ぱちゃん
| 分野 | 音響民俗学、広告史、都市俗語 |
|---|---|
| 初出 | 1897年ごろ |
| 起源地 | 東京市神田区の写真乾板工房 |
| 標準音価 | 低開放性の破裂音を伴う2拍 |
| 関連装置 | 接触記録板、簡易水跳ね計 |
| 普及期 | 昭和初期から平成前期 |
| 代表的使用者 | 広告写植士、効果音技師、児童文学編集者 |
| 社会的意義 | 衝撃の軽量化を表す語として定着 |
ぱちゃんは、紙面や水面に小さな接触音を残しながら跳ね返る現象、またはその音を模した日本の擬音語である。もともとは末期にの写真乾板工房で用いられた記録用語に由来するとされ、後にの商業広告との効果音研究によって一般化した[1]。
概要[編集]
ぱちゃんは、物体が比較的軽い力で面に触れ、すぐに離れる際の短い音や、その感覚を指す語である。音象徴語として扱われることが多いが、期の言語研究では、単なる擬音ではなく「接触後の残響が二拍に分かれて認識される現象名」と整理されていた。
語の広まりには、の百貨店催事との印刷所が大きく関わったとされる。特に1928年の「夏の水辺売場」では、氷菓の広告コピーにこの語が採用され、当時の若年層のあいだで急速に一般化したという記録が残る[2]。
起源[編集]
最も古い用例は、にの乾板写真工房で作成された作業日誌に見える「板が机へぱちゃんと落ちる」の一節であるとされる[3]。この日誌を記したのは職工長ので、彼は感光板の欠け音を区別するため、硬い落下音を「ぱん」、柔らかな跳ね音を「ぱちゃん」と書き分けていた。
一方、語源についてはの港湾労働者が使っていた荷役符牒に由来するという説もある。こちらでは、手荷物が桟橋に触れてから再び持ち上がる動きを示す合図として用いられ、荷札の裏に小さく「P-chan」と欧文転写された例が数件確認されている。なお、この転写は後年の研究者による追記であるとの指摘もある[要出典]。
にはの国語学講座で、音象徴の分類例として「ぱちゃん」が挙げられ、門下の研究者が「液体面への接触を伴う軽衝撃の代表語」として整理した。これにより、単なる工房語から準学術語へと格上げされたのである。
普及と定着[編集]
昭和初期になると、の広告部が、炭酸飲料の瓶が木箱に収まる瞬間を表す見出しに「ぱちゃん」を多用し、視覚的にも聴覚的にも軽快な印象を作り出した。1934年の販促冊子では、同語が18ページ中14回も用いられ、編集会議で「やや多すぎる」とされたが、結果として購買層の記憶定着率が12.8%向上したという[4]。
では、1937年に効果音班が「ぱちゃん」を水滴・布・木片の衝突音の中間に位置づけ、録音台帳に独立項目として登録した。録音技師のは、直径9センチの琺瑯皿に水を6ミリだけ張り、そこへガラス片を落とすことで「最も番組向きのぱちゃん」を得たと回想している。後の再現実験では、落下角度が37度を超えると「ぱちゃん」ではなく「ぱちょん」に変化することが確認された。
戦後はとの広告で語の生命力が伸びた。特に1958年の文具メーカー「みずすじ商会」のキャンペーンでは、ノートを閉じる音を「ぱちゃん」と表現したCMが地方紙12紙に掲載され、全国の小学生の作文にこの語が異常増殖したとされる。
分類と用法[編集]
音響学的分類[編集]
言語学者はぱちゃんを、閉鎖音を含むの中でも「接触後の回復運動」を示す群に分類している。これは、単に何かが当たった音ではなく、当たってから戻るまでの一連の動作を一語で表す点に特色がある。なお、1952年にで行われた調査では、被験者の61%が「水面」「紙」「薄い金属」の順で最も自然と回答した。
ただし、地方差も大きい。では語尾がやや長く伸び、「ぱちゃぁん」とされることがあり、では軽い破裂感を強めて「ぱちゃんっ」と書かれる例が見られる。民俗語彙研究では、これらは標準語化の過程で消えた「感触副音」の名残であると説明されている。
広告・放送での用法[編集]
広告界では、ぱちゃんは「失敗しても痛くない音」を演出する記号として機能した。銀行の貯金箱、洗濯ばさみ、冷菓の蓋など、硬すぎず軟らかすぎない物品に好んで使われ、1966年の雑誌『暮しと商標』では「視聴者に過度な緊張を与えず、商品接触を快楽化する語」と定義されている。
の深夜番組『音の標本箱』では、ぱちゃん専用の1分枠が設けられ、毎週金曜に異なる素材で収録された。ある回では、の小料理店の板前が「だし巻きを皿へ返す音」を再現し、番組スタッフが「これは完全にぱちゃん史上最良」と記したが、後年の分析では単なる台本の誇張である可能性が高い。
社会的影響[編集]
ぱちゃんの普及は、都市生活における「小さな音の可視化」を促したとされる。これにより、日用品の取扱説明書にまで擬音語が入り込むようになり、1970年代のでは、扉の閉まり方を「ばたん」ではなく「ぱちゃん」と表記する試みが複数見られた。
また、学校教育においても影響は大きかった。の国語副読本には、1964年版から「ぱちゃんは接触のやわらかい印象を与える表現」として掲載され、児童の作文能力よりも、むしろ机の上の消しゴム転落率を下げたと報告されている。もっとも、1980年代には「軽い出来事を過剰にかわいく表現する」として批判もあり、特に新聞の見出しでの使用には賛否が分かれた。
論争[編集]
最大の論争は、ぱちゃんが「音の再現」なのか「感情の演出」なのかという点にあった。言語学者のは、1978年の論文で「ぱちゃんは音響写実ではなく、出来事の無害化を目的とする社会的フィルターである」と主張し、これに対して放送業界は「現場の実感に反する」と反発した。
さらに、にはの内部報告で、子ども向け番組の効果音として使われたぱちゃんが、視聴児童に「落下の危険を軽視させる」可能性があると指摘された。もっとも、実験に用いられたのが高さ4メートルの舞台装置だったことから、報告の信頼性には疑義があるとされる[要出典]。
年表[編集]
・1897年 - 神田の写真乾板工房で初出とされる。
・1921年 - 東京帝国大学で準学術語として扱われる。
・1934年 - 百貨店広告で全国的な流行語となる。
・1937年 - 日本放送協会の効果音台帳に登録される。
・1958年 - 児童向け広告で再流行する。
・1964年 - 文部省副読本に掲載される。
・1978年 - 社会的フィルター説が提唱される。
・1989年 - 放送倫理上の議論が起こる。
・2003年 - デジタル効果音ライブラリに「PACHAN-02」として収録される。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 三浦喜十郎『乾板工房日誌抄』神田写真材料組合, 1901年.
- ^ 石橋玲子『音象徴と都市広告』青木書店, 1936年.
- ^ 久保田信平「放送効果音における接触音の分類」『放送技術研究』Vol.12, No.4, pp. 44-57, 1938年.
- ^ 折口門下言語研究会『接触語彙の近代化』岩波講座国語学別巻, 1949年.
- ^ 石渡澄子「無害化表現としての擬音」『社会言語学年報』第8巻第2号, pp. 113-129, 1978年.
- ^ NHK放送文化研究所『効果音台帳総覧 1935-1990』日本放送出版協会, 1991年.
- ^ 宮崎芳彦『広告と小さな音の戦後史』中央公論社, 1967年.
- ^ 田辺瑞穂「児童作文におけるぱちゃんの増殖」『国語教育研究』第21巻第1号, pp. 9-26, 1960年.
- ^ Robert L. Fenwick, "PACHAN and the Soft Impact Lexicon," Journal of Applied Phonetics, Vol. 7, No. 1, pp. 3-19, 1984.
- ^ Margaret A. Thornton, "The Two-Beat Contact Sound in Postwar Japan," Asian Sound Studies Quarterly, Vol. 3, No. 2, pp. 88-104, 1992.
- ^ 高橋弥生『ぱちゃん現象の民俗音響学』新潮選書, 2005年.
- ^ 井上和孝『PACHAN-02とデジタル効果音の規格化』技報堂出版, 2011年.
外部リンク
- 東京音象徴アーカイブ
- 日本擬音語研究センター
- 昭和広告資料館デジタルコレクション
- 放送効果音標本庫
- 民俗語彙地図プロジェクト