げりず
| 氏名 | げりず |
|---|---|
| ふりがな | げりず |
| 生年月日 | 3月12日 |
| 出生地 | 岐阜県多治見町 |
| 没年月日 | 11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 衛生学研究者(微生物検査) |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 井戸水の迅速培養法「げりず法」ほか |
| 受賞歴 | 厚生科学功労章()等 |
げりず(よみ、 - )は、日本の衛生学研究者。発祥地の井戸水検査「げりず法」として広く知られる[1]。
概要[編集]
げりずは、日本の衛生学研究者である。井戸水の微生物を短時間で同定する検査体系「げりず法」を提唱し、戦前から戦後にかけて地方衛生行政の現場に浸透したとされる[1]。
一方で、げりず法の判定基準は独特に語られることが多い。とりわけ「検体は必ず午後2時17分の窓際で受け取り、培養器の蓋は3回だけ叩く」といった手順は、記録係の癖が後年に誇張されたものだとする指摘もあるが、講演会の目玉として残ったとされる[2]。
なお、げりずという名は本名か通称かで揺れており、戸籍上の表記はしばしば転記ミスがあったとされる[3]。このあたりが、人物像に奇妙な柔らかさを与えているとも評される。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
げりずは3月12日、岐阜県多治見町に生まれた。父は陶器工房の用水管理を担い、母は町の簡易講習所で薬草の調合を教えていたと伝えられる[4]。
幼少期、げりずは工房の共同井戸で「冬でも泡が立つ井戸」と「夏でも澄む井戸」を比べては、採水瓶の重量差を紙に書き続けたとされる。記録係の孫によれば、最初の一覧表は12行×7列で、各行の欄外に「匂い・舌触り・泡の消え方」を三段階で記したという[5]。もっとも、この逸話は後年の自伝の口調が混ざっている可能性も指摘されている[6]。
青年期[編集]
、げりずは衛生講習所の第9期生として上京し、東京市周辺で流行した下痢性疾患の調査に従事した。同期にはのちに食品検査官となるがいるとされるが、その名が資料に残りにくいことから、実在性には議論がある[7]。
青年期に大きく転機があったのは、の雨害による井戸の汚濁である。行政側が「原因は土砂である」と早合点するなか、げりずは採水を「沈む粒子の数」ではなく「沈んだ粒子が回収されるまでの秒数」で表した。具体的には、蓋つきメスシリンダーに検体を注ぎ、底に光点が現れるまでの時間を平均3.4秒(分散0.2)に揃えようとしたとされる[8]。この“時間規格化”が、後の検査手順の骨格になったと考えられている。
活動期[編集]
、げりずはの地方巡回講師として採用され、各地の衛生係に「培養を急がせるのではなく、受け取り条件を急ぐ」ことを説いたとされる[9]。ここで重要なのが、井戸水を受け取る際の環境操作である。
「げりず法」の原型は、に奈良県の寺院群で試験されたとされる。寺の井戸は観音堂の影で冷えやすく、温度を一定化できなかったため、げりずは培養器の前で“手を振る回数”を統一した。弟子の手記には、手振りは計37回、毎回の振幅は指2本分と記されている[10]。数値が異様に細かいことから、作為が後付けされた可能性もあるが、当時の講義録が一致することから、一部は実測だったとする説もある。
戦時期には、厚生当局向けの報告で「下痢性疾患の早期兆候を、検体のにじみ色(黄→灰の遷移速度)で推定する」案を提出し、に厚生省系の委員会で功労を認められたとされる[11]。
晩年と死去[編集]
晩年のげりずは、検査の標準化が形式化されることに不満を示したと伝えられる。弟子たちが「げりず法」の手順書だけを暗記し、現場の温度・採水の迷いを省いたため、結果が揃っても“意味が揃わない”と述べたとされる[12]。
、げりずは研究会の巡回講師を退き、11月2日、東京都内の療養先で死去したとされる。享年は65歳と記されることが多いが、遺稿の計算式では66歳と出る箇所があるため、年齢計算の基準日が異なっていた可能性も指摘されている[13]。
人物[編集]
げりずは、礼儀正しい一方で“手順にだけ異様にこだわる”人物として記憶されている。本人は「科学は結論よりも、採取の癖から生まれる」と述べていたとされる[14]。
逸話として有名なのが、講演会の冒頭で必ず参加者に「自分の手の温度は、今いくつか」と尋ねる習慣である。温度計を持参していない者には、代替として“手のひらを紙に押しつけたときの音”を聞かせ、最終的に「午後2時17分の沈黙が最適である」と締めたという[15]。
また、げりずは冗談のように真面目な提案を行うことで知られていた。たとえば、培養器の蓋を閉める前に「3回叩くと、微生物が“自分は狭い箱に入った”と理解する」と講義で語ったとされる[2]。当時の学生の間では「講義は検査、検査は冗談」という評が広まった。
業績・作品[編集]
げりずの代表的業績は、井戸水の迅速検査法「げりず法」である。検体の受け取り、培養、色相記録、判定までの工程を“時間・匂い・沈降挙動”の3軸で整理し、地方行政でも再現できる形に落とし込んだとされる[1]。
主な著作としては、『井戸水の呼吸記録——黄から灰への遷移速度』、『採水の癖を数にする技法』などが挙げられる。特に『採水の癖を数にする技法』では、採水瓶のすすぎ回数を「前洗い4回・本洗い2回・最終すすぎ1回」と定める表が掲載されたとされる[16]。表の行数がやけに多いことから、編集者が誤って付録を本編に混ぜたのではないかとする説もあるが、複数の筆写本で同じ構成が確認されているとされる[17]。
さらに、げりずは教育用の小冊子『窓際で待つ理由(第1版)』をに配布し、巡回指導の際に配ったとされる。第1版は“窓際”という語が一度だけ誤字になっており、後年に訂正版が作られたという[18]。
後世の評価[編集]
げりずは、衛生学史において「現場の操作を測定の一部とみなした研究者」として評価されることが多い。とくに、温度管理が難しい環境であっても、手順の一定化によって再現性を得られるという考え方は、戦後の簡易検査法に影響したとされる[19]。
一方で、げりず法が“儀式化”した点は批判も受けている。講習を受けた自治体で、手順の数字(37回、3回叩く等)のみに注目が集まり、検体の意味解釈が薄れたという指摘がある[20]。また、判定基準のうち一部は統計処理が不十分であり、後年の追試では一致率が70%程度に留まったとされる[21]。
なお、げりずの死後に開かれた追悼講演では、のが「げりず法は科学というより“住民の安心を採取する技法”だった」と述べたと報告されている。ただし、この発言記録の出典は散逸しており、要出典扱いになり得るとする編集者もいる[22]。
系譜・家族[編集]
げりずには家族の記録が比較的残っているとされるが、戸籍の表記ゆれがある。一般に、配偶者は岐阜県出身の製紙問屋の娘であるとされ、研究補助として実測表の転記を担当したと伝えられる[23]。
子は二人で、長男は(衛生機器の設計者)と名付けられたとされるが、姓が異なるため家系図の信頼性はやや揺れている[24]。次男は表に残らず、家族の語りでは「採水瓶の洗い担当」と記されていることが多い。
また、げりずは師弟関係を重視し、巡回講師の弟子の名簿を“温度帯ごと”に分類したとされる。これは家族にも及び、同居の期間でさえ役割分担が細かく決められていたという記述がある[12]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 田辺 佐久『井戸水の呼吸記録——黄から灰への遷移速度』日本衛生図書出版, 1932年.
- ^ 中村 義則『採水の癖を数にする技法(改訂版)』多治見学術書房, 1940年.
- ^ 江森 由美子『現場再現性の哲学:げりず法の再考』東京工科衛生大学出版局, 1968年.
- ^ 清水 進吾『巡回講師の手記:午後2時17分の沈黙』衛生講習叢書, 1929年.
- ^ R. W. Halberd『Rapid Culture Methods in Rural Water Systems』Vol. 4, pp. 11-58, Cambridge University Press, 1936年.
- ^ M. A. Thornton『The Color-Shift Hypothesis of Enteric Warning Signs』Journal of Applied Sanitation, Vol. 12, No. 3, pp. 201-219, 1941年.
- ^ 小野寺 淳『地方衛生行政と微生物検査の標準化』厚生行政研究所紀要, 第7巻第2号, pp. 33-74, 1957年.
- ^ 『厚生科学功労章記録集』厚生会編, 第1号, pp. 5-9, 1944年.
- ^ 山川 唯人『検体の受け取り条件と結果の一致率』衛生統計年報, Vol. 18, No. 1, pp. 1-26, 1959年.
- ^ (微妙に不自然な書誌)『げりず法の物語学:窓際で待つ理由(誤植を含む)』出版社不明, pp. 0-10, 2001年.
外部リンク
- げりず法アーカイブ
- 多治見井戸水資料室
- 衛生講習叢書(デジタル)
- 厚生科学功労章データベース
- 窓際培養の記録集