やまかば
| 氏名 | やま かば |
|---|---|
| ふりがな | やま かば |
| 生年月日 | 10月17日 |
| 出生地 | 下呂郡小坂村(現・下呂市) |
| 没年月日 | 3月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 可燃性地図学者、遭難予防技術研究者 |
| 活動期間 | 1920年 - 1968年 |
| 主な業績 | 『紙の安全弧線』体系および山火対応地図改良 |
| 受賞歴 | 日本災害工学賞(特別部門)ほか |
やま かば(やま かば、 - )は、の「可燃性地図学者」。山間部の遭難対策に関する業績で広く知られる[1]。
概要[編集]
やま かばは、日本の可燃性地図学者である。遭難多発地域における「火の扱い」を前提に、地形図・方位・避難手順を統合した図学体系を提唱したことで知られる。
特に、山岳地帯で風向きが変わった際に、紙が湿気っても「燃え方」が一定になるよう設計された試作帳票『安全弧線図』は、当時の実務者から“地図が逃げ道を教える”道具として評価された[1]。なお、この評価の由来には、本人が持ち込んだ実験方法の奇妙さが一部含まれていたとされる。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
やま かばは10月17日、下呂郡小坂村に生まれた。父は旧家の山役人であり、家業は測量と薪割りの帳簿管理であったとされる。
幼少期、かばは村境の尾根で季節風が「斜面に沿って二度折れる」現象を観察し、焚き火の火勢と地形の関係を独自に記録したという[2]。この記録はのちに、本人の発想の原点として語られるが、関係者の証言では“紙が焦げた匂いまで残っていた”という。
青年期[編集]
、かばは上京して(のちに統合)に入学した。学内では製図が得意だった一方、失敗作も多く、「方位磁針より先に、火種の方向を確かめる癖」があったと記録されている[3]。
また、当時の講義ノートには「湿度80%で紙が縮むのは、縮んだ分だけ燃え残りが減る」という不可解な式が書かれており、裏づけは取れていないものの、同級生はそれを“理屈ではなく呪文”と呼んだ[4]。
活動期[編集]
からかばは、系の臨時調査班に関わり、山間部の捜索記録を収集した。特に、遭難報告のうち約が「夜間の判断ミス」由来と分類され、その再発防止のために図表の運用を研究したとされる[5]。
、彼は『紙の安全弧線』の初版を公開した。これは地図上に“燃え進むべき矢印”を描くのではなく、燃える条件を先に規定し、その条件に適合した紙・インクを指定する方式であった。結果として、道具の規格化が先行し、林業現場にも波及したとされる。
ただし、かばの研究は奇抜で、講習会では「使用紙を一度だけ点火し、燃え残りの長さを測る」という手順を取り、参加者は唖然としたという[6]。この儀式めいた評価が、のちに“可燃性地図学”と呼ばれる語の定着につながった。
晩年と死去[編集]
晩年には、若手研究者の育成よりも、自治体の防災備蓄の在り方に助言することが増えた。かばは『地図は読むものではなく、切り分けて使うもの』と述べ、手帳サイズへの再設計を強く主張したとされる。
に公式な研究班から退いた後も、個人的に「風向の変化を前提にした避難の二段階分岐」をノートにまとめた[7]。3月2日、の自宅で体調を崩し、で死去したと記録される。
人物[編集]
やま かばは、几帳面な観察者でありながら、観察の“仕方”が極端に慎重であることで知られた。本人は「地図は嘘をつかないが、紙は嘘をつく」として、湿度計よりも紙の反応を優先する姿勢を貫いたとされる[8]。
逸話として、の講演会で彼は聴衆に対し、同じ縮尺の地図を三種類配布し、帰宅後に“どれが最も長く燃えるか”を報告させたことがある。報告は翌週締切で、うち約は「比較のため火をつけたが、結果よりも家族に怒られた」という内容だったとされる[9]。
また、性格は外向的とも内向的とも評され、同僚には「質問には真面目に答えるが、答えが出る前に必ず灰を見せる」と言われた。なお、この灰は実験用の灰であり、彼は灰の堆積パターンを“小さな地図”と呼んだ。
業績・作品[編集]
やま かばの代表的な業績には、『紙の安全弧線』『安全弧線図(改)』『風向二段分岐帳票』『遭難時・夜間閲覧手引き』などがある。
『紙の安全弧線』は、地図記号の設計と、紙・インク・接着剤の耐湿特性をセットで規格化する発想を採ったとされる。具体的には、図面の縁に沿った“安全弧線”が、一定の乾燥条件下で繊維のほぐれ方が同じになり、燃焼経路が安定すると主張した[10]。さらに、避難手順には「読み→切り離し→点火→目印回収」という順序が組み込まれていたという。
一方で、かばの晩年にまとめられた『風向二段分岐帳票』は、風向が変わるたびに避難方向を変えるだけでなく、方向転換した記号を“後から復元しやすい形”に統一していた。これは捜索隊が再解釈できることを重視した設計であると説明されるが、実際の運用事例は少なく、記録は一部しか残っていない[11]。
後世の評価[編集]
やま かばは、可燃性地図学を「防災道具の実用化」として評価する声がある一方で、危険性や倫理面に対する批判も受けた。支持者は、紙の扱いを誤って燃やす危険ではなく、“燃やさないための設計”を先に確立したと主張した[12]。
反対者は、学習体験として点火を含む手順が広がることで、一般利用者が火を過信する懸念を指摘した。また、数値化の根拠が曖昧な箇所があり、特に「湿度80%」の係数の扱いは、後年の追試で再現性が低いとする報告が出ている[13]。
それでも、彼の設計思想は自治体の防災教材に影響し、の日本災害工学賞(特別部門)の受賞へとつながったとされる。ただし、その選考理由には“山火対応の現場で、紙が不用意に燃えない工夫が役立った”と記されており、同賞の公式記録の一部は後に訂正されたという[14]。
系譜・家族[編集]
やま かばの家系は、代々測量を行う“山番”の家であるとされる。本人はにの旧商家出身のと結婚したとされ、家には測量具と帳簿が残っていると語られる[15]。
子には、地図の印刷工程を管理する娘のと、学校教材の編集に携わった息子のがいたとされる。特には、父の実験手順を「危険度を落として再教育できる形」に翻案したとされ、晩年の作品が教材化される道を作ったとされる。
なお、かばの死後、家族は「灰を保存する箱」を整理する際に数回の紛失騒動を起こしたとも伝えられている。この箱がどの実験の灰を含んでいたかは、現在も完全には特定されていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 山田綱彦『可燃性地図学の系譜』風見書房, 1978.
- ^ 高橋澄江『山火と紙の挙動:実務現場の記録』東雲印刷学会, 1963.
- ^ Margaret A. Thornton『Cartography Under Combustion Constraints』Institute of Field Geography Press, 1959.
- ^ 中村貞治「遭難報告分類と夜間判断ミスの確率」『防災統計研究』第12巻第3号, 1941, pp. 41-67.
- ^ Lars E. Holm『Wind-Vector Evacuation Models』Nordic Safety Publications, 1966, pp. 120-144.
- ^ やま かば『紙の安全弧線(初版)』自費出版, 1935.
- ^ 伊藤礼次郎『図学における“読まずに使う”思想』中央図書館編, 1951.
- ^ 鈴木春彦「安全弧線図の教材化プロセス」『地方防災紀要』Vol. 7, 1969, pp. 9-33.
- ^ 王子田寛『日本災害工学賞の選考史』災害工学史叢書, 1982.
- ^ (要出典気味)田中敏夫『湿度係数の再現性について』煙学会雑誌, 1970, 第2巻第1号, pp. 1-8.
外部リンク
- 可燃性地図学資料館
- 岐阜防災教材アーカイブ
- 帝都地理技術専門学院(旧資料)
- 風向二段分岐研究会
- 日本災害工学賞 選考文書庫