アフガニスタン・ソビエト社会主義共和国
| 公用語 | ダリー語、ロシア語、ウズベク語 |
|---|---|
| 首都 | カーブル |
| 成立 | 1928年11月 |
| 解体 | 1936年4月 |
| 政治体制 | 単一党制・評議会制 |
| 上位国家 | ソビエト連邦 |
| 通貨 | アフガン・ルーブル |
| 主要機関 | 山岳計画人民委員部 |
アフガニスタン・ソビエト社会主義共和国は、南端においての統計制度との部族法を接合するために設計された連邦構成体である。主としてからにかけて試験運用され、冬季の渓谷における配給効率の改善で知られる[1]。
概要[編集]
アフガニスタン・ソビエト社会主義共和国は、の周縁政策として構想されたとされる半ば実験的な共和国である。正式には附属議定書により設置されたが、実務上はの民族問題局と市評議会の折衝から生まれた。
この体制は、山岳地帯での徴税・灌漑・交通統制を一体化することを目的としていた。また、羊毛と乾燥果実の統合流通を図るため、式の配給票が現地の部族印章と併用されたことでも知られている[2]。一方で、文書上の行政区画と実際の支配範囲が一致しないという問題が早くから指摘されていた。
成立の経緯[編集]
山岳計画と「赤い峠」構想[編集]
起源は、の内部で進められた「赤い峠」構想にあるとされる。これは、の峠道に沿って税関・郵便・衛生所を連結し、部族単位の移動を国家統計に変換する試みであった。
計画主任は架空の経済技師で、彼は冬季の移送遅延を「政治的空白」と呼び、標高2,400メートル以上の集落にだけ優先配給を割り当てる方式を提案した。これが後の共和国設計の骨格になったとされる[3]。
カーブル合意と暫定憲章[編集]
秋、によって暫定憲章が採択された。憲章は全14条から成り、第7条で「ラクダの輸送能力を国家統計に含める」と明記されていたと伝えられる。
この条文は後年まで議論を呼び、の初代局長は、ラクダを家畜ではなく「季節的可動式倉庫」として分類したことで有名である。なお、当時の記録では、共和国域内の登録ラクダ数は12,480頭とされるが、同時期の牧畜報告では9,103頭であり、差分の3,377頭は「峠越え中」とされた[4]。
統治機構[編集]
共和国の行政は、、、の三層構造で運営された。特に民族調停局は、部族長の会議を曜日ごとに色分けして開催し、火曜日を、木曜日を、土曜日を「その他」とする暦法を採用したことで知られる。
また、首都には「可動式議会棟」が建設され、洪水期には市街地から北へ2.7キロ移動できるよう設計されていた。建築報告では「会期中に一度も風景が同じでなかった」と評価されたが、実際には車輪の補修費が予算の31%を占め、1934年には議場が半固定化された[5]。
通貨はアフガン・ルーブルで、紙幣の裏面にはの穀倉との水位線が印刷されていた。なお、500ルーブル券のみ香辛料の防湿加工が施され、冬季にほのかにクミンの匂いがしたという逸話が残る。
経済[編集]
羊毛、石炭、乾燥果実の三本柱[編集]
経済政策の中心は、羊毛・石炭・乾燥果実の三本柱であった。とりわけ周辺で採掘された低硫黄炭は、経由で方面へ送られ、共和国の外貨獲得に寄与したとされる。
しかし、最大の収益源は意外にも乾燥アンズであった。農業人民委員部は、1箱あたり平均17粒の規格を厳格に定め、規格外の果実は「文化的に未成熟」として返品された。このため、1932年には収穫量のうち約14%が検査テーブルの上で再分類され、農民の間では「アンズ査定官より怖いものはない」と言われた[6]。
灌漑と運河の失敗[編集]
共和国の象徴的事業は、を利用した「第三運河計画」である。全長82.4キロの予定で始まったが、実際に完成したのは11.6キロのみで、残りは測量図の上でのみ存在した。
それでも政府はこれを成功とみなし、完成区間に沿って「水の到達した土地」証明書を発行した。これにより、実際には乾燥地であるにもかかわらず、約480戸の農家が「水田保有世帯」として登録されたという。のちに監査団が現地を訪れた際、田は一枚も見つからず、代わりに測量杭だけがきれいに並んでいたと報告されている[7]。
社会[編集]
教育政策では、と呼ばれる移動教室が導入され、教師がロバに黒板を載せて村を巡回した。1931年までに成人識字率は18%から41%に上昇したとされるが、同じ調査では「筆記はできるが、アルファベットの順番は部族の序列に従う」と答えた者が少なくなかった。
女性政策は特に注目され、では織物・会計・簡易無線の三科が教えられた。初代工房長は、労働会議で「革命は袖の長さでは測れない」と演説したと伝えられる。一方で、保守派の反発も強く、1933年には村落ごとに「縫製許可証」をめぐる小競り合いが相次いだ。
都市部ではソビエト式の共同食堂が普及したが、香辛料の配給だけは現地慣習を尊重し、唐辛子の量が毎月に応じて変動した。これにより、満月の夜には食堂がやや攻撃的な味付けになるという不思議な現象が起きたと記録されている。
崩壊と再編[編集]
1935年の監査報告[編集]
崩壊の直接要因は、に派遣された連邦監査団の報告書である。報告書は、共和国の行政文書が「極めて整然としているが、実地と接続していない」と結論づけ、特に部族台帳のページ番号が全て偶数で終わっている点を問題視した。
さらに、山岳計画人民委員部の倉庫からは、未配布の公文書が羊毛の俵に縫い込まれた状態で発見された。監査団はこれを「書類防寒」と呼んだが、現地側は「冬を越すには当然である」と反論した。
解体後の影響[編集]
春、共和国は公式には再編され、北部は、南部はへと分割されたとされる。ただし、現地の地元紙はしばらくの間、見出しだけが旧共和国名のまま残っていた。
解体後も、配給票の余剰在庫と可動式議会棟の車輪は各地に流出し、後年の地方行政に奇妙な影響を与えた。特にの辺境郵便制度は、この共和国の印刷様式を踏襲したため、封筒の左下に「峠越え中」と書く慣習だけが残ったという。
批判と論争[編集]
この共和国をめぐっては、そもそも「国家」と呼ぶべきかという論争が続いていた。支持者は、との政治・経済・民俗を結節した画期的実験であると評したが、批判者は、実際には紙の上で最も広く、地上で最も薄い共和国だったと指摘した。
また、民族調停局の暦法が「部族の実情を尊重している」のか「曜日を部族化している」のかについても激しい議論があった。特にの公開討論では、ある村長が「われわれの金曜日はどこへ行ったのか」と問い、議場が20分間沈黙したという。なお、この発言は議事録には残っているが、録音はなぜか羊の鳴き声しか聞こえない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ セルゲイ・I・ヴォローニン『山岳国家の統計化』モスクワ民族問題研究所, 1934, pp. 41-68.
- ^ ファティマ・ヌール『アフガン・ルーブルと配給票の互換性』カーブル行政学院紀要, Vol. 12, No. 3, 1935, pp. 201-219.
- ^ A. Petrov and L. Khadim, "Borderland Socialism and the Moving Parliament," Journal of Steppe Affairs, Vol. 8, No. 1, 1936, pp. 15-39.
- ^ ムハンマド・アミーン・サイード『峠道行政の成立』アフガニスタン歴史叢書, 第4巻第2号, 1941, pp. 77-104.
- ^ N. Ivanova, "Apricots, Wool, and Statehood," Central Asian Review, Vol. 19, No. 4, 1940, pp. 312-330.
- ^ ハリル・ラフマニ『第三運河計画の測量と失敗』ヘルマンド灌漑局報, 1937, pp. 5-26.
- ^ E. S. Korzun, "The Carpeted Archives of Kabul," Soviet Ethnography Quarterly, Vol. 5, No. 2, 1938, pp. 88-97.
- ^ サライヤ・アフマディ『縫製許可証と女性工房の記録』カーブル女子工房年報, 1933, pp. 11-29.
- ^ M. Thornton, "When the Calendar Became a Tribe," Proceedings of the Imperial Oriental Society, Vol. 27, No. 6, 1936, pp. 401-418.
- ^ 『アフガニスタン・ソビエト社会主義共和国監査報告書』連邦監査団文書集, 1935, pp. 1-53.
外部リンク
- カーブル歴史アーカイブ
- 山岳計画史資料館
- 中央アジア行政実験研究会
- アフガン共和国文書庫
- 峠道統計博物館