すぎなみ
| 分野 | 都市行政運用学 / 郷土記憶制度 |
|---|---|
| 成立期 | 昭和末期〜平成初期(とされる) |
| 運用主体 | 杉並区役所(当時の関連部署) |
| 関連概念 | 杉並回路 / 記憶台帳 / 反復展示 |
| 目的 | 住民の体験を「再生可能な資料」に変換すること |
| 代表的な成果 | 記憶台帳と回路型展示の整備 |
| 批判点 | 個人の語りが「行政の物語」に回収される恐れ |
すぎなみ(英: Suginami)は、において「地域の記憶」を制度化するために編み出されたとされる、独自の行政運用手法である。主に周辺で運用されたことから、俗に「区の作法」と呼ばれた[1]。
概要[編集]
すぎなみは、住民の語りや出来事を単なる地域資料として保存するのではなく、必要な場面で「同じ手続きで再現できる情報」に変換し、行政が再利用する仕組みとして説明されることが多い。特にでの実装例が目立ったことから、地名由来の呼称として定着したとされている[2]。
運用の要は「記憶台帳」と呼ばれる帳簿と、「杉並回路」と呼ばれる展示・回覧・聞き取りの循環ループである。回路は毎年度同じ曜日に回すことが推奨され、これにより住民側の抵抗感が下がるとする指導文書が複数残っている[3]。なお、すぎなみという呼称の語源は、杉(すぎ)の繁茂と並(なみ)の反復を掛けた造語だとされ、文献上は平成初期の庁内資料に初出したとされる[4]。
成立と歴史[編集]
前史:『聞いた話』が制度に変わるまで[編集]
すぎなみの起源は、昭和末期の災害対応の調整会議にまで遡ると語られることがある。ある自治体職員のメモによれば、避難所で集めた証言が翌年には失われ、「同じ質問をしているのに、同じ答えが見つからない」状態が問題視されたという[5]。
そこででは、語りをデータ化する試みとして、聞き取りのたびに「同じ絵柄の台紙(全14種類)」へ書き写す運用が導入されたとされる。ただし、台紙への転記率は初年度で61.3%にとどまり、残りは口頭で終わっていたという記録があり、関係者の間では「転記できない記憶は、記憶ではないのか」という議論まで起きたとされる[6]。この“壁”が後のすぎなみへつながった、というのが概説の定番である。
制度化:杉並回路と反復展示の導入[編集]
平成初期、区の文化行政担当部署と調整を行った外部の企画コンサルタントとして、(はやかわ しょうじ、当時は「地域学アーカイブ顧問」)の名がしばしば挙げられる。早川は、聞き取りを“貯める”のではなく“呼び出す”設計にするとよいと提案し、回覧型の台帳閲覧と展示を組み合わせた運用を組み上げたとされる[7]。
この運用は「反復展示」として説明される。反復展示では、同一テーマの展示を年2回行い、2回目は1回目の記憶台帳を閲覧した住民にだけ小さな追加観察を促す方式が採用されたとされる。追加観察の所要時間は平均7分12秒とされ、区内の小学校の放課後プログラムに組み込まれた結果、参加者アンケートの“納得感”が前期比で32ポイント上昇したと報告されている[8]。
一方で、制度化の過程では「台帳に載ると語りが軽くなる」という批判も同時に出たとされ、反復展示を支える形式のうち、文章よりも“短い選択肢”を優先させる改訂が繰り返された。ここが、いわゆる「すぎなみ」の技術的特徴だとまとめられることが多い。
運用のしくみ(実務としてのすぎなみ)[編集]
すぎなみでは、住民の体験を「出来事」「感情」「場所」「第三者の証言」を分解して記録し、後で再結合できるようにする設計が取られると説明される。分解の手順は、記憶台帳の様式(A3判・全8欄)に従うことが基本とされた[9]。
また、杉並回路は「収集→照合→再提示→再質問」の4工程から成り、工程の所要日数が細かく規定されたとされる。たとえば、収集は月初の木曜日、照合はその翌週の水曜日、再提示は同月の金曜日、再質問は翌月の第1週である、といった“曜日拘束”があったという証言がある[10]。さらに、照合時には“照合担当者の思い込みを減らすため”に、照合フォームに「自分が知っていること」を書かない欄を設けたともされる。これは理念としては合理的だが、運用担当からは「書かない欄が一番埋まる」という苦笑が出た、とも記録されている[11]。
なお、すぎなみの運用成果は数値で語られることがある。ある報告書では、記憶台帳の更新速度を「月間46.8件(標準偏差9.1)」とし、更新が滞った月にだけ特別な“草むしり研修”を実施したとされる。研修内容は比喩的に見えるが、実際には展示の裏側の養生材を定期交換する作業が含まれていたとも書かれている[12]。
社会への影響[編集]
すぎなみは、地域の記憶をめぐる行政手続きの在り方を変えたと評価されることがある。従来の“資料収集型”から“生活循環型”へと重点が移り、住民側には「自分の語りが手続きのどこに組み込まれるのか」が見えるようになったとされる[13]。
この結果、区内の公共施設における回覧板の文面が短文化され、代わりに“選択肢方式”が増えたと報告されている。具体的には、回覧文の文字数を平均で18%削減し、その分だけ写真とチェック欄を増やしたという。文字削減の背景として、「長文は読まれるが、同じ理解にならない」という反省があったとされる[14]。
また、すぎなみの波及は内の他区にも及んだとされるが、真似しようとして“曜日拘束”だけを導入した自治体は、参加者の減少に直面したとも書かれている。曜日拘束は形式の一部であり、語りの分解や再提示の設計とセットで機能する、という注意書きが附されている点が、現場の知見として興味深い[15]。
代表的な事例(“すぎなみ”が効いた瞬間)[編集]
以下は、すぎなみが話題化したとされる代表的な実装例として、個別のエピソードとともに語られるものである。
まず周辺の小規模商店街では、早朝の騒音トラブルが「誰の声か分からない」という理由で長期化していた。すぎなみの枠組みでは、出来事を時間帯ごとに分解し、感情欄に「不安」「苛立ち」「諦め」を用意したところ、意見の対立ではなく“理解のズレ”が可視化されたとされる。結果として、話し合いの回数が従来の9回から4回に減ったという報告が残る[16]。
次に、図書館の改修説明会では、住民の質問が毎回同じ方向へ流れていく問題があった。そこで再提示のタイミングで、前回台帳の“選択肢で残った理由”を先に示す方式が採用された。すると質問が減るのではなく、むしろ「初めて聞く質問」が増えたとされる。担当者はこれを「住民が問いを“保存できる”ようになったからだ」と説明したという[17]。
最後に、住宅地の防犯講習では、参加者の記憶が抽象語に偏る傾向があったため、場所欄に「曲がり角」「段差」「街灯の色」を細分化したとされる。街灯の色は計測値としては曖昧だが、現場では“青白いかどうか”を指標にして統一したと報告されている。この指標がのちに“制度の言語”として定着し、講習後の回覧文にもそのまま反映されたとされる[18]。
批判と論争[編集]
すぎなみには、個人の語りが制度化されることによる問題が指摘されている。とくに「選択肢に当てはめることで、語りの余白が消える」という批判は、複数の市民団体の意見として記録されている[19]。
また、制度が“再提示”を前提に設計されているため、参加者が都合のよい回答を学習してしまうのではないか、という懸念も語られた。ある内部資料では、参加者が初回よりも二回目で“納得感”を高く選びやすくなる傾向が見られたとしつつ、これを「適応」と呼ぶか「誘導」と呼ぶかで意見が割れたとされる[20]。要出典がつきそうな記述として、当該資料に「納得感の増分のうち、約5分の2は回答の慣れによる」とする推定があったとも言及されている[21]。
さらに、すぎなみの象徴としてしばしば語られる“草むしり研修”について、実務の負担が過大になったという反論もある。研修がなぜ必要だったのかをめぐり、「展示の裏側の養生材」を交換する合理性があったとする立場と、住民の理解を得るための演出が混ざったとする立場に分かれたとされる[22]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 杉並区総務部編『すぎなみ運用要領(改訂第三版)』杉並区役所, 1992.
- ^ 早川祥治『反復展示の設計原理:曜日拘束の合理性』日本都市記憶学会誌, Vol.12 No.3, pp.41-58, 1994.
- ^ 山崎澄人『地域の記憶が制度になるとき』東京自治研究叢書, 第7巻第1号, pp.9-27, 1996.
- ^ Margaret A. Thornton『Administrative Reenactment and Local Testimony』Journal of Civic Archives, Vol.3 No.2, pp.110-136, 1999.
- ^ 佐藤涼介『選択肢方式による語りの再提示』情報社会政策研究, Vol.18 No.4, pp.77-95, 2001.
- ^ Kiyotaka Sera『The “Suginami Circuit”: A Loop Model for Public Memory**』Public Memory Quarterly, Vol.5 No.1, pp.1-23, 2003.
- ^ 中村由佳『草むしり研修と養生材:制度の比喩を検証する』建築行政レビュー, 第10巻第2号, pp.203-221, 2005.
- ^ 田中眞紀『住民の納得感は増えるのか:二回目の質問効果』社会手続き研究, Vol.22 No.6, pp.55-73, 2007.
- ^ 早川祥治『記憶台帳の欄設計と再結合方式』学術調査報告書, 第2号, pp.12-40, 1989.
外部リンク
- 杉並回路アーカイブ(資料室)
- 記憶台帳フォーマット集
- 都市行政運用学会:すぎなみ研究会
- 反復展示ガイドライン(旧版)
- 住民参加ワークショップ記録検索