だもんもん
| 氏名 | だもん もん |
|---|---|
| ふりがな | だもん もん |
| 生年月日 | |
| 出生地 | |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 奇譚蒐集家・民間語彙学研究者 |
| 活動期間 | 〜 |
| 主な業績 | 「だもんもん辞典体系」の整備、温度付き語彙記録法の普及 |
| 受賞歴 | 帝都民俗学会賞(1932年)ほか |
だもん もん(だもん もん、 - )は、の奇譚蒐集家である。とくに“口の体温を測る”民間語彙学の先駆者として広く知られる[1]。
概要[編集]
だもん もんは、における“音の履歴”を記録する民間学の体系化者として知られる人物である[2]。
「だもんもん」は、彼が収集した方言怪談の合いの手に由来するとされ、のちに口承文化の研究者や学校教育にまで波及したと説明される[3]。
彼の方法は、単なる聞き取りに留まらず、語り手の呼気の温度を紙片の変色で推定するという、当時としては突飛な計測手順を含んでいたとされる。もっとも、これらの記述の一部は、後年の編集者が“もっともらしく見せる”ために加筆した疑いも指摘されている[4]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
だもん もんはに生まれた。漁師町の裏手で育ち、冬になると語り部が客に酒を注ぐ前に必ず唱える合い言葉があったと、本人の手稿に記されている[5]。
手稿の巻頭には、幼少期から数え続けた“うなり声の回数”が表形式で残されている。そこでは、潮の引き具合と関連づけて、満潮前の「だもんもん」合いの手が平均で繰り返されるとされていた[6]。
この数字は整合性が薄いとしても、彼が言葉を「回数」と「温度」に分解して観察する癖を早くから持っていたことを示す材料と考えられている。
青年期[編集]
、だもん もんはで開かれた臨時講習会に参加し、古書店主のに師事したとされる[7]。
山川は、怪談を“話の面白さ”だけでなく“伝達の条件”として扱うべきだと説いた人物である。だもん もんはこれを受け、寺子屋の教員たちが口伝を早口にするほど話の継続率が下がる現象を調べ、聴衆が離脱するまでの時間を単位で記録したと書かれている[8]。
なお、当時の記録帳は、後に紛失したという説明が多い。一方で、函館の親族が保管していたという複製帳がの古物商を経て学会に提出されたという伝聞もある[9]。
活動期[編集]
、だもん もんはで「口温記録法」の試作を開始した。紙片に塩化コバルト系の発色材を塗布し、語りの直後に変色の濃度を色見本と照合する手順であったとされる[10]。
この手法は、のちに「だもんもん辞典体系」と呼ばれる整理に結びついた。彼は語彙を、(1)合いの手、(2)呼びかけ、(3)沈黙の区間、の三類型に分け、各語に“口温係数”を割り当てたと主張した[11]。
には、帝都周縁で集めたの語例をとしてまとめ、図版付きの投稿をへ行ったとされる[12]。もっとも、会報の記載によれば提出はで、のちに“1件だけ反響が異常だった”として追補されたという矛盾がある[13]。
、彼は帝都民俗学会賞を受賞したが、授賞理由としては「計測よりも、言葉を継承する態度が教育的であったため」と記録されている[14]。この評価には、計測の妥当性を疑う声も同時に含まれていたとされる。
晩年と死去[編集]
、だもん もんは持病のため現地調査を縮小し、の親族宅で分類作業に専念したとされる[15]。
晩年の彼は「だもんもんとは、言葉が“まだ生きている”合図である」と語ったと伝えられる。さらに、最晩期には、語り手が息を吸う前の沈黙を正確に測ろうとして、振り子時計を自作し、沈黙が平均であるとメモしたとされる[16]。
、だもん もんはにで死去した。死因は“呼吸器の衰弱”とされるが、本人のノートには「発色材の粉末を吸い込んだ可能性」といった反省が残っているとされる[17]。
人物[編集]
だもん もんは、礼儀正しく、初対面でも相手の方言を奪わないことで知られた。彼は聞き取りの際、必ず語り手に「同じ声で、もう一度」と頼むより先に、語り手が気持ちよい回数だけ繰り返せるよう場を整えたとされる[18]。
性格面では、几帳面である一方、数字に執着しすぎる傾向もあったと記録されている。たとえば彼の机には、色見本だけでなく「湿度の想定値」が書かれた小箱が並び、北海道の春先には発色材が“青緑に寄る”ため記録の補正係数をにするべきだと書いてあったとされる[19]。
逸話としては、学会の懇親会で誰かが早口で話を始めた際、彼がすかさず席を立ち、会場の廊下の温度を測りに行ったという話が残る。結果として彼は「今は録れない声だ」と言い切ったとされ、笑い話として伝播した[20]。
業績・作品[編集]
だもん もんの業績の中心は、口承怪談の収集を“辞典”の形に整えることにあった。彼は単語を見出しにするだけでなく、語りの条件(沈黙、合いの手、呼気)までを記録する形式を提案したとされる[21]。
代表的な著作としては『』が挙げられる。そこでは語彙を「反響の起点」「口温係数」「言い淀みの区間」の三要素で記述するとされ、当時の研究者に“索引の新しい作法”として受け止められた[22]。
また、随筆『沈黙の地図』では、語りが途切れる場所を地名に見立てて散歩し、前後の空気の澄み具合と語りの再開率を結びつけたと書かれている[23]。
さらに、教育現場向けの小冊子『黒板の合いの手』では、授業中の合図として「だもんもん」を使うことを推奨し、若い教員たちの間で一時的に流行したとされる[24]。この流行は後に“授業用の呪文”として批判を呼び、の改訂では推奨が弱められたと説明されている[25]。
後世の評価[編集]
だもん もんの評価は研究者の間で割れている。肯定的な立場では、彼が言葉を生活の機能として捉え、語りの条件を含めた記録法を残した点が重視される[26]。
一方で批判的な立場では、彼の計測手順が再現性に乏しいこと、また一部の数値が後年の整形によって“物語として整ってしまった”可能性があることが指摘されている。特に、に学会へ提出された温度データは、当時の気象記録と一致しない地域があるとされ、信頼性に疑問が呈された[27]。
ただし、こうした疑義があるにもかかわらず、彼の“辞典の書き方”は民俗学だけでなく言語教育の資料作成にも影響したと評価されている。結果として「だもんもん」は、語彙学の専門用語としてだけでなく、口承文化を守る合図として残ったとされる。
系譜・家族[編集]
だもん もんの家系は、函館の漁家から学芸志向へ転じたと伝えられている。父は海難記録を写す役を担ったとされ、母は寺の手習いを手伝っていたとされる[28]。
彼には子が一人おり、長男のは早くに家を出ての印刷所で校正に携わったという。だもん すんは、父の手稿を整理する過程で語順を整え、索引の見出しを統一したと説明される[29]。
この編集方針が、のちの“数値の矛盾”を生み出したのではないかという見方もある。すなわち、現地の記録にない補正が、出版の都合でなされた可能性があるとされる[30]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ だもん もん『だもんもん辞典体系』帝都書房, 1931年.
- ^ 佐倉 貞治「口温記録法の成立過程」『日本民俗学叢書』第4巻第2号, 1929年, pp. 41-63.
- ^ Margaret A. Thornton『Indexing Oral Traditions in Meiji-Era Japan』Cambridge Folklore Press, 1937年, Vol. 12, pp. 201-219.
- ^ 山川 茂雄『怪談は条件で変わる』函館学藝館, 1905年.
- ^ 小林 端之「沈黙の計測と語彙の保存」『言語工芸研究』第9巻第1号, 1933年, pp. 12-33.
- ^ 帝都民俗学会編『会報 第十八号』帝都民俗学会, 1918年.
- ^ Ryoji Nakamura「On the so-called Damonmon phrasebook tradition」『Journal of Applied Ethnography』Vol. 3, No. 7, 1938年, pp. 77-95.
- ^ 吉田 琴音『黒板の合いの手 教育現場の小道具』北国教育出版, 1936年.
- ^ 高橋 秀信「温度データ再考—だもんもん辞典体系の矛盾」『気象と民俗』第2巻第4号, 1941年, pp. 5-27.
- ^ 編集部『民間語彙学の巨匠たち:続』東京書林, 1952年.
外部リンク
- だもんもん蒐集資料館
- 帝都民俗学会アーカイブ
- 口温記録法データベース
- 沈黙の地図オンライン閲覧室
- 黒板の合いの手教材倉庫