その目だれの目
| 分野 | 視線文化論・舞台表現論 |
|---|---|
| 成立時期 | 19世紀末の都市民芸の語りに遡るとされる |
| 主要モチーフ | 盗み見/見られ返し/沈黙の監視 |
| 主な媒体 | 上演脚本、口承の評、短冊詠 |
| 関連語 | 目印/視線税/問い返しの間 |
| 典型的な使用場面 | 不審な視線への即時応答 |
(そのめだれのめ)は、他者の視線を“所有”のように扱い、その出どころを問う言い回しとして記録された概念である[1]。主にの周辺で用いられ、視線をめぐる倫理や恐れを象徴する語として整理された[2]。
概要[編集]
は、誰かの視線を“現在形の証拠”として扱い、「その視線は誰のものか」と問い返す表現として説明されることが多い。説明上は、単なる比喩としても理解できる一方で、実際には視線をめぐる社会的取り決め(沈黙のルールや、返答の儀礼)を含むものとして語られてきた。
語の中心には、見られている側の「帰属推定」があるとされる。すなわち、視線が差し出されると、その視線は誰かの“役目”に接続されているはずだ、という考え方である。特に、夜の街角で一瞬遅れて返ってくる目線(いわゆる「遅延視線」)が、語りの中核として繰り返し現れたとされる[3]。
この概念は、やがて演劇の作法へと取り込まれた。舞台上で「見ている/見られている」の関係を明確にしないまま進行すると観客が不安になるため、台詞や間合いで視線の出どころを“確定”させる必要がある、とする考えが定着したのである[4]。
歴史[編集]
都市の闇と、視線の帳簿[編集]
起源としては、末期の港湾労働者の寄宿舎に由来する「目札(めふだ)」の口承がしばしば挙げられる。記録では、賃金の支払いが遅れた週に、誰が誰の“担当の見張り”かを示す小さな札が配られたという[5]。
この札は視線そのものに印をつける仕掛けであったとされ、札の表面には「視線は持ち主に返す」という簡潔な規則が刻まれていた、と説明される。とりわけ珍しいのは、港の一区画で試験導入された制度が、実働34日で中止になったという点である。中止理由は「誰も自分の目だと思わなかった」ことだったと語られる[6]。
のちに制度は自治的な遊びへと変形し、見知らぬ視線を感じた者が即座に「その目だれの目」と問い返すようになったとされる。問い返しは挑発ではなく、帰属を揃えるための合図であった、という筋書きが広まり、町内の“合意形成”の儀礼として扱われるようになった。
演劇官庁と、問い返しの間[編集]
演劇界では期の劇団連盟「全国舞台間合庁(ぜんこくぶたいまあいちょう)」が、視線の明示手順を統一しようとしていたとされる。統一基準の草案は全42条に及び、その第17条が「台詞が先行する場合、視線は1拍遅らせて返答せよ」と定めたと記されている[7]。
この条文が、のちの“遅延視線”の語りを強く補強したと解釈されている。舞台上で主人公が不審な人物を見つめ、すぐに疑いを口にすると観客が安心してしまうため、逆に1拍遅らせてから「その目だれの目」と言わせるのが効果的だった、という創作ノウハウが広まったのである。
実際に、ので上演されたとされる試作品は、観客へのアンケートが“回収率61.3%”という微妙な数字で残っている。劇場側は「恐怖の誘発ではなく、視線の出所の合意形成」に成功したと主張したが、批評家の一部は「観客を不意に“尋問”する演出」であると論じた[8]。この時期から、視線が社会制度と結びつき始めたとされる。
視線税の噂と、百貨店の監視文体[編集]
さらに滑稽な展開として、の百貨店系列で「視線税(しせんぜい)」と呼ばれる社内ルールが噂された。噂によれば、試着室で長く立ち尽くす客は“視線の滞留”が疑われ、店員が記録表に「滞留秒数」を書き込む仕組みがあったという[9]。
この記録表は、のちの創作で「だれの目がどの棚を見たか」が図式化される文法へとつながった。たとえば「視線税は年額3,200円、徴収は月末、延滞は視線で罰する」といった細かな数字が、講談や児童向け雑誌に引用されていったとされる。ただし原史料は散逸しており、当時の実在性は確証されていない[10]。
しかし、確証がなくとも語としては強い。視線が“誰かの仕事”であり得る、という前提が広まったからである。人々は不審な目線を感じたとき、「それ、店員の目かもしれない」「いや、客の目かもしれない」と推理し始める。この推理の時間が、そのまま言い回しの居場所になったと説明されている。
社会における影響[編集]
は、視線をめぐる“安心と不安の切替”の合図として機能したとされる。職場でも商店でも、相手の観察がどこまで許容されるかが曖昧な場面では、この問い返しが「線引き」を短時間で行う手続きになったのである。
また、言語の側にも影響があったとされる。街頭の聞き書き集では、視線に関する擬音語が増えたことが報告されている。たとえば「チラッ」「じろり」のような語が増える以前に、「一拍遅れて返る」「裏側から刺す」など、視線の“時間”と“方向”を説明する文型が流行したという[11]。
さらに教育現場でも、相互尊重の比喩として採用された時期があったとされる。文部官僚の会議録に似た体裁の記述では、若年層向けの短文テストに「その目だれの目」を入れる試験が提案されたが、現場は「語が難しい」という理由で“試験問題から消えた”と記されている[12]。このように、制度化の試みはしばしば中途半端なまま、口承として残ったとされる。
代表的な語り(エピソード集)[編集]
本節では、が語られる場面の典型例を、上演台本の書き起こしや町内の評から再構成した事例としてまとめる。いずれも“視線を所有する”という前提を共有しており、読者が思わず首を傾げる種類のディテールが含まれる。
まず、夜ので発生したとされる「ポケット針(ほどけた針)」事件が挙げられる。被害者は追いかけられていると思い、路地に入って3回だけ振り返った。すると3回とも、相手は見ていないのに“見ているような目”だけが戻ってきた、と証言した。そこで通行人が「その目だれの目」と問い、相手の表情が0.8秒だけ遅れて変わったため、被害者は“犯人ではない”と確信したという[13]。
次に、の古書店で行われた朗読会「沈黙の棚(しじまのたな)」である。主催者は参加者に、朗読中は自分の目を閉じて聞くよう指示したが、最後に一人だけ目を開けた人物が現れた。その人物は照明係の合図を誤解しており、結果として場が凍りついた。そこで朗読者が台詞として「その目だれの目、客の目か、店の目か」と言い、客全員が一斉に頷いたため、凍結は解除されたとされる[14]。
最後に、学校の職員室での出来事として語られる「ホワイトボードの矢印」事件がある。誰が書いたか不明な矢印がホワイトボードに描かれ、矢印はいつも「職員室の奥の椅子」に向いていた。職員は誰かの目線のトレースだと考え、「その目だれの目」を合言葉に座る位置を入れ替えた結果、矢印は描き足されなくなったという[15]。この手口は“視線の帰属を揃えると、視線は静かになる”という信念を強めたと説明される。
批判と論争[編集]
一方での考え方は、過度な監視の正当化につながり得るとして批判されてきた。視線を“持ち主”に結びつけるほど、日常の些細な観察が疑惑に変わりやすくなるからである。
特に、視線の帰属推定に依存する社会では、誤認が連鎖する危険が指摘されている。たとえば、店員の目を“監視”だと疑った客が問い返した結果、店員が反応してさらに目線が錯綜し、最終的に双方が居心地を失う、という再現性の高い失敗談が伝わっている[16]。
また、演劇への取り込みが「恐怖を設計する技法」として受け取られた点でも論争が起きた。遅延視線の1拍が、観客に特定の罪悪感を植え付ける演出ではないか、という批評が寄せられたとされる。ただし、制作側は「問い返しはむしろ安心を作るための間合い」であると反論している[17]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『視線と帰属の社会史(第1巻)』大正書房, 1926.
- ^ Martha A. Thornton『Spectatorship and the Delayed Gaze』Oxford Lantern Press, 1931.
- ^ 佐伯涼之助『演劇官庁の書記法:間合庁草案の復元』浅草学芸舎, 1938.
- ^ K. F. Morita『Whose Witness? A Semantics of Looking』Journal of Stage Semiotics, Vol.12 No.4, pp.55-73, 1964.
- ^ 小野里実『都市民芸と口承の言い回し』日本民俗協会, 1972.
- ^ Renee Calder『Taxes of Attention in Retail Spaces』Cambridge Street Studies, Vol.3 No.1, pp.9-31, 1980.
- ^ 田中鴻一『ポケット針事件の写本調査』東京文庫, 1994.
- ^ S. Nakamura『Silent Shelves: Reading Practices for Shared Fear』Kyoto Review of Performance, Vol.8 No.2, pp.101-118, 2002.
- ^ 井上雅紀『視線の帳簿—目札制度の42条』港湾史叢書, 2007.
- ^ (書名の一部が誤植されているとされる)『その目だれの目:遅延視線の文化装置』名もなき編集部, 1951.
外部リンク
- 視線文化アーカイブ
- 浅草演劇間合データベース
- 港湾寄宿舎目札資料室
- 遅延視線図書館
- 監視文体研究フォーラム