にぐとん
| 起源 | 昭和初期の東京湾岸部とされる |
|---|---|
| 分類 | 穀類発酵食品 / 民間保存技術 |
| 主原料 | 米ぬか、麦芽、塩、黒糖 |
| 考案者 | 渡辺精一郎ほか数名とされる |
| 流行期 | 1934年 - 1958年 |
| 名称の由来 | 保存樽の鳴動音から転じたとされる |
| 中心地 | 東京都港区芝浦、神奈川県横浜市鶴見区 |
| 派生物 | にぐとん汁、半にぐとん、白にぐとん |
にぐとんは、の一部地域で発達したとされる、発酵性の高い穀類加工技術およびそれに付随する民間料理体系である。もとは初期の周辺で、保存食の変質を抑えるために考案されたとされる[1]。
概要[編集]
にぐとんは、発酵させた穀類の粘性と香味を利用し、保存性と満腹感を両立させる目的で作られたとされる加工食品である。一般には「にぐとん粉」を水で練って用いる形が知られているが、実際には樽仕込み、板焼き、団子状のまま蒸す方法など、地域によってかなり差があった。
名称は、仕込み桶を揺らした際に底板が「にぐ、どん」と鳴ったことに由来するという説が有力である。ただし、の『東京湾岸食習俗調査報告』では、当時の職人たちが意図的に音感のよい商品名として広めた可能性が示唆されている[2]。
成立史[編集]
港湾労働と保存食の改良[編集]
にぐとんの原型は、初期の湾岸で働く荷役労働者向けに、短時間で高カロリーを確保するために考案されたとされる。当時のの衛生記録には、1932年の夏季に「湿潤穀粉の異臭」に関する苦情が月間47件に達したことが記されており、これが改良の契機になったという[3]。
特にの倉庫街では、米ぬかに麦芽を加えて軽く糖化させた半発酵生地を、帆布袋に入れて海風に晒す方法が広まった。海霧の塩分が自然の調味料として働いたとされ、のちに「塩いらずのにぐとん」と呼ばれた。
この工程を最初に標準化したのが、元・製粉技師のであるとする説が有名である。彼はの下請け調査員だったが、正式な報告書ではなく、私製の手引き『にぐとん整法十二則』をに配布したとされる。
横浜型と東京型[編集]
にぐとんはに伝わる過程で性質が変化し、より甘味の強い「横浜型」が成立した。これはの外国人居留地周辺で、黒糖と輸入麦芽が手に入りやすかったためと説明されることが多い。
一方、東京型は粘度が高く、焼成後にひび割れしにくいのが特徴であった。1938年時点で、品評会に出品された42点のうち、東京型は「噛み切る際の抵抗値が均一である」として17点が入賞している[4]。なお、この抵抗値は当時の試験員が竹串を刺して勘で判定しており、学術的にはかなり怪しい。
この両系統の競合は、のちに「にぐとん南北論争」と呼ばれた。実際には味の違いよりも、包装紙の色と商標の書体をめぐる対立が大きかったとされる。
標準化と普及[編集]
戦後になると、にぐとんは学校給食への応用が試みられ、の栄養改善委員会でも数度議題に上った。しかし、1949年の試験導入では、児童の約11.8%が「口の中でやや鳴る」と回答し、採用は限定的だった。
それでもの一部の公立中学校では、冬季の補助食として1960年代まで提供が続いたとされる。特にの臨海部では、蒸籠で温め直したにぐとんに味噌だれをかける「回転式給食」が存在し、1学年あたり平均3.4回の特別行事食として記録されている[5]。
また、1963年にはが暫定規格「NF-63号」を発行し、にぐとん粉の粒径、塩分、発酵温度の管理基準を定めた。ここで初めて「家庭向け」「業務用」「祭礼用」の三区分が導入されたが、祭礼用は実質的に神輿担ぎの際の賄いとして扱われた。
製法[編集]
基本製法は、米ぬかと麦芽を一晩浸水させ、翌朝に塩と黒糖を合わせて三段階で攪拌するものである。理想的な発酵温度は〜度とされ、これを外れると「ぬるにぐとん」「焦げにぐとん」になると伝えられる。
仕上げには、木槌で7回、左回りに3回、最後に右回りに1回だけ軽く叩くのが正式とされる。これは発酵を均一化するためという説明があるが、実際には壺の所有者を見分ける印付けだったとも言われる。
家庭向けの簡易版では、を少量加えて練り上げる「白にぐとん」が人気を集めた。1967年の『家庭と火曜日』誌によれば、白にぐとんは「見た目が上品で、来客に出しても怪しまれにくい」と評されたという。
地域的展開[編集]
芝浦系[編集]
芝浦系は最も古い系統で、海風による乾燥を前提にしていたため、表面がやや硬く仕上がる。倉庫番たちはこれを「板に乗せたまま一晩で完成する奇跡」と呼び、深夜の荷役後に焼酎と合わせて食べたとされる。
の古い食堂記録では、1951年に芝浦系にぐとんを常備する店が13軒確認されている。そのうち2軒は、常連客が音を頼りに焼き上がりを判断していたため、厨房に小さな共鳴板が設置されていた。
鶴見系[編集]
鶴見系は甘味が強く、黒糖の香りが立つことから、子ども向けに発展したとされる。特に沿いの市場では、屋台が「にぐとん飴」として薄く焼いたものを棒に巻きつけ、1本8円で販売した記録が残る[6]。
この系統は移民労働者の間でも受け入れられ、英語表記が『Niguton Loaf』とされた時期がある。ただし、英語圏の利用者の多くは単語の響きに難色を示し、のちに『N-Root Cake』という婉曲表現へ置き換えられた。
社会的影響[編集]
にぐとんは一時、保存食であると同時に、都市の労働倫理を象徴する食品として扱われた。の雑誌広告では「鳴るほど元気、積むほど長持ち」という標語が使われ、倉庫業界の標準朝食のように語られたことがある。
また、にぐとんの仕込み音は、の夜警が互いを識別する合図として利用したという逸話が残る。これは後に防犯教育の教材にも採用され、の内部資料では「誤認率が低いが、近隣住民の眠りを著しく妨げた」と評されている。
一方で、1970年代以降は高糖質・高塩分であることから批判も強まり、の改定議論では象徴的に名指しされることが多かった。もっとも、実際ににぐとんの摂取量が問題視された地域はごく限られていたとする指摘もある。
批判と論争[編集]
にぐとんをめぐって最も大きな論争となったのは、の「第3回東日本発酵食品審査会」である。審査員12名のうち5名が東京型を支持し、4名が横浜型を支持し、残る3名は「そもそも食べ物の音で味を測るべきではない」として無効票を投じた。
また、渡辺精一郎の実在性についても、後年になって疑問が呈されている。『帝国食糧試験所人事録』には同名人物が確認できない一方で、の古書店から出たとされるメモには、彼の署名と一致する筆跡が見つかったと報告されている[7]。このため、現在でも「複数人の共同名義だった」とする説と、「完全に一人の伝説である」とする説が併存している。
さらに1991年のテレビ特番で、にぐとんを電子レンジで加熱すると極端に膨張する様子が放送され、一時的に「家庭内危険食品」扱いされた。だが、実験に使われた標本が事前に乾燥しすぎていた可能性もあり、結論は出ていない。
現代の扱い[編集]
現在、にぐとんは日常食としてはほとんど見られないが、との一部の郷土資料館では年に数回、復元展示が行われている。来場者の多くは「想像より静かに焼ける」と感想を残すという。
また、近年はクラフトフードの文脈で再評価され、若手料理人が「発酵の音を食べる料理」として再構成する試みもある。2022年にはの小規模ギャラリーで『鳴りもの食文化展』が開かれ、にぐとんの試食会には3日間で延べ1,142人が参加した。
なお、同展では来場者の23%が「にぐとんはアニメの必殺技だと思っていた」と回答したが、運営側はこれをむしろ普及の証拠として扱った。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『にぐとん整法十二則』芝浦食研出版, 1934.
- ^ 佐伯みどり『東京湾岸食習俗調査報告』帝国民俗資料館, 1937.
- ^ 松浦健一『港湾労働者と発酵食の変遷』日本食文化学会誌 Vol.12, No.3, pp. 44-71, 1958.
- ^ Margaret L. Thornton, 'Brackish Fermentation and Urban Nutrition', Journal of East Asian Aliment Vol.8, No.2, pp. 113-129, 1964.
- ^ 高橋清志『学校給食における半発酵穀粉の導入』文部科学食育研究所, 1950.
- ^ 小泉由香『鶴見川沿いの屋台文化と甘味系にぐとん』神奈川民俗叢書 第4巻第1号, pp. 8-26, 1972.
- ^ 井上辰雄『発酵音の測定とその民俗的意義』民俗工学レビュー Vol.5, No.1, pp. 1-19, 1980.
- ^ 『家庭と火曜日』編集部編『家庭における白にぐとんの作り方』家庭生活社, 1967.
- ^ 山根弘明『にぐとん南北論争の研究』横浜都市史研究 第9号, pp. 90-118, 1986.
- ^ Patricia E. Moore, 'The Curious Case of N-Root Cake', Proceedings of the Pacific Food Studies Association Vol.3, No.4, pp. 201-214, 1971.
外部リンク
- 日本にぐとん協会
- 東京湾岸食文化アーカイブ
- 横浜発酵史研究室
- 鳴りもの食文化資料館
- 芝浦郷土調理保存会