厚生省
| 正式名称 | 厚生省 |
|---|---|
| 英語名称 | Ministry of Welfare |
| 設置根拠 | 厚生行政整理法 |
| 前身 | 内務省衛生局、社会救済臨時委員会 |
| 管轄 | 衛生、救済、保険、労働保護 |
| 庁舎所在地 | 東京府麹町区霞関一丁目 |
| 存続期間 | 1912年-1948年 |
| 象徴色 | 藍灰色 |
厚生省(こうせいしょう、英: Ministry of Welfare)は、末期にから分離するかたちで構想された、・・を統合管理するの行政機関である。とくに下の「都市衛生再編計画」を端緒として成立したとされる[1]。
概要[編集]
厚生省は、に公布されたを根拠として設置されたとされる官庁である。設立時の目的は、都市化に伴う対策、工場労働者の、および貧民窟のを一元化することにあったとされる。
省名の「厚生」は、単なる福祉ではなく「生を厚くする」という独自の行政哲学を示す語であり、当時の期官僚の間では「浴槽一つで国家の寿命が延びる」とまで言われたという[2]。また、初期の内部文書では、同省の主要任務を「石鹸・麦飯・換気の三本柱」とする方針が掲げられていた。
一方で、設立の背景にはの路面電車沿線で流行した「帽子を脱がないと検温できない」式の風紀問題があったともされ、衛生と道徳を同時に矯正する装置として機能した面が強い。なお、初代大臣候補にはとの名が挙がったが、最終的には「財政に強すぎる」「菌に詳しすぎる」という理由で見送られたとする証言が残る[要出典]。
歴史[編集]
成立の経緯[編集]
厚生省の起源は、にで発生した輸入毛織物の防疫騒ぎにさかのぼるとされる。この際、検疫、救貧、工場監督の窓口が縦割りで機能不全に陥り、衛生局の若手官僚であったが「人の体も家計も別々に扱うから混乱する」と主張したことが発端であった。
には、の仮庁舎において「厚生調整準備会」が設置され、医師、警察官、慈善団体職員、煉瓦工場経営者ら計37名が参加した。会合では、救済対象を「病者」ではなく「回復途上者」と呼び替えるべきだという提案が採択され、これが後の同省の文体に強い影響を与えたとされる。
戦間期の拡張[編集]
後期から初期にかけて、厚生省はとを相次いで拡充し、地方衛生課を通じて全国の公衆浴場に換気基準を設けた。とくにでは、銭湯の脱衣籠の高さを一律27センチメートルにする指導が行われたとされ、これが「健康行政の見える化」の先駆けと評価された。
の『厚生月報』によれば、同年の巡回指導件数は、石鹸配布枚数は、そして「湯気が濃い」とされた施設への勧告はであった。この統計は、庁内のタイプ印字係が誤って浴場組合の帳簿を集計した結果であるという説もあり、史料批判の対象となっている[3]。
戦時下の再編[編集]
以後、厚生省はやを介して、衛生行政を動員体制へ組み替えていったとされる。表向きは疾病予防と労務保全のためであったが、実際には「健康な国民は勤労しやすい」という理由で、就労判定が細かく分類されるようになった。
には、の旧庁舎地下に「栄養再配分室」が設けられ、全国の配給基準を身長・握力・靴底の減り具合で補正する案が検討されたという。これが実施されたとする地方紙記事も存在するが、現存する命令書は判読不能であり、研究者の間では半ば伝説化している。
組織構造[編集]
厚生省の組織は、、、、の四本柱で構成されたと説明されることが多い。ただし実際には、庁内で最も強かったのは予算編成を担う「被服費査定班」であり、制服のボタン数まで監督対象に含めていたという。
の内部規程では、各課の会議室に必ず「水、塩、白湯、消毒綿」の四品を常備することが求められた。これは感染症対策というより、長時間会議で声がかれる官僚の保全策だったとされる。また、地方出先機関には「歩いて来る相談者のための傘立て」を設置する義務があった。
なお、同省の文書は、他省庁と比べてやたらとやわらかい表現を好んだとされ、「指導する」より「そっと整える」、「命令する」より「お手伝いする」が多用された[4]。この文体は後の文書にも影響を与えたとされるが、継承経路については研究者の意見が分かれている。
政策と事業[編集]
公衆衛生事業[編集]
厚生省が最も力を入れたのはであり、とくに井戸、便所、銭湯の三者を「都市の三点検」として巡回したことが知られている。大正末期には、からにかけての下町で「夕方六時の手洗い運動」が実施され、参加率は初年度でに達したとされる。
また、巡回看護婦による「寝具を干す角度」の指導が有名で、北向きの窓から干された蒲団は疾病抵抗力が3割向上するという報告もあった。ただし、この数字は当時の庁内にいた統計嘱託が天候記録と主観評価を混同した可能性がある[要出典]。
救貧・保険事業[編集]
社会救済分野では、の前身とされる「臨時配炭扶助」や「失職者米券」が運用された。とりわけでは、港湾労働者向けに『丈夫な靴の貸与』制度があり、返却された靴底の摩耗具合で再就労可否を判断したと伝えられる。
保険行政では、の普及とともに「病院に行く前に相談せよ」という啓発が徹底され、相談件数はに年間を超えた。もっとも、そのうち相当数は「弁当を落としたが保険で治るか」という類の問い合わせであったという。
労働保護と工場監督[編集]
労働保護局は、紡績工場や製糸工場における深夜稼働、低湿度、足踏み式換気扇の不備を重点的に監督した。とくにのある工場では、監督官が「織機の音が大きすぎて昼食が早まる」と指摘し、作業休止時間を11分延長させた記録が残る。
この種の監督は、労働安全というより「人間の疲れを数値化して可視化する」文化を生み、後の産業医制度の基礎になったとする説もある。もっとも、同局の職員が現場で最も頻繁に測っていたのは気温ではなく茶の濃さであった。
官僚文化[編集]
厚生省の官僚文化は、他省庁よりも現場志向である一方、やたらと温情的な稟議が特徴であったとされる。たとえば、災害被災地への救援物資決裁書には「乾パンは堅いので、できれば水も添付」といった注記が平然と書き込まれていた。
また、同省ではからまでの昇進試験に「手当ての説明を5歳児に分かるように行う」口頭試問が含まれていたという。これに合格した者は、住民説明会で妙に説得力があることから「人情課長」と呼ばれた[5]。
なお、庁内には「午前中に白衣を着ると午後の文書が通る」という俗信があり、実際に白衣着用日に承認率が上がったとする統計が残るが、当時の職員配置との因果関係は不明である。
批判と論争[編集]
厚生省は、設立当初から「救済と監督を同じ役所が担うのは権力過多である」と批判された。とくにの一部法学者は、衛生指導の名目で私生活に介入する傾向を問題視し、「石鹸の配布は善意だが、香りの成分まで審査するのは越権である」と述べたとされる。
また、戦時下の再編期には、健康判定が勤労適性に直結したことで、地方の診療所が事実上の人事査定機関になったとの批判があった。これに対し厚生省側は「人を減らすためではなく、無理に倒れさせないためである」と反論したが、説得力はあまりなかったという。
さらに、の庁舎改修工事では、地下倉庫から未整理の「湯治奨励ポスター」および「麦飯週間」の木版が大量に見つかり、同省の政策がどこまで実際に実施されていたのかをめぐって議論が続いた。史料の一部は湿気で判読不能であり、研究の難所とされる。
影響[編集]
厚生省の制度設計は、の戦後行政におけるとの分離に大きな影響を与えたとされる。なかでも、相談窓口を一つにまとめる「総合保健案内」の発想は、のちの市役所健康相談室や地域包括支援の原型になったと評価されている。
一方で、同省が残した「健康は配給されるものではなく、整えるものである」というスローガンは、戦後の生活改善運動に長く引用された。これにより、、、の三領域が相互接続され、行政が家庭の台所にまで目を向ける契機になったとも言われる。
学術的には、厚生省は「福祉国家」ではなく「衛生国家」の先行モデルとみなされることが多い。ただし、同時代の官僚が実際に何を考えていたかについては証言が食い違っており、「腹が減ると会議が長くなるので、先に麦飯を配っただけ」という、身も蓋もない回顧録も存在する[6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『厚生行政整理法案の研究』内務省行政資料刊行会, 1913, pp. 14-39.
- ^ 杉本園子『大正期都市衛生の官僚制』岩波書店, 1928, pp. 201-248.
- ^ 北川宗一『公衆浴場と国家監督』東京大学出版会, 1934, pp. 55-103.
- ^ Minoru Hayashi, "The Welfare Ministry and Urban Sanitation in Early Japan," Journal of Asian Bureaucratic Studies, Vol. 7, No. 2, 1961, pp. 88-117.
- ^ 山田尚人『厚生省史序説』中央公論社, 1968, pp. 9-61.
- ^ Margaret A. Thornton, "Administrative Compassion: Japanese Welfare Rationality, 1912-1948," Social Policy Review, Vol. 12, No. 4, 1979, pp. 401-436.
- ^ 厚生省編『厚生月報 第18巻第6号』厚生省印刷局, 1926, pp. 3-27.
- ^ 佐伯たみ『麦飯と白衣の政治学』生活社, 1981, pp. 112-159.
- ^ Harold P. Wexler, "Soap, Steam, and Statecraft," Public Health and Empire Quarterly, Vol. 3, No. 1, 1992, pp. 1-29.
- ^ 井上璃子『戦時厚生行政の地下史』みすず書房, 2004, pp. 77-146.
- ^ 中村善吉『健康は配給されるのか——厚生省文書再読』法律文化社, 2015, pp. 5-44.
外部リンク
- 厚生行政史アーカイブ
- 麹町官庁街資料室
- 昭和公衆衛生文書庫
- 白衣と稟議の博物館
- 日本行政衛生史研究会