もひもひさん
| 呼称 | もひもひさん |
|---|---|
| 分野 | 言語人類学・民俗学(とされる) |
| 成立時期 | 昭和前期に「定型化」したと推定される |
| 主な地域 | 〜沿岸部の口承圏(とされる) |
| 実体 | 人物像 / キャラクター像の両説がある |
| 特徴 | 擬音「もひもひ」の反復と、言いよどみを肯定する所作 |
| 関連概念 | 語用論的間(あい)の埋め、情動調律の方略 |
は、言語学者の間で「半ば擬音語を介した情動共有の記号」として言及される日本の民間的キャラクター(あるいはローカル愛称)である[1]。特にの一部では、会話の間を“もひもひ”と埋める仕草として知られているとされる[2]。一方で、出自をめぐっては複数の説があり、近年になって研究者コミュニティでも“実在性”がたびたび争点化している[3]。
概要[編集]
は、特定の方言圏で用いられるとされる擬音語「もひもひ」を核に、相手の沈黙を柔らかく受け止める“合図”として語られてきた存在である[1]。表向きは雑談の間を取り持つ愛称だが、観察記録では、言い淀みに続いてこの語が挿入されると、発話の緊張が低下したように見えると報告されている[2]。
成立経緯については、昭和初期にの小学校教員が「沈黙の授業」を試み、その結果として“もひもひ声かけ”が学級運営に導入された、という民俗研究家の説が有力である[4]。ただし、同じ教員の実名が資料によって食い違うことから、少なくとも複数の地域で似た実践が同時期に広がったとも推定される[5]。
語の正体と用法[編集]
擬音が意味を持つ条件[編集]
「もひもひ」は単なる音ではなく、語用論的には“肯定的保留”として機能する、とされている[6]。具体的には、相手が答えに詰まった瞬間に「もひもひさん、続けて」で促す言い回しが古い記録に見られる[7]。このとき語尾を伸ばす長さが重要視され、音声分析では平均で0.83秒前後(再現実験の分散は0.12)と報告された[8]。
また、所作としては、指先で机を“トントンではなく”粘り気のあるリズムで叩くことが伝承されている。言い淀みの直後に叩くと、相手が「遮られた」感覚を持ちにくいという説明がなされ、共同作業でも効果があったとされる[6]。
登場の場面:家庭・祭・職場[編集]
家庭では、食卓で新しい献立の話題が出た際に“否定を避ける”ための合図として使われたとされる[2]。祭では、練習の継ぎ目で担い手が迷うと「もひもひさんは休まないぞ」と冗談めかして場を繋いだ例が記録されている[9]。
職場ではの関連団体で、窓口対応の新人研修に擬音を用いたロールプレイが導入された経緯が紹介されている。ただし同団体の記録は“試験導入”の断片しか残っていないとされ、研修用台本の著者名は照合不能となっている[10]。
歴史[編集]
誕生譚:沈黙の授業と「音の借金」[編集]
最初期の物語として最も広く語られるのは、“沈黙の授業”が起点だというものである[4]。昭和4年、の小学校で教員のが、発話の速さを競う学力テストの弊害に気づき、授業中の沈黙を「音の借金」と見なす方針を立てたとされる[11]。
この方針では、沈黙を罰するのではなく、次の発話で埋め合わせさせるための“代理音”が必要になった。そこで、子どもが無意識に漏らす喉のもつれを観察し、擬音「もひもひ」をクラス全員の合図として定型化した、という筋書きが語られる[12]。なお、教員ノートには「もひもひは3回まで。4回目は借金返済を要する」といった妙に具体的な注意が書かれていたとされるが、当該ノートは現在行方不明とされている[13]。
拡散:ラジオの「間違いが救う」技術[編集]
もう一つの拡散ルートとして、地域ラジオ局の制作現場で「言い間の誤り」を救う技術として採用された説が挙げられる[14]。昭和11年、の放送局で朗読担当が原稿を噛んだ際、アナウンサーが咄嗟に「もひもひさんが直してくれた」と言って場を繋いだところ、反響が大きかったという[14]。
このエピソードを受けて、制作担当は“噛みそうな箇所”にあらかじめ「もひもひ」の短い合図を差し込む台本修正を実施したとされる[15]。結果として、聴取者からは「訂正の焦りが減った」という意見が約1,200件届いたと計上されているが、当時の集計方法は不明である[16]。ただし編集会議の議事メモに、丸め誤差込みで「1,199件でなく1,200件にしろ」という指示があったと記録されており、細部に矛盾がある点が研究者の間で笑い種になっている[16]。
社会への影響[編集]
の影響は、単に“流行語”として片づけられていない。言語学的には、会話の途中で生じるためらいを「破綻」とみなすのではなく「調整行為」として扱う姿勢を、地域的実践として定着させたと説明されることがある[6]。実際、心理学系の調査では、面接練習で“間の肯定”を導入した群が、沈黙耐性の自己評価で平均+0.47点(10点満点中)を示したと報告された[17]。
また、行政・教育の現場では、説明責任が強い場面でも“止まる権利”を認める発想が生まれたとされる。例としての社会教育資料では、「もひもひは同意ではないが、拒否でもない」と明文化されている[18]。この文言は一見合理的であるが、どの会議で誰が決めたのかが不詳であり、“当時の担当が語呂のよさで採択した”とする証言が残る[19]。
一方で、過剰な使用も問題視された。職場では、遅い返答を常態化させて“もひもひの圧”で相手を待たせるケースがあり、「会話のリズムが制度になった」ことへの反発が生じたとされる[20]。
批判と論争[編集]
「もひもひさん」は存在するのか、という論点がたびたび提起されている。肯定派は、擬音を含む相互行為が実測可能である以上、記号的存在として扱うべきだと主張する[6]。一方で否定派は、同じ所作が他の地域の別の合図でも起こり得るため、固有の“人称”を付すのは後付けだと指摘する[21]。
また、起源譚に対しても揺れがある。沈黙の授業説ではが中心人物とされるが、別資料では教員名がに差し替わっている[5]。さらに、ラジオ説の反響数についても「1,200件」の根拠が見当たらないとされる[16]。
論争の着地点として、学会は「もひもひさんは単一のモデルではなく、複数の実践が後に束ねられたラベルである」とする折衷案を採用したと報告されている[22]。ただし、この結論に対し「折衷案という名前で曖昧化が進んだだけだ」と批判する研究者もいる[23]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田中花梨「もひもひさんにおける擬音の語用論的機能」『日本語相互行為研究』第12巻第3号, 2019年, pp. 41-67.
- ^ 【渡辺精一郎】『沈黙の授業:音の借金を返す学級経営』青森教育出版, 1952年.
- ^ 佐藤文之「間を作る言葉:地域口承の応答体系」『東北民俗言語学報』第7巻第1号, 1961年, pp. 9-28.
- ^ Margaret A. Thornton「Affect-Calibration Cues in Japanese Informal Talk」『Journal of Pragmatics』Vol. 38, No. 2, 2006, pp. 221-245.
- ^ 小泉実「擬音の長さと緊張低下:実験音声の再現」『音声心理学年報』第5巻第4号, 1987年, pp. 301-328.
- ^ Akiyama Keisuke「Broadcast Editing and Apology Sounds in Local Radio」『Media Discourse Studies』Vol. 15, No. 1, 2012, pp. 77-102.
- ^ 内海真琴「“もひもひ”は同意か拒否か:自治体資料の解釈」『社会教育研究紀要』第20巻第2号, 2004年, pp. 55-81.
- ^ 鈴木康介「1,200件の手紙はどこへ:反響集計の史料批判」『放送史研究』第26巻第1号, 1998年, pp. 120-146.
- ^ Katherine Mori「Silence Management in Workplace Training」『Applied Linguistics Quarterly』Vol. 9, No. 3, 2017, pp. 10-33.
- ^ 大塚涼子『会話分析の誤読:折衷案と曖昧化の政治』新潮論文社, 2021年.
外部リンク
- もひもひ言語倶楽部アーカイブ
- 東北口承研究データベース
- 擬音実験音声リポジトリ
- 放送台本復元プロジェクト
- 間(あい)の埋め手帖