アナル絞り機
| 分類 | 衛生補助機械、体圧調整装置 |
|---|---|
| 初出 | 1928年ごろ |
| 発祥地 | 大阪府大阪市此花区の工業試験区 |
| 設計者 | 田所 恒一郎 |
| 主用途 | 保温、姿勢固定、労働安全 |
| 構成 | リング式締結枠、油圧レバー、綿布ライナー |
| 普及期 | 1947年-1962年 |
| 標準価格 | 据置型 18円、小型卓上型 6円(1934年標準) |
| 現存数 | 国内外に7台とされる |
アナル絞り機(アナルしぼりき、英: Anal Squeezer)は、初期ので考案されたとされる、身体保全と衛生管理を兼ねた機械装置である。のちにやの現場で応用されたとされ、戦後は家庭用の小型機も普及したという[1]。
概要[編集]
アナル絞り機は、もともとのにおいて、作業員の長時間座位による疲労を軽減するために研究された装置であるとされる。名称の通り強い印象を与えるが、実際には体幹を一定の圧で保持し、排泄関連の不快感を抑える「局所圧管理機」として設計されたという[1]。
この装置は、恐慌期の労務改善運動と結びつき、・・の現場でひそかに導入された。なお、導入時には「締めすぎ防止講習」が義務づけられていたとされ、の『関西労働衛生年報』には「過剰使用により座面が鳴る」との記録がある[2]。
戦後になると、家庭内の冷え対策や坐骨神経痛の緩和に転用され、内の百貨店で実演販売が行われた。一方で、構造がやや特殊であったことから、町工場では「回転式便座固定器」と呼び換えられることもあった。
歴史[編集]
起源と試作期[編集]
起源は、の試験設備責任者であった田所 恒一郎が、寒冷期の倉庫作業で「腰が落ち着かない」という苦情を受けたことにあるとされる。田所はとを組み合わせた試作機を3日で作り、旧友の医師・に助言を仰いだ。三宅は当初、痔疾患対策の補助具として評価したが、実地試験では「やや締まりが良すぎる」と判定し、改良を命じたという。
試作第一号は木製の枠に真鍮製のレバーを備え、操作に熟練を要した。記録によれば、訓練された職工が一回の操作を終えるまで平均47秒を要し、失敗すると座面の布が斜めにずれた。そのため、1930年にはの下請け工場で量産化の検討がなされたが、名称の印象が強すぎるとして社内で2度差し戻された[3]。
普及と改良[編集]
後半には、系の衛生啓発冊子に「局部圧定具」の名称で図版が掲載され、労働組合の掲示板でも紹介されたとされる。とくにでは、夜勤明けの積荷作業員向けに据置型が配備され、1日あたり平均18人が使用したという。もっとも、当時の機械は温度調整が不安定で、冬季には締結部の油が固まりやすく、逆に夏季は「必要以上に緩む」事例が相次いだ[4]。
この問題を受け、にの出身技師・が、バネ圧を段階化した改良型「N式三段締圧機」を設計した。これにより、利用者は1から3までの圧段を選択できるようになり、工場ごとの好みに合わせた細かな調節が可能になった。なお、三段式はあまりに好評で、当時の技術誌では「座位文化の民主化」とまで評されたという[5]。
戦後の転用[編集]
以降、連合国軍占領期の物資不足のなかで、アナル絞り機は医療補助器具として再定義され、監修の冊子『冬期坐位保全の手引』に採録されたとされる。とりわけの復員宿舎では、冷えによる体調不良の緩和用として小型卓上型が配られたという。配布台数は初年度で推計214台にのぼり、うち13台は誤って裁縫机に固定された。
には家庭向け商品「ホーム・スリム42」が発売され、の電器店街で「家族3人まで同時に調整可能」と宣伝された。もっとも、同時使用の需要はほとんどなく、広告の文言だけが独り歩きしたとされる。その後、に入ると電気椅子型座椅子やマッサージチェアに吸収され、専用品としては姿を消した。
構造[編集]
基本構造は、外周リング、圧力調整レバー、姿勢固定用の尻当て板、綿製ライナーからなる。特に外周リングは製が標準で、戦後の廉価版では合金に置き換えられた。安全装置として「逆締め止め爪」が備えられ、これが作動すると内部のばねが自動的に1段戻る仕組みであった。
操作手順は、着座、位置合わせ、段階圧の確認、合図音の待機、解放という5工程で構成された。現場では合図音にの低音を用いた例もあるとされるが、これは一部の工場に限られる。なお、利用マニュアルには「過度の自信は禁物」とだけ記された箇所があり、現代の研究者の間でしばしば話題になる[6]。
また、据置型には「冬季保温槽」が付属し、内部を37度前後に保つ機構があった。これは当時の技術を応用したもので、実用性よりも「安心感の演出」に比重が置かれていたとみられる。
社会的影響[編集]
アナル絞り機は、労働現場の衛生器具であると同時に、昭和前期の「身体を機械で管理する」という思想を象徴する存在として受け止められた。工場によっては休憩室に常備され、昼休みの5分間だけ使用を許可する制度が導入されたため、使用順をめぐって軽い争いが起きたこともある。
一方で、の調査では、導入工場の欠勤率が平均で1.8%低下したとされる。ただし、この数字は同時期の暖房設備改善と区別できないため、因果関係は不明であるとの指摘がある。とはいえ、作業服業界では「座りの良い服」という新たな市場が生まれ、後の設計にも影響を与えたとする説がある[7]。
文化面では、落語家のが新作演目『締めの一席』で装置を茶化したことをきっかけに一般知名度が上がった。昭和30年代には子ども向け雑誌でも「おうちの科学」として紹介され、模型工作の題材になるなど、独特の普及を見せた。
批判と論争[編集]
最大の論争は、名称の不適切さである。衛生業界では早くから「局所圧定器」への改称が提案されたが、現場では短くて覚えやすいとして旧称が残った。これに対しのは「家庭教育上きわめて好ましくない」と声明を出し、百貨店の売場では一時的に商品名を「丸座締機」に変更した。
また、利用時の姿勢固定が強すぎるとして、の一部医師からは「長期使用は坐骨周辺の感覚を鈍らせる」との警告も出た。ただし、同時に「適正な圧であればむしろ血行に資する」とする反論もあり、学界の評価は割れている。1959年のでは、3時間にわたり本機の安全性が討議され、最終的に議長が「まず名称を何とかしたい」と述べた記録が残る[8]。
さらに、海外輸出をめぐっては向けに10台が試験出荷されたが、現地代理店が「家庭用足温器」と誤認して返品した事件が有名である。この失敗以降、輸出資料には図面を2枚増やし、用途説明を倍以上にしたという。
現存状況[編集]
現存が確認されている個体は少なく、の1号機、の据置型、内の私人蔵3台、海外のコレクターが所蔵する2台が知られる。いずれも実働可能とされるが、現在は保存上の理由から年1回しか通電されない。
2014年には、博物館所蔵の個体をめぐって部品の一部が交換されたかどうかが議論となった。とくにレバーの刻印が旧字体から新字体に見えるとして、学芸員が3か月かけて再調査を行った結果、実は1962年の修理記録に「誤って別機種の部材を流用」と明記されていたことが判明した。このため、現存品の真正性は高いが、純正状態はほぼ失われているとされる[9]。
なお、2021年にはの古道具市で「試作二号」と称する部品群が発見されたが、材質が明らかに新しすぎるため、研究者の間ではいまなお意見が分かれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田所恒一郎『局所圧管理機の試作と労務改善』大阪工業試験場報告書, 1931.
- ^ 三宅信之助『坐位疲労と圧定補助具』関西医科雑誌 Vol.12, No.4, pp. 201-219, 1932.
- ^ 西尾芳之「三段締圧機の設計に関する研究」名古屋高等工業学校紀要 第18巻第2号, pp. 77-94, 1942.
- ^ 『関西労働衛生年報 1932』関西労働衛生協会, 1933.
- ^ Margaret A. Thornton,
- ^ Margaret A. Thornton, 'Pneumatic Seating and the Japanese Postwar Workplace', Journal of Comparative Industrial Design Vol. 8, No. 1, pp. 11-36, 1959.
- ^ 山岡敏雄『冬期坐位保全の手引』厚生省衛生局, 1948.
- ^ 桂枝松『締めの一席』新作落語台本集 第3巻, 1956.
- ^ 日本機械衛生学会編『座と圧の安全基準』日本機械衛生学会出版部, 1960.
- ^ 佐伯美和『家庭用圧定具の普及史』生活科学研究所叢書, 1964.
- ^ H. K. Ellington, 'A Small Apparatus for Lower-Body Comfort in Prewar Osaka', Transactions of the Pacific Museum Studies Vol. 5, No. 2, pp. 88-103, 1972.
外部リンク
- 大阪工業試験場デジタルアーカイブ
- 関西衛生機械資料室
- 港湾労務安全史研究会
- 昭和家庭器具博物館
- 日本圧定具コレクター協会