しもんと
| 名称 | しもんと |
|---|---|
| 別名 | 霜門、下門土 |
| 分類 | 仮設水路・合図装置 |
| 起源 | 1820年代ごろ |
| 発祥地 | 蝦夷地南部沿岸 |
| 主要用途 | 融雪水の分流、警報、祭礼 |
| 材質 | トドマツ、楢材、麻縄 |
| 最盛期 | 明治後期から昭和初期 |
| 現存例 | 函館市周辺の保存復元施設 3基 |
しもんと(Shimonto)は、の後期に成立したとされる、雪解け水の流路を人為的に制御するための仮設的な木製構造物である。のちにを中心に寒冷地の水利技術として普及し、同時に地域の合図文化や祭礼装置としても知られるようになった[1]。
概要[編集]
しもんとは、春先の融雪期に氷雪下の水流をいったん堰き止め、一定の角度で解放することで畑地や集落へ均等に水を配るための構造物である。外見は簡素な木組みに過ぎないが、内部には「鳴り札」と呼ばれる薄板が仕込まれ、特定の水位に達すると乾いた音を発する仕組みがあったとされる[2]。
この装置は南部の農村で実用化されたのち、やの一部にも伝わり、地域によっては災害時の避難合図として転用された。なお、しもんとは単なる治水設備ではなく、設置に際しての神職が立ち会う慣例があり、これが後年の「門を開く儀礼」と混同されたとの指摘がある[3]。
起源[編集]
蝦夷地の測量官による報告[編集]
起源は年間、の臨時測量官であった渡辺精一郎が、近郊の沢筋で観測した「雪の割れ目から突然水が立ち上がる現象」に着目したことにあるとされる。渡辺はこれを「下より門を開くに似たり」と記し、のちの名称の語源になったという説が有力である[4]。
ただし、同時代の記録にはしもんとという語は見えず、むしろ漁民の間で使われた舟引きの合図語が転用された可能性もある。この点についてはの民俗地理研究室が1958年に整理した『北辺流路雑録』がしばしば引用されるが、原本の所在は不明である。
最初の実用化[編集]
実用化は1834年ごろとみられ、の開墾地で、春先に氾濫する小川を一時的に迂回させるために3基が並設されたという。1基あたりの長さは約4.2メートル、幅1.1メートル、高さ0.9メートルで、施工には延べ17人、丸太28本、麻縄およそ62メートルを要したと伝えられる[5]。
この最初期のしもんとは、流量調整の成功率が高かった一方、鳴り札の音が想定より遠くまで響き、村境の鶏が一斉に鳴き出したため、翌年から「鶏鳴を以て設置の可否を占う」風習が追加された。これが後の祭礼化の端緒であると考えられている。
構造と機能[編集]
木組みと可動板[編集]
しもんとは、基本的に三層構造であった。最下層は雪を受け止める受板、中層は流路を切り替える羽板、上層は音を増幅する鳴り枠であり、いずれも乾燥したトドマツ材が好まれた。職人の間では、羽板の角度をに保つと水圧が安定するという経験則が共有されていた[6]。
一方で、実際には角度がでも十分機能したとする調査もあり、むしろ鳴り枠の張力の方が重要であったとされる。このため、しもんとの設計図は同じ地域でも家ごとに微妙に異なり、現存する復元例の形状差が大きい。
鳴り札による警報機能[編集]
しもんとの特徴は、融雪水の増減を音で知らせる点にあった。鳴り札は湿度が72%を超えると軋み音を発し、前後の乾いた打撃音を出したと記録されている。これにより、畑の見回りをしていない住民でも、屋内から水位の急変を把握できたという[7]。
また、年に一度の試験運転では、子どもたちが音の鳴り方で天候を占う遊びをしていた。とくにの元町地区では、鳴りが3回続くと「海霧が来る」、5回だと「その日は客が増える」とされ、商店主が半ば本気で運用していたという。
普及と変容[編集]
明治期の再評価[編集]
明治中期になると、しもんとはの地方改良事業の一環として再評価された。特にの寒冷地調査で、農商務省技師の小林実蔵が「低コストで増水時の被害を抑え、なおかつ住民の出費を儀礼費に見せかけられる」と報告したことが大きい[8]。
この頃、しもんとは単なる木工技術から、地域の合意形成を可視化する社会装置として扱われるようになった。ただし、役場の帳簿では「用排水改良木材」と一括計上され、実態把握はきわめて困難であった。
昭和初期の観光化[編集]
初期には、鉄道旅行の流行により、しもんとを見学する「寒地水利行」が流行した。特に発経由の路線では、1日あたり平均43名が見物に訪れ、駅前旅館が説明札を貸し出す商売を始めたという。これが後の「地域案内板文化」の先駆けであるとする説がある[9]。
しかし観光化はしもんとの実用性を損ない、鳴り札を派手にしすぎた結果、観光客が「祭りの山車」と誤認して列をなす事態も起きた。1932年には近郊の一基が写真撮影用に青く塗られ、以後「青しもんと事件」と呼ばれている。
社会的影響[編集]
しもんとは、農業技術であると同時に、村落内の意思決定の場でもあった。設置には水利組合、寺社関係者、若者組の三者合意が必要とされ、その手続きが長引くほど翌年の豊作祈願が盛大になったという。結果として、しもんとは「水を分ける装置」であると同時に「揉め事を先送りにする装置」として機能した[10]。
また、冬季の訓練ではしもんとの鳴りを合図に雪下ろしを開始するため、集落全体の労務配分が均一化された。これにより、過労による事故が17%減少したという村方記録が残るが、同記録には同時に「減少の理由は春が短かったため」ともあり、評価は分かれている。
戦後になると、しもんとは老朽化とコンクリート水路の普及によって急速に姿を消した。ただし、の寒地工学展で模型が再注目され、以後は民具・地域史・音響工学の交差領域として研究されるようになった。
批判と論争[編集]
しもんとをめぐっては、そもそも本当に独立した技術体系だったのかという根本的な疑義がある。民俗学者の中には、複数の小規模な堰や合図板が後世に一括して「しもんと」と呼ばれたに過ぎないとする者もいる[11]。
また、保存運動の過程で「伝統の復元」と称して新材が多用され、結果的に現存復元物の8割以上が1980年代以降の製作であることが判明した。このため一部の研究者からは「最も古いしもんとは、近年作られた案内板である」と皮肉られている。
一方で、函館市の文化財担当は、こうした雑多な再製作こそがしもんとの本質であり、むしろ変化し続けたからこそ地域に根付いたのだと反論している。2021年の公開討論会では、鳴り札の音量をめぐって出席者が測定器を取り合う一幕もあった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『北辺流路考』蝦夷地測量局, 1841年.
- ^ 小林実蔵「寒冷地における仮設水門の鳴動特性」『農商務試験報告』第12巻第3号, pp. 41-67, 1890年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Seasonal Gateworks in Northern Japan," Journal of Comparative Hydraulics, Vol. 8, No. 2, pp. 113-129, 1967.
- ^ 佐々木千代『しもんとと村落合意形成』北海道民俗研究会, 1974年.
- ^ 宮下弘文「青しもんと事件の観光史的検討」『地域文化史紀要』第21巻第1号, pp. 5-22, 1989年.
- ^ Harold P. Kinney, "Auditory Thresholds of Snowmelt Gates," Proceedings of the Northern Engineering Society, Vol. 3, pp. 201-219, 1935.
- ^ 高橋文枝『寒地の鳴る木』函館出版局, 2002年.
- ^ 北川玲子「しもんとの復元と文化財行政」『日本民具学会誌』第48巻第2号, pp. 88-104, 2011年.
- ^ 『北辺流路雑録』北海道大学民俗地理研究室, 1958年.
- ^ John E. Mallory, "The Gate That Hums in Spring," Alpine Rural Studies Review, Vol. 14, No. 1, pp. 9-31, 1999.
- ^ 田所雪枝『門を開く水――しもんとの社会史』北海学芸社, 2018年.
外部リンク
- 函館寒地民具アーカイブ
- 北海道仮設水利研究センター
- 北辺音響資料館
- しもんと保存会公式記録室
- 地域合図文化データベース