ひかりのたむに
| 名称 | ひかりのたむに |
|---|---|
| 別名 | 光のタムニ、たむに式採光 |
| 分類 | 光環儀式・夜間祈祷・測光民俗 |
| 起源 | 1908年頃とする説が有力 |
| 主な実践地域 | 北海道南部、東北地方沿岸、東京都下町部 |
| 中心施設 | 旧・日本測光協会記録室 |
| 主要人物 | 渡辺精一郎、マルガレーテ・トールソン |
| 関連技術 | 反射板、燐光紙、煤混和墨 |
| 記録数 | 1932年時点で全国47件 |
| 現況 | 一部地域で再興運動がある |
ひかりのたむには、末期の測光学と民間信仰が接続する過程で成立したとされる、日本の光環儀式である。からにかけて断続的に実践され、後にの一部研究者によって準学術用語として整理された[1]。
概要[編集]
ひかりのたむには、夜明け前に白布または和紙を張った枠を立て、その前で短文を唱えながら微弱な光を三度反射させることで「光を定着させる」とされた儀式である。名称の「たむに」は系の古い語形に由来するとも、下町の口語で「束ねる」を意味したともいわれ、学説は一定していない[2]。
成立当初は疫病除けとされていたが、1910年代以降は夜間照度の不足する漁村や工場地帯で、灯火管理の簡便な作法として受容された。のちにの地方衛生調査報告にも断片的に言及され、民俗と照明工学の境界に位置する奇妙な制度として知られるようになった。
名称と語源[編集]
「たむに」の由来[編集]
もっとも広く流布している説では、「たむに」は「束ねる」「留める」を意味する古い地方語「たむ」が変化したものとされる。これに系の接尾辞が重なった結果、光を束ねて留めるという意味合いが生じたと説明されることが多い。ただし、この語源説は1927年の民俗班による聞き取りの筆記揺れに依存しており、要出典の指摘がある。
一方で、浅草周辺の寄席記録には「タムニ」は乾いた布を巻く手つきの擬態語であるとする記述が見える。これが後年、儀式名として再解釈され、光の布を巻き取る所作を指す専門語に変質したとみられている。
「ひかり」の付加[編集]
「ひかり」は本来、儀式名に付される説明語であり、元は単に「灯火の明るさ」を指したにすぎない。ところが期にの委員が、同儀式の反復性を数値化する際に「光度の固定化」という表現を用いたことで、あたかも宗教的概念そのものが「ひかり」を中核に持つかのような誤解が生じたとされる。
この経緯により、民間では「ひかりのたむに」と「たむにのひかり」が混同されるようになり、1920年代には両者を別系統とみなす派閥まで現れた。
歴史[編集]
成立期[編集]
最古の記録は、の旧薬種商・小橋家に残る帳面の余白に書かれた「夜明けのたむに、二度で足る」という走り書きである。これを解読したのが民俗学者ので、彼は後に『光環と暮らし』第2巻で、この記述が漁火の管理法を祈祷化したものだと結論づけた[3]。
ただし、同じ年のでは既に「ひかりのたむに」を行う女性講が12組存在したとの地方紙記事もあり、起源は少なくとも19世紀末に遡る可能性がある。講の中心人物は「灯籠婆」と呼ばれた老女たちで、いずれも夜間の網補修に長けていたという。
普及と制度化[編集]
に理科大学の演習で、マルガレーテ・トールソン講師が「低照度環境下における視認儀礼」としてこの慣行を紹介し、以後、都市部の衛生改良運動と結びついた。彼女はのちに、ひかりのたむにが「目を守るのではなく、目の記憶を鍛える」と述べたと伝えられる。
後期にはの船員宿舎や、の倉庫群で半ば安全教育として採用され、1日3回の反射回数、布の白度、唱句の拍数まで細かく規定された。1932年の内部資料では、全国47件の実施地のうち18件が港湾施設、14件が学校、残る15件が寺社境内であった。
衰退と再評価[編集]
戦後は電灯普及により急速に衰退したが、30年代の民俗ブームの中で、都市の照明公害への反作用として再評価された。の一部では、夏至前後に「ひかりのたむに保存会」が結成され、反射板をアルミ箔で代用する簡略版が広まった。
なお、1978年にが行った民俗行事調査では、本儀式は「伝承の断絶が著しいが、作法の再構成可能性が高い」と判定された。この評価により、逆に各地の郷土史家が競って復元を始め、結果として原型よりも豪華な祭式が増えたとされる。
作法[編集]
ひかりのたむには通常、白布一張、木枠二本、燐光紙一枚、そして煤を少量混ぜた墨が用いられる。参加者は布の前で右手を胸元に置き、左手で枠の下端を三度なぞったのち、短い句を低く唱える。最後に光源を移動させ、影が消える瞬間を「留める」と表現する。
石巻市周辺の伝承では、唱句の途中で子どもが笑うと効験が増すとされ、むしろ厳粛さを避ける傾向がある。一方での一部寺院では、儀式の前に蝋燭の芯を3.5ミリに切り揃える作法が伝えられ、これは照明の安定性を重視した工学的改変とみなされている。
の警察資料には、町内会がひかりのたむにを「防犯灯点検の名目」で実施し、参加者が平均27分をかけて反射角を調整していたとの記録がある。ここから、儀式は信仰であると同時に、近隣住民が照明の向きをめぐって揉めないための協定装置でもあったことがうかがえる。
社会的影響[編集]
ひかりのたむには、単なる民間儀礼にとどまらず、近代日本の照度意識の形成に影響したとする研究がある。の夜業改善報告では、作業場の光を「たむに式に整える」ことが勧められ、実質的に配置の標準化が進んだ。
また、の紡績工場では、女子工員が機械音を避けるために無言で反射板を扱うことが慣例化し、これが「沈黙のたむに」と呼ばれた。後年、この無言性が女性の労務管理に利用されたとの批判もあるが、同時に視覚疲労の軽減に役立ったという証言も多い。
には環境保護運動と結びつき、街灯を減光して月光を活かす「新たむに運動」がとで広がった。もっとも、減光のしすぎで自転車事故が12件発生したため、行政側は「美学と安全は両立しない」として補助灯の設置を義務づけた。
批判と論争[編集]
ひかりのたむにをめぐっては、学術的には「照明技術の民俗化」であるとする見方と、「民俗の技術化」であるとする見方が対立してきた。とくにの大会では、渡辺精一郎の弟子であるが「この儀式は人間が光に対して行う最初の会計処理である」と発表し、会場の一部から失笑を買った。
また、1930年代の一部宗教団体がひかりのたむにを「近代の偶像崇拝」と批判した一方、逆に工場経営者側は「生産性を高めるための合理的所作」として利用した。結果として、本儀式は信仰・衛生・労務管理の三つ巴の争点となり、現在でも評価が大きく分かれている。
さらに、1994年に系の地域番組が「失われた光の作法」として特集した際、地元保存会が用意した反射板の枚数が資料と異なっていたことから、演出過多との批判が起きた。保存会側は「昭和40年代の時点で既に枚数に揺れがあった」と反論したが、専門家の間では半ば伝説化した例として扱われている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『光環と暮らし』日本民俗叢書刊行会, 1938年.
- ^ Margaret A. Thornton, “The Tamuni of Light and Urban Illumination,” Journal of Applied Folklore, Vol. 12, No. 3, 1919, pp. 44-61.
- ^ 古賀信之助『光を束ねる作法』東洋民俗学会出版部, 1954年.
- ^ 小橋キヨ『函館夜明け帳』北辰館, 1922年.
- ^ 佐伯隆太郎「ひかりのたむにの地域差に関する一考察」『民俗と照明』第8巻第2号, 1967年, pp. 115-139.
- ^ Eleanor P. Wexler, “Reflective Rituals in Prewar Port Communities,” The Cambridge Review of Cultural Mechanics, Vol. 5, No. 1, 1933, pp. 9-27.
- ^ 『日本測光協会年報』第4号, 日本測光協会, 1916年.
- ^ 中村千代子『夜の白布とその周辺』青螢社, 1971年.
- ^ 田村義章「ひかりのたむに保存運動の展開」『地域文化研究』第19巻第4号, 1995年, pp. 201-218.
- ^ H. K. Bennett, “Tamuni, Tea, and Three Reflections,” Pacific Notes on Imaginary Ethnography, Vol. 2, No. 7, 1948, pp. 88-90.
外部リンク
- 日本ひかりのたむに保存協会
- 旧日本測光協会アーカイブ
- 函館民俗照明資料室
- 東洋夜間作法研究所
- ひかりのたむに年表データベース