なぁしてんねんの乱
| 時期 | 西暦1400年代後半〜1500年代初頭(諸説あり) |
|---|---|
| 地域 | 周縁を中心とする畿内一帯 |
| 性格 | 商人ギルドと寄合衆が交錯した都市型騒乱 |
| 発端 | 米の計量方式と“口銭”の改定をめぐる対立 |
| 主要勢力 | 系の計量役人/寄合衆の自警団 |
| 決着 | 和議のように見える“数年の懲罰分割”で実質的に終息とされる |
| 別名 | 十年延長騒乱、念押し和議の乱 |
(なぁしてんねんのらん)は、関西圏の民間伝承と一部の古文書に現れる“長期騒乱”である。乱の名は、参与者が同じ調子で繰り返したという合図「なぁ、してんねん」に由来するとされている[1]。
概要[編集]
は、畿内の商都で起きたとされる混乱を、後年の語り部が“気分”としてまとめたものだと考えられている[1]。
当該期に米相場の記録簿が一部欠落している点から、当初は短期の暴動として始まりながら、計量と徴収の実務が絡むことで“終わらない調整”に膨らんだとする説がある[2]。なお、合図のフレーズ「なぁ、してんねん」は、交渉の場で相手の返答が曖昧になるたびに繰り返されたとされる[3]。
記録の残り方には偏りがあり、周辺の筆耕に近い書式が多いことから、宮司側の写しが“都合よく整えられた”可能性が指摘されている[4]。一方で、当時の帳簿様式と照合すると完全一致する項目もあり、単なる伝説ではないとする見方もある[5]。
成立と呼称[編集]
「してんねん」が合図になった経緯[編集]
乱の名前は、参与者の間で広まった言い回し「なぁ、してんねん」に由来するとされる[6]。この語が“命令”ではなく“催促のリズム”として機能した点が特徴であると説明されることが多い。
具体的には、米座の計量場で計量役が天秤を振るたびに「なぁ、してんねん」と声を伸ばし、その直後に“加銭の有無”を確認する慣行があった、という筋書きが古文書の注記にある[7]。もっとも、同じ合図が別地域の寄合でも聞かれたという証言もあり、地域共通の訛りが乱名を押し固めた可能性がある[8]。
公式記録が少ない理由[編集]
では、揉め事が起きると写しの回覧が必ず行われる建前があったとされる[9]。それにもかかわらず、相場記録の該当年に“墨の上書き”が多いことが問題視されている。
ある調査では、欠落箇所の端に同じ指紋のような“擦れ”が見つかったとされ、筆耕の係が意図的に情報を整形したのではないかと推定されている[10]。なお、墨が乾く前に熱い湯をかけて筆致を均す手法が当時の手習いで知られていたという指摘もあり、技術面の偶然を主張する研究者もいる[11]。
詳細:対立構造と出来事[編集]
発端:計量単位の“揺れ”[編集]
紛争の発端は、米の計量単位が「一斗」に統一されたものの、現場では“斗桝の返し”の取り方が数人で異なった点にあるとされる[12]。
記録断片では、違いは「わずか3分(約0.9%)」と書かれているが、当時の月間取引量が一説に流域経由で“少なくとも12,640斗”規模であったため、差分が口銭へ波及したと説明される[13]。
このズレが放置されると、米座が得る手数料の取り分が誰かに寄ることになる。そこで寄合衆側は、天秤の確認を“毎朝7刻目”に固定するよう求めたが、米座側は「計量は相場の体温に合わせるべき」と反論したとされる[14]。
中盤:寄合衆の自警組と“分割の懲罰”[編集]
乱が拡大したのは、自警組が“監視”から“取替”へ踏み込んだ時期であると整理されている[15]。具体的には、寄合衆が夜間に近くの帳場の鍵を「3つの番号」で管理し、合議に反する人物を“翌月分の徴収から1枚ずつ外す”方式で抑えたとする伝承がある[16]。
もっとも、その分割が長期化し、結果として騒乱が「なぁしてんねん(言われたことを、してんねん)」という繰り返しの合図として固定化した、という筋書きが語られている[17]。
この仕組みを取りまとめた人物として、の下級書記・(わかばやし けんぱちろう)なる人物名が挙げられることがある。彼は禁裏や幕府の役職とは無縁だったとされる一方で、寺子屋の筆算に通じていたとも言及される[18]。
終盤:和議の“見せ方”[編集]
終結は突然の鎮静ではなく、“和議に見えるが手触りは残す”処置であったとされる[19]。ある写本では、和議条項が「全27条」で、うち“実質”があるのは9条だけだったと記されている[20]。
残りの18条は、表向きには謝罪と儀礼で構成され、裏向きには計量棒の修繕費を誰が負担するかを定める内容だったとされる[21]。ただし、謝罪儀礼の参加者名簿にだけ文字の字体が変わっているため、条文の書式が後から差し替えられた可能性がある[22]。
この“見せ方”がのちに語り継がれ、乱名が「十年延長騒乱」と言い換えられるきっかけになった、という解釈がある[23]。
社会的影響[編集]
は、単なる暴動ではなく、都市の会計実務の標準化を促した出来事として語られることが多い[24]。
とくに、寄合衆側が主張した「確認の時刻固定」は、後年のの書式に“監査のリズム”として取り込まれたとされる[25]。ただし、その結果として、商人は“いつでも検査されうる”状態に慣らされ、交渉が感情ではなく手順に寄っていったという批判もある[26]。
また、乱の処理に関わったとされる寺社の筆耕が、以後の相場記録の複製を担うようになり、における情報流通の中心が“市場”から“写しの工房”へ移ったとの見立てがある[27]。なお、この移行が情報格差を生んだことは、周辺村落の年貢見通しに影響したとも推測されている[28]。
批判と論争[編集]
論争の中心は、「乱が実際に起きたのか」「起きたとして、どこまでが同一事件なのか」にある[29]。
一部の研究者は、写本の欠落箇所が多いことを根拠に、異なる小競り合いが後から“一本の物語”に統合された可能性を指摘する[30]。また、乱名の合図があまりに流暢で民衆歌謡的であるため、編集段階で節回しが整えられたのではないかとする見方もある[31]。
一方で、当時の計量用具に残る摩耗方向が統一されていたとの報告があり、少なくとも「同じ計量場」をめぐる衝突が複数年続いたのは事実に近い、という意見もある[32]。
さらに、終結年として提示される期の1か月が、別史料では“7日だけ前後”している点が問題視されている[33]。これについては、写本の計算が“旧暦の数え方”で取り違えられたという技術的説明があるが、故意に疑わせる編集であった可能性も捨てきれないとされる[34]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 若林兼学「『なぁしてんねんの乱』と計量慣行の連動」『大阪史料学研究』第12巻第3号, 1932年, pp. 41-88.
- ^ 田中玄次「斗桝の“返し”に関する地域差の推定」『関西計量史雑誌』Vol. 5, 1941年, pp. 12-29.
- ^ L. H. Morgan「Arboreal Accounting and Urban Disorder in Late Medieval Kansai」『Journal of Comparative Ledger Studies』Vol. 18, No. 2, 1976年, pp. 201-233.
- ^ 【大坂米座】史料編纂委員会『大坂米座年次写本集(仮)』大坂市史料館出版, 1987年.
- ^ 渡辺精一郎「監査の“リズム”が共同体に与える圧力」『会計慣習論叢』第9巻第1号, 1994年, pp. 77-104.
- ^ 藤原梓「堂島帳場の鍵管理と夜間実務」『近世市場の治安』第2号, 2001年, pp. 55-93.
- ^ Eri K. Halloway「Ritual Apologies as Governance Tools」『Sociology of Procedure』Vol. 23, 2010年, pp. 11-46.
- ^ 丸山律子「墨の上書きにみる写本編集の技法」『文献学技術年報』第6巻第4号, 2018年, pp. 145-172.
- ^ 佐伯直人『都市型騒乱の“終わり方”』京都叢書, 2022年, pp. 3-19.
- ^ 小寺隆之「十年延長騒乱の条文構造(全27条の検討)」『和議文書の研究』第1巻第1号, 1969年, pp. 1-20(ただし本文の引用年に誤りがあると指摘されている).
外部リンク
- 大坂史料館・デジタル筆跡図書室
- 関西計量史アーカイブ
- 堂島帳場再現展示(仮)
- 都市手続き研究ネットワーク
- 写本編集技術ポータル