このお話には続きがある
| 分野 | 物語論・メディア論・コミュニケーション技法 |
|---|---|
| 主な用途 | 終端の引き・次回予告・継続購読の動機付け |
| 発生時期(仮説) | 19世紀末の講談・活歴史劇界隈 |
| 中心媒体 | 紙芝居、ラジオ、テレビの連続番組 |
| 関連概念 | 引き(フック)、引き延ばし、クリフハンガー |
| 特徴 | 断定形で期待を固定し、心理的残差を残す |
| 研究の対象 | 注意持続・離脱抑制・継続率 |
このお話には続きがある(このおはなしにはつづきがある)は、物語の終端や説明の区切りに用いられる“引き”の定型句である。視聴者や読者に続編の期待を植え付ける技法として、広告運用・教育コンテンツ・大衆芸能に応用されてきたとされる[1]。
概要[編集]
このお話には続きがあるは、物語や説明が一度“終わったように見える”瞬間に、次の展開の存在を示す定型句として理解されている。文面上は短いが、受け手の注意と記憶を次回へ移すための心理トリガーとして働くとされる。
定型句の成立は、講談や寄席の進行管理に端を発すると説明されることが多い。特に「観客の席を立たせない」ことが実務上の課題になった場面で、出演者は話の区切りに“続き”を宣言し、手拍子や笑いの余韻を回収する必要があったとされる。一方で、宣言が過剰になると視聴者の不信感を招くため、どの程度の密度で投入するかが論点となった。
現代では、テレビの制作現場や企業の番組型広報、さらには学習教材のチャプター設計に至るまで、注意の維持と継続率の両立を狙う技法として運用されているとされる。もっとも、運用ルールは必ずしも科学的に統一されておらず、現場ごとに“体感比率”が共有されてきたとも指摘されている。
歴史[編集]
講談・寄席からの誕生(続きと言い切る統治)[編集]
このお話には続きがあるという語感が定型として整えられたのは、明治末の都市寄席であるとする説がある。東京の周辺では、夜の興行が2部制で運用されており、1部終了の時点で観客が飲食店へ流れる「流動損」が問題になったとされる。そこで1902年ごろ、名題の講談師が“続きがある”を毎回の幕間に差し込み、離席を遅らせる実験を行ったとされる[2]。
史料としてしばしば引かれるのは、にあったとされる簡易台本の断片である。そこには「第7段(推定18分)で『このお話には続きがある』を3回繰り返せ。繰り返し間隔は呼吸1回分、声量は7割に抑える」といった、いかにも現場的な指示が記されているとされる。ただし当該台本は断片であり、真偽の検討が続いている。
また、同時期に発達した活歴史劇でも似た運用があったとされる。役者は引きの言葉を“言い切り”にすることで、聴衆が「たぶん続く」から「続くに違いない」へと期待を固定できると考えたとされる。なお、固定の理屈は心理学というより、商売の見積もり(次回の来場者数)に直結していたとも言われる。
テレビ時代の制度化(継続率の計測という呪い)[編集]
戦後の放送では、次回予告が法的な規制や放送枠の都合で“言い回しの統一”を迫られたとされる。その結果、「このお話には続きがある」は、や地方局の番組運営内で“汎用エンディング宣言”として整理されたと説明されることが多い。
1958年、の制作会社が行った社内報告では、視聴者の離脱率が「終了5秒前に“続き”を明示するか否か」で約12.4%変わったと記されている[3]。ここでの“5秒”は、放送事故の多かった夜間帯の音声遅延が影響している可能性があるとも注記されている。一方で同報告は、数値があまりにも綺麗に出過ぎており、後年の編集者は「測定装置が同じ街で同じ誤差を出したのではないか」との疑義を呈したという。
この時代に関わった人物として、番組調査係のがよく挙げられる。田中は“続き”を入れる位置をカット割りと同期させ、視線の戻りを誘導する運用を提案したとされる。もっとも、視聴者が慣れすぎると逆に離脱する現象も観測され、続きの頻度には「週平均2.1回」という暗黙の目安が生まれたとする説がある。
運用と技法[編集]
このお話には続きがあるは、単なる次回予告ではなく、受け手の認知残差(心に残る未完の感覚)を最大化する技法として扱われている。実務では、エンディングの前段に“情報の未回収”を仕込み、最後に短い断定を置くことで、視聴者が“続きを取りに戻る”確率を上げるとされる。
具体的には、シーン最終カットの平均長が1.7秒を下回ると断定が埋もれる一方、2.3秒を超えると間が気まずくなるという、やけに細かい経験則が共有されてきた。たとえばのローカル番組制作では、冬季の電話問い合わせが翌週まで減らなかったケースを「続きの言い切りが強かった」と説明し、字幕の速度を0.96倍に落としたという。
さらに、言葉の“語尾”が意味を持つともされる。推定や願望を含む「続くかもしれない」より、断定の「続きがある」は期待の方向を固定するため、継続率に効きやすいとされる。ただし、固定が強すぎる場合には「続きが来ない不満」が蓄積し、視聴者が“煽り”と解釈するリスクがあると指摘されている。
社会的影響[編集]
このお話には続きがあるは、娯楽の枠を超えて、商業・教育・行政のコミュニケーションにまで波及したとされる。連続番組の制作はもちろん、通販のドラマ仕立て企画でも、最後の一文に同趣旨の断定を入れることで、カタログ請求の継続率が改善したとする報告があったとされる。
教育の領域では、授業動画のチャプター設計に取り込まれた。たとえば系の研修メモとして回覧されたとされる資料では、「学習者の離脱は“終わった感”で起きるため、最後に続きの存在を明示せよ」と記され、30分教材の締めに毎回定型句を組み込んだ結果、復習率が「前期比で31.8%増」とされた[4]。
行政広報でも似た運用が試みられた。災害情報の注意喚起は形式が堅いため、最後の段落に“続き”を含めると誤解が起きやすい。しかし、のある窓口キャンペーンでは、救急講習の回数案内に「このお話には続きがある」を添えたことで、講習申込が当初計画の106.7%に達したとされる。もっとも、効果の内訳については、別要因(SNS拡散)が同時期に重なっていた可能性が指摘されている。
批判と論争[編集]
このお話には続きがあるには、継続を餌にすることで受け手の信頼を損ねるのではないか、という批判が存在する。とりわけ、続きの提供が実際には遅れたり、内容が予定と変わったりするケースでは、「続きがある」という断定が心理的負債として機能する可能性があるとされる。
論争の火種として語られるのが、制作費の都合で“続き回”が薄まった事例である。ある連続ドラマでは最終回に向けて情報が整理されず、視聴者の掲示板に「結局、続きとは何だったのか」という書き込みが増えたという。さらに一部では、編集部が意図的に次回の話題を残すために、収録の段取りを“未完成”前提で組んでいたのではないかと疑う声が上がった。
また、「続き」が広告の文脈に過剰に接続されると、娯楽の自己目的性が損なわれるという指摘もある。こうした状況に対し、用語学的には“続き”が情報ではなく、関係維持の合図として働いている可能性があるとする見解がある一方で、逆に、受け手が能動的に追うことで創作への循環が生まれると評価する意見もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『寄席台本の作法—幕間を支配する一文』東京芸能協会, 1904.
- ^ 田中三郎『放送終端の設計学—5秒で離脱を減らす』NHK編集叢書, 1961.
- ^ Margaret A. Thornton『Attention Residue in Serial Media』Journal of Broadcast Psychology, Vol.12 No.3, 1978, pp.41-59.
- ^ 小林正樹『次回予告の言語機能と効果推定』日本語メディア研究会, 1986.
- ^ Hiroshi Nakamura『Hook Density and Viewer Trust: A Field Study』International Review of Entertainment Metrics, Vol.7 No.1, 1994, pp.12-27.
- ^ 鈴木瑛子『番組型広報の終端文—継続購買を生む断定表現』広告史研究, 第5巻第2号, 2002, pp.88-103.
- ^ Ruth Calder『Pedagogical Cliffhangers and Chapter Ending Design』Studies in Learning Interfaces, Vol.19 No.4, 2011, pp.201-223.
- ^ 加藤健太『災害広報の語用論—断定が生む誤読』公的コミュニケーション年報, 第22巻第1号, 2017, pp.55-76.
- ^ 山本いろは『続きがない時代の“続き”』放送文化叢書, 2020.
- ^ E. J. Martin『The Sequel Myth: From Stagecraft to Streaming』Fictive Press, 1999, pp.1-9.
外部リンク
- 嘘文芸終端研究所
- 番組設計実験アーカイブ
- 放送言語の統計庫(非公式)
- 連載心理測定室
- 終端文ベンチマーク・ポータル