するが、一般には早くから略称が用いられた。1890年代の記録では、の通訳官であったジョージ・A・ウィンダムが、現地視察の際に「a graveyard dusted like kinako」と記した書簡を残しているとされる[3]。
もっとも、この書簡の実在性については、後年の研究で疑問が呈されている。一方で、地元の古老は「乾燥を防ぐための砂が、豆の粉に見えたのだ」と語ったとされ、両説が並立している。いずれにせよ、名称が食品のきなこを想起させることから、昭和期には観光パンフレットに菓子箱風の意匠が採用された。
沿革・歴史[編集]
創設の経緯[編集]
きなこ墓地の起源は、明治30年代に函館湾岸で相次いだ海霧と土壌流出への対策に求められる。当地では通常の土葬区画が雨水で崩れやすく、の嘱託技師であった佐伯庄之助が、火山性砂礫と豆殻灰を混ぜた覆土法を提案したとされる。これが後に「きなこ層」と呼ばれる保護層の原型となった。
1897年、の許可を受けて共同墓域として整備され、最初の埋葬は回船問屋・三浦房吉の家族墓であった。墓標の角度がすべて海風に対して7度だけ内傾しているのは、この時に風荷重を見込んで定められた規格であるという。
拡張と観光化[編集]
大正期に入ると、きなこ墓地は港湾労働者や教会関係者の区画を含む複合墓地へと拡張された。1924年にはの地方巡検が行われ、砂礫舗装の排水性能が注目されたほか、管理塔に設けられた風見板が「墓地らしからぬ軽快さ」を生むとして話題になった[4]。
昭和40年代には、近隣の埋立地整備により景観が開けたことから見学客が増加し、地元では「菓子のような墓地」として半ば冗談めいて紹介されるようになった。この時期、案内板の文章がやや過剰に詩的であったため、観光協会内でたびたび修正が行われたという。
保存運動[編集]
平成に入ると、老朽化した石積みや木造管理塔の保存が問題となった。1998年にはが現地調査を行い、墓域全体を「近代追悼景観の稀有な例」と評価したが、同時に「粉が舞いやすく、掃除が終わらない」との実務的指摘も記録されている[5]。
2016年からは、地元の食品メーカーが協賛する「きなこ墓地修景基金」が設けられ、雨天時の流出対策として黄土系の補填材が定期的に撒かれるようになった。これにより、現在では墓石の周囲に薄い金色の縁取りが見える独特の景観が保たれている。
施設[編集]
きなこ墓地は、中央管理塔、東西の家族区画、海向きの散策路、地下納骨室群から構成される。管理塔は高さ18.4メートルで、1階に受付、2階に記録閲覧室、3階に供花乾燥室が設けられている。供花乾燥室は、供えられた花の湿気がきなこ層に落ちるのを防ぐ目的で設置されたもので、天井に豆殻型の通気孔が並ぶ。
地下納骨室は、最大で4,260基分の骨壺を収容できるとされるが、実際の空き区画数は季節によって変動する。地表部には幅1.2メートルの砂礫舗装が巡らされ、車椅子でも通行できるよう緩やかな勾配が採用されている。ただし、強風後は「きなこ吹き溜まり」が発生しやすく、管理人が竹箒で整地する姿が名物となっている。
交通アクセス[編集]
最寄り駅はの白菊町停留場で、停留場から徒歩約11分で到達する。路線バスではの「白菊丘線」が墓地前広場に乗り入れており、土日祝日は追悼利用者向けに増便されることがある。
自動車利用の場合、から市道白菊坂線へ入り、管理棟裏手の小型駐車場を利用する。観光客向けには、港町を一望できる「西見晴らし階段」が案内されるが、雨天時は滑りやすいため注意が必要である。なお、地元では「きなこ墓地へは北風の日に行くべき」とされ、晴天よりも薄曇りのほうが黄土色の層が美しく見えるといわれている。
文化財[編集]
きなこ墓地のうち、1908年築の石造奉納門と、1912年築の木造管理塔はに登録されている[6]。奉納門の上部には豆の莢を模した彫刻があり、建築史上は珍しい「食材意匠の追悼装飾」として言及される。
また、敷地内の区画番号A-17からA-24にかけては、初期の覆土工法を示す実地資料として保存されている。学術的には、近代北海道における衛生観念と景観形成の折衷例として評価されているが、保存会の内部文書では「とにかく掃除が難しい文化財」とも記されている。
脚注[編集]
[1] きなこ墓地保存会『きなこ墓地総覧』第14版、2021年。 [2] 函館市教育委員会『白菊町歴史的景観調査報告書』2020年。 [3] G. A. Wyndham, "Notes on the Northern Burial Grounds", Proceedings of the Hakodate Historical Society, Vol. 8, No. 2, 1901, pp. 44-57. [4] 佐伯庄之助「港湾丘陵における覆土排水試験」『日本建築学会北海道支部報』第3巻第4号, 1924年, pp. 12-19. [5] 函館市文化財保護審議会『近代追悼景観の保存に関する中間答申』1998年。 [6] 函館市教育委員会『函館市文化財一覧 令和5年度版』2023年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯庄之助『港湾丘陵における覆土排水試験』日本建築学会北海道支部報 第3巻第4号, 1924年, pp. 12-19.
- ^ George A. Wyndham, "Notes on the Northern Burial Grounds" Proceedings of the Hakodate Historical Society, Vol. 8, No. 2, 1901, pp. 44-57.
- ^ 函館市教育委員会『白菊町歴史的景観調査報告書』函館市教育委員会, 2020年.
- ^ きなこ墓地保存会『きなこ墓地総覧』第14版, 2021年.
- ^ 松田いと『黄粉覆土と近代衛生』北方史料出版, 1987年.
- ^ Harriet L. Moore, "Dust, Memory, and Municipal Space" Journal of Urban Thanatology, Vol. 12, No. 1, 1994, pp. 3-28.
- ^ 函館市文化財保護審議会『近代追悼景観の保存に関する中間答申』函館市, 1998年.
- ^ 田辺久也『北海道墓地行政史』道南学術社, 2009年.
- ^ M. R. Hargrave, "Kinako Layers in Coastal Cemeteries" The Architectural Review of Japan, Vol. 5, No. 3, 1931, pp. 101-116.
- ^ 小泉阿左子『墓石の風向と粉体意匠』港町文化研究所, 2018年.
外部リンク
- きなこ墓地保存会公式案内
- 函館近代追悼景観アーカイブ
- 北方墓域研究センター
- 白菊町まち歩き協議会
- 港町文化財データベース