和夜 一成
| 氏名 | 和夜 一成 |
|---|---|
| ふりがな | わや いっせい |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 出生地 | 日本・堺市浜寺 |
| 没年月日 | 1989年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間語彙史研究家、随筆家、講演家 |
| 活動期間 | 1934年 - 1987年 |
| 主な業績 | 「わや語彙圏」の概念化、口語崩壊期の記録、各地の言い回し採集 |
| 受賞歴 | 関西口承文化賞、近代俗語研究奨励賞 |
和夜 一成(わや いっせい、 - )は、の民間語彙史研究家、風俗観察家である。口語表現「わや」の全国的な定着に関与した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
和夜 一成は、昭和中期から平成初期にかけて活動したの民間語彙史研究家である。特に、関西圏を中心に用いられた感嘆・破綻・混乱を一語で示す表現「わや」の体系化を試みたことで知られる[1]。
和夜は、日常会話の中で生じる「うまくいかない状態」の言語化に強い関心を示し、各地の市場、寄席、駅前広場、工場宿舎などを歩いて用例を採集した。のちに彼が提唱した「わや語彙圏」は、から南部、南西部にかけての口語変化を説明する架空の枠組みとして、半ば学界、半ば民間伝承のように受け入れられた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
和夜は、堺市浜寺の船大工の家に生まれた。幼少期から近隣の商家で飛び交う俗語や省略語に耳を傾け、特に失敗談が語られる際に出現する「わや」の多義性に強く惹かれたとされる[1]。
小学校時代には、教員が黒板に書いた算術問題が難航した際、同級生が「もうわやや」と言った場面を反芻し、言葉が意味だけでなく空気の崩れ方を示すことに気づいたという。後年この体験が、和夜の研究の原点として繰り返し引用されたが、本人が残した日記の記述は断片的で、年代整合には疑義がある。
青年期[編集]
にの旧制中学へ進学した和夜は、文芸部よりも演芸研究会に出入りし、上方漫才と市場の掛け声を同じノートに記録した。さらに、の聴講生として民俗学講義を受け、系統の口承研究に刺激を受けたとされるが、実際にどの講義を受講したかははっきりしない[2]。
この時期、和夜は付近で露天商に聞き取りを行い、「わや」は単なる失敗ではなく、失敗が連鎖して収拾不能になった状態を指すと整理した。彼の調査メモには「鍋が焦げ、客が増え、雨が降り、口が滑り、全部がわや」といった例文が残っており、のちの著作にほぼそのまま転用された。
活動期[編集]
、和夜は私費で小冊子『わや考』を刊行し、関西の口語を「事態崩壊の段階に応じて分類する」試みを発表した。これが大阪の印刷業者の間で妙に受け、代には工場の掲示や寄席の楽屋帳にまで「今日はわや日」などの用例が書き込まれるようになった[3]。
にはの臨時講師となり、講演「わやの社会学」をの公会堂で行った。聴衆は42名であったが、終演後に会場係が「話が長くて会場運営がわやになった」と評した逸話が残る。またこの頃、和夜はの倉庫街で荷役作業員の隠語を調査し、「わや」が命令語としても使われる地域差を指摘した[4]。
には、地方新聞の連載「ことばのほこら」でコラム執筆を始め、からに至る用例地図を掲載した。ただし地図の一部には、編集者の誤植によって「わや海峡」なる架空の地名が混入し、かえって読者の関心を集めたとされる。
晩年と死去[編集]
晩年の和夜は西宮市の自宅で、講演録と方言札を分類しながら過ごした。晩年の筆致は次第に細かくなり、同じ語の用例に対して「良いわや」「救いのないわや」「見通しの立つわや」など、独自の階層を付けていた[5]。
11月3日、和夜はで死去した。死因は心不全とされるが、最期まで机上に「わやは終わらぬ」と書かれた半紙が置かれていたという逸話が広く流布した。葬儀では参列者が口々に「今日は本当にわややな」と言い合い、結果として弔問の動線が渋滞したと記録されている。
人物[編集]
和夜は、学者肌でありながら現場主義を徹底した人物であった。調査の際は必ず二種類の鉛筆と、折りたたみ式の小型録音機、そして「場がわやになったらすぐ引くための切符」を持ち歩いたという。
性格は温厚であったが、語義の乱れには厳しく、弟子が「わや」を単なる「めちゃくちゃ」の意味で片づけると、30分ほどかけて「それでは崩壊の相に関する情報が足りぬ」と説諭したとされる。なお、酒席では一転して饒舌となり、の割烹で机に箸を並べて用例の分類を始めるため、同席者が食事を中断することも多かった[6]。
逸話として有名なのは、の大雨の日にで傘の骨が折れた際、和夜が「いまのは傘がわやになったのではない。わやが傘を使ったのだ」と言い切った件である。この発言は本人の比喩癖を示すものとして語り継がれる一方、弟子の記録には「その場にいた全員が少し黙った」とだけ残されている。
業績・作品[編集]
主著[編集]
和夜の主著とされる『わやの民俗学』()は、口語表現を災害、失敗、祝祭、停滞の四相に分類した独自の著作である。とりわけ第3章「駅前におけるわやの発生条件」は、周辺の人流を1時間単位で記録した表が付され、地方語研究の資料として引用された[7]。
また『わや辞典試案』()では、語義が87項目に細分化され、うち14項目は実際には和夜の創作であると後年に指摘された。だがその架空項目「わや・半快復型」「わや・祝祭崩壊型」などがあまりに便利であったため、逆に実用語として定着した。
調査方法[編集]
和夜は、聞き取り調査に際して「同じ話を三回させる」方法を採用した。これは一回目で感情、二回目で事実、三回目で言い回しが出るという独自理論によるもので、の一部研究者からは高く評価されたが、統計的妥当性には疑義があるとされた[8]。
彼はまた、路面電車の停留所名や市場の値札に現れる「わや」的表現を採集し、のにおける都市生活の圧縮率を測る指標として用いた。後年の社会言語学では、この方法を「和夜式街頭断層観測」と呼ぶことがあるが、一般にはほとんど浸透していない。
受賞と講演[編集]
、和夜はを受賞した。授賞理由は「失敗の言語を、恥ではなく知として保存した功績」であったとされる[9]。
講演活動も精力的で、からまで年間20回前後の巡回講演を行った。聴衆の反応を毎回記録し、拍手の長さが18秒を超えた回では「わやの理解が進んだ」と判定するなど、独特の評価基準を用いていた。
後世の評価[編集]
和夜の業績は、、、の境界領域で再評価されている。特に以降は、失敗学やリスク研究の文脈で「事態の崩れを感情語として捕捉した先駆者」として言及されることが増えた[10]。
一方で、「わや語彙圏」の範囲設定や、用例の採集態度については批判も多い。とくに北部にまで一律に拡張した地図は、のちに「湖西を越えた時点で既にわや」と編集者が注記したため、学術的というより半ば風刺として読まれている。
それでも和夜の名は、関西の口語文化を語る際にしばしば登場し、内の一部学校では「わや」を使うと提出物の締切を一日延ばすという伝説まで生まれた。もっとも、この制度が実在した証拠は見つかっておらず、むしろ学内の混乱が拡大した結果として後付けで語られた可能性が高い。
系譜・家族[編集]
和夜の父・和夜 正吉はの船具商で、母・和夜 さとは近隣の寺に出入りする行商人から言葉を拾う習慣があったという。兄弟は三人おり、長兄は港湾荷役、次兄は理髪師で、いずれも和夜の調査に協力したとされる[11]。
妻はに結婚した和夜 みさおで、晩年まで原稿の誤字を赤鉛筆で直していた。子は長男の和夜 恒一、長女の和夜 芳子の二人で、長男は父の死後に遺稿整理を担当したが、分類の途中で「わやの家系図がわやになる」と述べて作業を一時中断したという。
なお、和夜家には「言い争いになると必ず鍋が煮える」という謎の家訓があったと伝えられるが、これは親族が後年に面白半分で付け加えた可能性もある。系譜研究者の間では、これを和夜の著作に通底する「熱量と混乱の同居」の象徴とみなす説がある。
脚注[編集]
[1] 和夜一成記念資料室『和夜一成年譜』私家版、1991年。
[2] 近畿口承文化研究会編『関西口語史資料集』第3巻、1964年、pp. 44-57。
[3] 田辺俊哉「戦後大阪における俗語の拡散」『方言と都市』Vol. 8, No. 2, 1972年, pp. 101-118。
[4] 関西口承文化研究会『講演録 わやの社会学』内部資料、1958年。
[5] 和夜みさお『和夜一成 書き付け帖』和夜家文庫、1990年。
[6] 村瀬昭彦「酒席における学者の発話様式」『大阪文化評論』第12号, 1980年, pp. 19-33。
[7] Issei Waya, Waya no Minzokugaku, Kinki Press, 1962, pp. 88-121.
[8] 小林一郎「反復聞き取り法の有効性について」『社会言語学研究』第5巻第1号, 1975年, pp. 3-17。
[9] 関西口承文化賞選考委員会『第17回選考記録』1968年。
[10] Margaret L. Thornton, "Lexical Collapse and Urban Affect", Journal of Japanese Folkloric Studies, Vol. 14, No. 1, 1996, pp. 201-219。
[11] 和夜家親族会『浜寺の和夜家』非売品、2004年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 和夜一成『和夜一成年譜』私家版, 1991年.
- ^ 近畿口承文化研究会編『関西口語史資料集』第3巻, 1964年, pp. 44-57.
- ^ 田辺俊哉「戦後大阪における俗語の拡散」『方言と都市』Vol. 8, No. 2, 1972年, pp. 101-118.
- ^ 関西口承文化研究会『講演録 わやの社会学』内部資料, 1958年.
- ^ 和夜みさお『和夜一成 書き付け帖』和夜家文庫, 1990年.
- ^ 村瀬昭彦「酒席における学者の発話様式」『大阪文化評論』第12号, 1980年, pp. 19-33.
- ^ Issei Waya, Waya no Minzokugaku, Kinki Press, 1962, pp. 88-121.
- ^ 小林一郎「反復聞き取り法の有効性について」『社会言語学研究』第5巻第1号, 1975年, pp. 3-17.
- ^ 関西口承文化賞選考委員会『第17回選考記録』, 1968年.
- ^ Margaret L. Thornton, "Lexical Collapse and Urban Affect", Journal of Japanese Folkloric Studies, Vol. 14, No. 1, 1996, pp. 201-219.
- ^ 松浦健二「わやの意味層と都市雑音」『国語と民俗』第21号, 1983年, pp. 55-70.
- ^ E. H. Caldwell, "Street Speech and Breakdown Semantics", Urban Linguistics Review, Vol. 3, No. 4, 1979, pp. 11-29.
外部リンク
- 和夜一成記念資料室
- 関西口承文化研究会アーカイブ
- 浜寺ことばの小径
- 都市俗語データベース・わや索引
- 大阪民間語彙研究センター