みちつば
| 氏名 | 道津葉 みち |
|---|---|
| ふりがな | みちつば |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 出生地 | 東京都神田区(現・千代田区周辺) |
| 没年月日 | 1987年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 批評家、編集者、講師 |
| 活動期間 | 1934年 - 1983年 |
| 主な業績 | 「みちつば式カップリング分類表」の作成、同人誌『双葉月報』の編集 |
| 受賞歴 | 日本架空文芸協会特別功労賞(1969年) |
道津葉 みち(みちつば、 - )は、の同人批評家、編成学者、架空人物伝における「カップリング」概念の整理者である。特にという二人組の相性理論を通じて知られる[1]。
概要[編集]
道津葉 みちは、前期から中期にかけて活動した、日本の批評家である。彼が提唱した「みちつば」という概念は、二人の関係性を作品内外の配置・色彩・行動半径から読み解く方法として、一部の同人界隈で半ば規範化したとされる。
神田の紙問屋に生まれ、のちに周辺の貸席文化に触れたことで、人物相性の研究に傾倒した。なお、本人は生前「これは恋愛論ではなく、座り位置の統計である」と述べたというが、これは後年の座談会記録にしか残っておらず、真偽は定かでない[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
道津葉 みちは、神田の裏通りにあった活版所の二階に生まれる。父は帳簿商、母は貸本屋の娘で、幼少期から台帳の余白に人物同士の関係図を描く癖があったとされる。
の翌年、家はへ移転したが、この時期に近隣の寄席で見た二人組の漫才が後の理論形成に強い影響を与えたという。彼は後年、漫才の「間」を「二人が同じ方向を見ないことによって成立する秩序」と記し、これがみちつば理論の原型とみなされている。
青年期[編集]
予科に進んだが、学業よりも同人誌の編集に熱中し、には学生仲間と小冊子『双葉月報』を創刊した。ここで初めて「みちつば」という語が用いられたとされるが、当初は特定の二人組ではなく、「道が交差する前に葉が揺れる感じ」を示す半ば造語的な用法であった。
の喫茶店『ル・シエル』で開かれた夜会に常連として出入りし、系の若手記者や演劇研究者と交流した。彼はこの頃、ノートに毎日「隣席の二人の会話密度」を数値化しており、1937年7月から1941年3月までの記録では平均3.8だったという[3]。
活動期[編集]
になると、道津葉はの貸会議室を拠点に「二者関係の編集学」を講じるようになった。受講生は多い日で27人、少ない日で2人にまで落ち込んだが、彼は人数よりも「机の並び」のほうを重視したと伝えられる。
、雑誌『関係構造研究』に掲載した論考「みちつばの左右非対称性について」で注目を集め、以後、の学生サークルやの演劇同好会にも影響を与えた。特に、二人のうち片方だけが季節の小道具を持つ配置を「準みちつば」と定義したことは、後の二次創作の作法にまで影響した。
にはから特別功労賞を受け、授賞式では「相性は愛ではなく、表紙の並びである」と答えたとされる。この発言はしばしば引用されるが、掲載誌によって「表紙」ではなく「表裏」とも記されており、細部は一定しない。
晩年と死去[編集]
後半からは執筆量が減ったものの、の自宅書斎で毎月一度だけ開かれる小規模な研究会には姿を見せた。晩年は体調を崩し、机上には未完成の「みちつば式駅名一覧」が常に広げられていたという。
11月2日、肺炎のため鎌倉市の病院で死去。享年75。葬儀には編集者、同人作家、喫茶店主など約140名が参列し、祭壇には彼の愛用した赤鉛筆と、二人分の椅子が一脚だけ置かれた写真が飾られたとされる。
人物[編集]
道津葉 みちは、端正な口調とは裏腹に、極端に細かい観察を好む人物であった。たとえば、人物紹介の際に「髪型」より先に「立ち位置」を問う癖があり、初対面の相手をしばしば困惑させたという。
性格は寡黙であったが、酒席では急に長広舌になり、特にの三杯目からは「二人の沈黙には方向がある」と繰り返したと伝えられる。また、傘を二本持ち歩く習慣があり、雨の日に片方を忘れて帰ると一日機嫌が悪かった。
逸話として有名なのは、の古書店で見つけた無名の演劇パンフレットから、たった一行の台詞の改行位置を理由に「歴史的なみちつば案件」と判定した件である。店主によれば、彼はその日のうちに同じパンフレットを6冊買い、翌週には友人に3冊配っていたという。
業績・作品[編集]
理論書[編集]
代表作は『みちつば式関係配列学』()であり、二人組を「対置」「追随」「反転」「同歩」の4型に分類した。うち「同歩型」は実際には道津葉が2ページ分の図を描き間違えたことから生まれたという説があるが、本人は最晩年まで訂正しなかった。
また、『双葉と余白』()では、カップリングの魅力は「中心にあるのではなく、読者が勝手に埋める余白にある」と論じた。この記述は後の文化において神格化され、しばしば巻末解説のように引用された。
実践活動[編集]
からまで、月刊誌『関係批評』で連載「今月の二人」を担当し、延べ312組の架空・半架空カップルを採点したとされる。採点基準は「距離」「視線」「雨宿り」「片方だけが知っている秘密」の4項目で、合計100点満点であった。
この連載の影響で、の同人即売会では「みちつば点」が配布サークルの評価指標として流通した。もっとも、1972年の春には点数の低い組み合わせを逆に推す読者が続出し、道津葉は「低得点は発展途上である」と短くコメントしたという。
受賞と外部活動[編集]
の特別功労賞以外にも、にはの講演会で「紙面上の相関を最も美しく言語化した人物」と紹介された。講演では、わずか17分で「椅子の向きが関係性を作る」と結論づけ、聴衆から拍手が起きた。
なお、の文化番組『夜の読書室』に出演した際、彼は「みちつばは流行ではない。むしろ流行を発生させる前の静かな湿度である」と述べたが、この一節だけ妙に詩的すぎるため、後年に脚本家の加筆ではないかという指摘がある。
後世の評価[編集]
道津葉 みちの評価は、後半から再検討が進んだ。とりわけに刊行された研究書『二者関係の戦後史』が、彼の理論を「同人批評から配置学へ変換した人物」と位置づけたことで、学術的な再評価が加速した。
一方で、彼の分類表が恣意的であるとの批判も根強い。ある研究者は、312組のうち実在確認が取れたのは47組にすぎないと指摘し、残りは「編集者の夢」と評した。ただし、みちつば研究ではこの曖昧さこそが重要であるとされる。
には、若年層の二次創作界隈で「みちつば返し」と呼ばれる構図が再流行し、SNS上で再解釈が拡散した。これにより、道津葉の名前は半ばミーム化し、古い批評家でありながら妙に現在的な存在として扱われている。
系譜・家族[編集]
道津葉家は末期から神田で紙商を営んでいた家系とされる。父・道津葉清蔵は帳簿管理に厳しく、母・ふさは近所の子どもに草紙を貸すことを好んだため、みちは幼少期から「貸す」「並べる」「返ってくる」の感覚に親しんだという。
配偶者はに結婚した道津葉キヨで、元は裁縫学校の講師であった。子は長女・道津葉葉子、長男・道津葉修の二人とされるが、葉子については実在を疑う記述が一部の年譜に見られる。修はのちにで印刷所を営み、父の著作の再版に深く関わった。
また、遠縁にの装幀家・黒瀬家がいたとされ、これが道津葉の表紙への異様な執着に影響したとも言われる。家族写真では、誰もが正面を向いているのに、彼だけが必ず一人分ずれて立っていたという。
脚注[編集]
[1] 道津葉の生没年および活動内容は、戦後の同人誌再録に依拠する。
[2] 1950年代の座談会記録『紙と間』は散逸しており、引用の正確性には疑義がある。
[3] 喫茶店『ル・シエル』の夜会記録は、店主の手帳をもとにしたとされるが、手帳自体の所在は確認されていない。
関連項目[編集]
のサブカルチャー
脚注
- ^ 道津葉研究会『みちつば式関係配列学』双葉社出版部, 1958.
- ^ 佐伯真一『戦後同人誌と二人組の美学』河岸書房, 1963.
- ^ Margaret L. Thornton, “Coupling as Editorial Geometry,” Journal of Imaginary Studies, Vol. 12, No. 4, 1971, pp. 88-109.
- ^ 黒崎一郎『関係批評の時代』青潮館, 1975.
- ^ 渡会澄子『双葉と余白——道津葉みち論集』港文社, 1984.
- ^ H. Nakamura, “The Michitsuba Phenomenon in Postwar Fan Circles,” Tokyo Review of Pseudoculture, Vol. 7, Issue 2, 1992, pp. 15-41.
- ^ 高橋美里『二者関係の戦後史』東都大学出版会, 1994.
- ^ 編集同人会『みちつば年表と証言集』関係資料刊行会, 2001.
- ^ Peter J. Ellwood, “A Brief History of Pairing Taxonomies in Japan,” Proceedings of the Society for Fictional Humanities, Vol. 3, 2008, pp. 201-220.
- ^ 道津葉修監修『道津葉みち全集 別巻・未収録ノート』神田再版社, 2016.
外部リンク
- 架空文芸データベース
- 同人史アーカイブセンター
- 関係批評研究所
- 日本架空文芸協会
- みちつば資料室