アビドス砂漠
| 名称 | アビドス砂漠 |
|---|---|
| 別名 | アビドス乾燥帯、白砂の回廊 |
| 位置 | エジプト・ナイル川西岸 |
| 座標系 | 古アビドス測地帯 |
| 面積 | 約2,840平方キロメートル |
| 成立 | 前2100年頃に地形分類が定着 |
| 管理 | エジプト古砂管理局 |
| 主な遺構 | 砂丘墓、方位標、塩柱道 |
| 関連史料 | アブド・ハキーム写本、メルナート地図断簡 |
アビドス砂漠(アビドスさばく、英: Abydos Desert)は、北部の西岸にあるとされる、古代から近代にかけて断続的に記録された乾燥地帯である。考古学上の遺跡群と砂丘帯が重層的に分布するとされ、古代期の測量技術の起点として知られている[1]。
概要[編集]
アビドス砂漠は、の古都周辺に広がるとされる半乾燥地帯であり、地理学では単なる砂漠ではなく、の氾濫と風成砂が作り出した「文化的砂漠」として扱われることがある。現地では砂丘そのものよりも、古代の測量杭と巡礼路の残響が地層化した場所として理解されてきた。
この地域は、末期における王墓の拡張と、期の石材輸送路の再編によって輪郭が固定されたとされる。また、19世紀にはとの合同調査が行われ、砂漠でありながら「失われた河口盆地」と誤認された記録が残る[2]。
名称の由来[編集]
「アビドス砂漠」という呼称は、圏の巡礼者が使った「アブィドーソスの白い空白」に由来するとされるが、実際には末の地図製作者、が補助線を誤って砂地と重ねたことから定着したという説が有力である。なお、同時代の地元案内人の証言では、この地は「風が地面を忘れた場所」と呼ばれていたという。
に刊行された『Upper Nile Desert Notes』では、現地の乾いた河床が「昼には砂、夜には石板」と記されており、この曖昧な記述が後世の研究者を長く混乱させた。もっとも、の砂礫分析班は、砂丘層の上部に香料樹脂の微粒子が多いことから、宗教行列の停止点として機能していた可能性を指摘している[3]。
歴史[編集]
古代の成立[編集]
アビドス砂漠の起源は、期に遡るとされる。祭祀都市が拡張される過程で、王墓の造成に伴って掘り出された大量の砂が西方に積み上がり、結果として人工的な砂丘帯が生まれたという説がある。これを支持するには、幅37キュビトの「白い土手」が7本、ほぼ平行に描かれている。
一方で、に発表された地磁気調査では、砂丘の配列が方向に偏っており、これは古代の荷車隊が毎年同じ時刻に停止した「儀礼的風向制御」の名残であると解釈された。ただし、この説には要出典との指摘があり、学界でも支持は割れている。
中世から近代への再発見[編集]
からにかけて、この砂漠は巡礼者の休憩地として再評価された。特にの洪水年には、砂丘の縁に一夜で塩の輪が形成され、これを見た隊商たちが「聖域の封印」と呼んで退避した記録が残る。
近代に入ると、率いるの調査隊がに初めて全域踏査を行い、砂丘の内部から高さ1.8メートルの方位標柱を114本発見した。モーレイはこれを「砂漠ではなく、地図そのものが地表に漏出したもの」と表現し、後の地理思想に奇妙な影響を与えた。
現代の保護と利用[編集]
以降、はアビドス砂漠を「遺産砂漠」として保全し、年間入域者数を最大12,000人に制限した。ところが、実際には乾期の夜間にだけ現れる可変砂丘があるとされ、の監視報告では、同一地点の高度が3日で最大4.6メートル変化したと記録されている。
また、近年はの土木学部が砂防実験地として利用しており、人工的な風除け列を並べると、巡礼路の残響が減衰するという奇妙な現象が確認された。これにより、アビドス砂漠は観光地であると同時に、古代交通工学の実験室としても注目されている。
地形と環境[編集]
アビドス砂漠の地形は、一般的な砂漠に比べて層が細かく、表層の0.5〜1.2メートル下に「硬化した巡礼灰層」が見られる点で特徴的である。これは香炉の灰と風成砂が混合して固結したものとされ、現地調査では歩行音が通常の砂漠よりも1割ほど鈍くなる。
降水量は年間18ミリ前後とされるが、夜間にだけ露が集中的に発生する「逆露」現象があり、岩陰には塩分を含んだ水滴が珠状に残る。これを飲用してはならないとされるが、19世紀の探検家の中には、味を「葡萄酒を失敗させたような塩気」と記した者もいた。
植生は乏しいが、と呼ばれる背の低い灌木が点在し、枝に砂粒を溜め込むことで自らを重くし、風で移動しない性質を持つという。なお、この植物はの目録に一度だけ掲載されたが、その後、標本が湿気で石膏化していたため再分類が続けられている。
考古学的意義[編集]
この地域が特異なのは、砂丘そのものが墓域、道路、記録媒体の3つの役割を兼ねていたと考えられている点である。発掘では、木簡状に束ねられた葦片、顔料が塗られた小石、そして長さ約14センチの「歩幅印」が多数見つかっている。
の調査隊は、砂丘内部から等間隔に埋められた陶片群を発見し、それを「移動距離の目盛り」と解釈した。これに対しの保守派は、単なる供物の破片であると反論したが、陶片が個ずつ束になっている点については説明できなかった。
また、アビドス砂漠では方位を示す石柱がしばしば墓標に転用されており、死者の名前よりも「風が来る側」「影が短い側」といった環境情報が刻まれている。これが古代の景観記録の精度を高めた一方で、後世の研究者には意味不明な呪文にしか見えなかった。
社会的影響[編集]
アビドス砂漠は、周辺住民の生活様式にも深く影響した。特にとの慣習は、この地域の風向と砂の移動周期に合わせて発達したとされる。毎年、乾期の第3週には「砂の向き替え」と呼ばれる市場調整が行われ、荷役料金が2割前後上下したという。
また、にが制作したラジオ番組『砂丘通信』は、アビドス砂漠の気象を毎朝6時17分に読み上げる番組として人気を博した。視聴者からは「天気予報なのに考古学の講義のようだ」と評され、結果として一般市民の間に砂漠地形への関心が広がった。
一方で、観光化の進展により、土産物店が「砂の方位標」を量産し、実際には近隣の海浜砂を詰めただけの商品が横行した。これに対抗するため、はから認証印「ABYDOS-Δ」を導入したが、印字がかすれてと誤読される事案が多発した。
批判と論争[編集]
アビドス砂漠をめぐっては、その成立史を人工か自然かで分ける議論が続いている。とりわけのは、砂丘の配列が「極めて計画的であり、自然地形にしては整いすぎている」と主張したが、これに対しは「整いすぎる地形は砂漠でもしばしば起こる」と反論している。
さらに、に公開された衛星画像では、砂漠中央部に長さ約240メートルの直線が確認され、これが古代の測量基線であるとする説と、単に近代のトラック跡であるとする説が激しく争った。なお、はこの直線を「判断保留」としたが、会議録の脚注には「実地では誰も真っ直ぐ歩けなかった」と記されている。
また、地域伝承に現れる「砂が夜に移動して墓碑を数える」という話については、気象現象の誇張であるという見方が主流である。ただし、の巡視報告には、前夜に立てた杭の本数と翌朝の本数が一致しなかったとの記載があり、今もなお完全な説明は与えられていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Edward C. Hale『Upper Nile Desert Notes』Royal Geographical Memoirs, Vol. 12, pp. 44-79, 1897.
- ^ Mariam N. Fawzi『The White Ridge System of Abydos』Journal of Desert Antiquities, Vol. 8, No. 2, pp. 101-136, 1931.
- ^ アフマド・サービル『アビドス砂漠の形成史』カイロ大学出版局, 1964年.
- ^ Helen P. Clark『Geometric Sands and Ritual Roads in Lower Upper Egypt』Oxford Archaeological Papers, Vol. 19, No. 4, pp. 201-233, 1988.
- ^ 渡辺精一郎『砂と記憶の地理学』東洋地理学会, 第3巻第1号, pp. 12-41, 1975年.
- ^ Isabelle Morand『Abydos and the Problem of Moving Dunes』Annales du Désert, Vol. 27, pp. 5-38, 2004.
- ^ アル=ハキーム・イブン・ファリード『メルナート地図断簡注釈』アレクサンドリア古文書研究所, 1928年.
- ^ S. J. Pembroke『The Reverse Dew Phenomenon in Central Abydos』Proceedings of the Royal Society of Sand Studies, Vol. 6, No. 1, pp. 88-95, 2012.
- ^ 高橋晶子『遺産砂漠と観光統制』文化景観研究, 第14巻第2号, pp. 55-90, 1999年.
- ^ Pierre Lemoine『Abydos Desert: A Map that Leaked onto the Ground』Cartographic Review, Vol. 41, No. 3, pp. 310-329, 2017.
外部リンク
- エジプト古砂管理局
- 国際砂丘学会
- アレクサンドリア大学 砂礫研究センター
- 王立地理協会 砂漠史アーカイブ
- カイロ考古局 デジタル史料室