離婚の乱
| 発生時期 | 永禄年間から天正初年にかけて |
|---|---|
| 発生地 | 相模国・武蔵国を中心とする関東一円 |
| 原因 | 縁切り札の乱発、寺社離縁証文の濫用、仲人同士の対立 |
| 関係者 | 北条氏家中の書記、鎌倉の寺院奉行、婚姻仲介業者 |
| 影響 | 婚姻台帳の整備、離縁手数料の定額化、家紋の共有規定の整備 |
| 別名 | 関東離縁騒動、婚姻改正一揆 |
| 文献上の初出 | 『武州家政雑記』天正7年条 |
離婚の乱(りこんのらん、英: Rikon no Ran)は、末期ので流行したとされる、婚姻関係の解消をめぐる一連の法的・儀礼的混乱である。のちにの家政統制に影響を与えたとされ、民俗学・法制史の双方でしばしば言及される[1]。
概要[編集]
離婚の乱は、婚姻の成立よりも解消の手続きが先に制度化してしまった結果、各地で離縁の権限をめぐる争いが連鎖した現象であるとされる。単なる私闘ではなく、寺社の証文、武家の家訓、町方の仲裁慣行が複雑に絡み、のちの期の離縁制度の原型になったという説が有力である[2]。
名称に「乱」と付くが、実際には大規模な合戦が中心だったわけではなく、むしろ縁談帳・離縁状・媒酌料の返還をめぐる訴訟が連日のように続いたことから、当時の記録係が半ば揶揄して呼んだものとみられている。なお、の周辺で配布されたとされる「別れ紙」は、現存最古級の離縁補助文書として民俗史上しばしば参照される[3]。
歴史[編集]
発端[編集]
発端は11年、の豪商・が、婚姻継続の条件として「年に二度の別居権」を要求したことにあるとされる。これに対し、相手方の一族がへ「関係不履行の誓紙」を奉じたことで、周辺の商家が同様の文書を求め始め、離縁手続きの相場が急騰した。
の記録では、同年だけで離縁相談が前月比3.8倍、証文作成のための墨代が通常の2.4倍に達したとされる。もっとも、この統計は後世のがまとめたもので、基礎資料の多くに欠落があるため、実数はさらに多かった可能性がある。
拡大と制度化[編集]
2年には、の数か村で「縁切りの順番待ち」が発生し、仲人が整理券を配るという珍事まで起きた。これを受けての家中では、離縁に必要な証人を3名から5名へ増やす通達が出され、かえって証人商売が成立したと伝えられる。
一方でから流入した「再縁優先法」により、離縁後30日以内の再婚を奨励する町も現れた。これが婚姻の流動化を促し、結果として女性側が持参した針箱や簪の返還範囲をめぐる細則が増殖した。離婚の乱の本質は、感情のもつれではなく、契約文言の解釈権を誰が握るかにあったとする見方が強い。
終息と余波[編集]
5年、の諸寺が合同で「縁切り格式」を制定したことにより、騒動は次第に沈静化した。ただし、この格式には「夫婦が互いに豆腐を切る際の包丁を共有してはならない」といった条項が含まれていたとされ、後代の研究者を悩ませている。
終息後も、離縁状に朱印を押す位置をめぐる様式論争は初期まで尾を引いた。また、離婚の乱を経験した町方文書には、離縁を「関係の破綻」ではなく「戸籍の再配分」と記す例が増え、近世家族観の形成に少なからぬ影響を与えたとされる。
制度的背景[編集]
離婚の乱が拡大した背景には、中世後期の婚姻が情緒的結合よりも家産管理の単位として扱われていた事情がある。とくにでは、夫婦関係の解消が所領の名義変更、奉公人の再配置、台所帳の書き換えと直結していたため、離縁は行政行為に近い重みを持っていた。
また、が発行する離縁証文には、祈祷料とは別に「縁戻し保証金」が付されたものがあり、これが当時の僧侶の副収入になっていたとの指摘がある。もっとも、いくつかの写本では保証金の欄に米俵ではなく干瓢の個数が記されており、地域差が極端であったことがうかがえる[4]。
主要人物[編集]
離婚の乱に関わった人物としては、のほか、離縁証文の様式を統一したとされる、仲人組合を束ねたなどが知られる。いずれも史料ごとに評価が割れ、改革者とも便乗商人とも記される。
特筆すべきは、の写本にのみ現れる女房役人である。彼女は離縁の口実を十六条に分類し、「米の炊き上がりが固い」「義母の足袋が南北で揃わない」などの細目を査定したとされるが、同時代史料での裏付けは乏しい。
社会への影響[編集]
離婚の乱は、婚姻の当事者だけでなく、文書作成・判定・仲裁にかかわる周辺職能を生み出した。たとえばの下に置かれた「縁談目付」は、年間約1,200件の相談を処理し、そのうち4割近くが印鑑の擦れ具合を理由に差し戻されたという。
また、当時の流行歌には「別れても名は残る、証文だけが先に行く」という句が広まり、これがの一類型になったとする説がある。後世の結婚観に与えた影響は小さくないが、同時に「離縁の作法」を過度に様式化したことで、感情の処理が儀礼に回収されすぎたという批判もある。
批判と論争[編集]
近代以降、離婚の乱を実在の政治事件とみなすか、家政慣行の比喩としてみなすかで議論が分かれている。のは、これは「関東の婚姻法制を後世が戦乱化して語ったもの」と主張した。一方で系の研究では、複数の寺社文書が一致して「乱」の語を用いることから、少なくとも制度危機としての実体はあったとされる。
なお、1987年にが公開した離縁状コレクションのうち、3点に同じ花押が使い回されていることが判明し、一部の研究者は「書記の癖が先にあったのではないか」と指摘した。この点は今なお要出典とされやすい。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 真鍋俊介『中世関東の縁組と離縁』東京法制出版, 1978.
- ^ 法泉院妙桂『別れ紙の書式研究』地方史料社, 1959.
- ^ 田所みどり『婚姻台帳の成立』日本民俗学会誌, Vol. 14, No. 2, pp. 41-68, 1963.
- ^ K. H. Morley, “Ritual Separation and the Northern Kanto Household,” Journal of Asian Legal History, Vol. 8, No. 1, pp. 113-139, 1981.
- ^ 榊原宗一『北条家中における離縁手続の実際』関東史料叢書, 第3巻, 1991.
- ^ 高瀬一馬『離婚の乱と証文経済』法と村落, 第22号, pp. 7-29, 2004.
- ^ M. A. Thornton, “Marital Dissolution as Administrative Practice in Sengoku Japan,” Transactions of the Comparative Family Institute, Vol. 5, pp. 201-227, 2008.
- ^ 久保田庄左衛門『仲人組合覚書』武州文庫, 1884.
- ^ 神奈川県立歴史博物館編『離縁状と朱印の変遷』展示図録, 1987.
- ^ 村上志津子『干瓢で払う保証金—関東離縁文化の周辺』民俗と生活, 第31巻第4号, pp. 89-101, 2016.
外部リンク
- 武州家政文書データベース
- 関東中世婚姻史研究会
- 離縁状アーカイブス
- 神奈川県立歴史博物館デジタル展示
- 婚姻法制史フォーラム