トルキスタン連邦共和国
| 国名 | トルキスタン連邦共和国 |
|---|---|
| 成立 | 1924年 |
| 崩壊 | 1937年ごろ |
| 首都 | サマルカンド(名目上) |
| 公用語 | トルコ語諸方言、ペルシア語、ロシア語 |
| 通貨 | 連邦タラン |
| 政体 | 議院内閣制を採用した連邦共和国 |
| 議会 | 連邦議会 |
| 主な構成地域 | フェルガナ盆地、ブハラ、ヒヴァ、南カザフ草原地帯 |
トルキスタン連邦共和国(トルキスタンれんぽうきょうわこく、英: Turkistan Federal Republic)は、のとを統合するために構想された連邦制国家である。一般にはので成立したとされるが、その実態については後年まで諸説があった[1]。
概要[編集]
トルキスタン連邦共和国は、崩壊後の中央アジアにおいて、遊牧社会とオアシス都市の利害を調停する目的で構想されたとされる連邦国家である。農牧分離政策に代えて「水路共同体」を基礎に据えた点が特徴で、後世の型の民族区分よりも柔軟であったと評されることがある。
一方で、実際には外交文書、巡回税台帳、の商人ギルド記録のあいだで記述が食い違っており、連邦の実在性そのものをめぐる議論が長く続いた。特に以降に発行された教科書では「臨時連邦」説と「水利同盟」説が併記され、研究者の間では「国家というより巨大な灌漑契約体であった」とする見解もある[2]。
成立の経緯[編集]
起源は夏、で開かれた非公式な「綿花・運河合同会議」にさかのぼるとされる。ここで、、らが、各オアシスの取水権を国家権力ではなく議席配分で調整する案をまとめた。
翌には、で起きた取水争議をきっかけに「四季水量制」が採択され、春は農民代表、夏は牧民代表、秋は都市商人代表、冬は修道院跡地の技師団が決裁権を持つという奇妙な制度が作られた。これが後に連邦制の原型になったとされるが、冬の決裁権を誰が行使したのかについては今なお要出典である。
歴史[編集]
連邦成立期[編集]
のでは、の旧官僚、鉄道技師、ヤギ毛商人、さらに系測量隊の通訳が同席し、8日間にわたって国境線ではなく「風向きと井戸の半径」を基準に行政区画を定めたとされる。最終日に採択された連邦憲章第3条は「水は共有、書類は各自」と定め、これが中央アジアの行政文書文化に強い影響を与えた。
成立直後の首都は名目上であったが、閣議の実務はので行われたという。首都機能が二重化した理由については、蒸気機関車の発着回数が多かったこと、また夏の暑さで議員がサマルカンドから逃げたことが挙げられている。
制度の整備と全盛期[編集]
に制定された「連邦灌漑法」により、との分水は、地図ではなく水車の回転数で記録されるようになった。これにより税率、収穫量、軍需配給が同じ表で管理されるという、きわめて効率的だが理解しがたい行政制度が生まれた。
また、にはの電信局を通じて、連邦初の「中央演算表」が導入された。これは当時としては珍しい機械式計算装置で、各地の収穫予測を出したが、実際には気温ではなくラクダの歩幅を変数に入れていたため、しばしば予測が外れた。なお、この装置を設計したは、後年「統計とは水の気分を読む技術である」と語ったとされる[3]。
衰退と解体[編集]
以降、世界恐慌の波が綿花価格を直撃し、連邦財政は急速に悪化した。特にでは、税収の見込みが年ごとにずれ、議会は「小麦で払うか、羊で払うか」をめぐって18回も再審議したという。
最終的な解体は前後とされるが、公式には「再編成」とされた。地方行政は式の共和国制度に吸収された一方、旧連邦の書記局はしばらくの香辛料倉庫で存続したため、1939年の商工会議所報告にはなお「Turkistan Federal Republic」の名が残っている。これが後世の混乱に拍車をかけた。
政治制度[編集]
連邦議会は二院制で、上院に相当する「水路院」と、下院に相当する「市民院」から成った。水路院は灌漑面積に応じて議席が配分され、市民院は納税額ではなく井戸の共同利用回数を基準に選出されたため、都市と農村の代表性が奇妙に均衡していたとされる。
首相職に当たる「連邦調停官」は、のウレマ層との長老会の双方から承認を受ける必要があり、就任には3種類の帽子を同時にかぶる儀礼があった。1928年に就任したは、この儀礼を「政治的には合理的だが、物理的には無理がある」と日記に残したとされる。
なお、地方自治体は「灌漑局」と「市場局」が対等に存在する二頭制であり、公共事業の決裁が遅れる代わりに、収穫期の暴動は比較的少なかったという。
経済[編集]
経済基盤は綿花、絹、塩、乾果の四本柱であったが、実務上はの維持費が国家会計の3割以上を占めていた。連邦予算では、1ルーブル相当の歳入に対して0.7ルーブルが土木、0.2ルーブルが儀礼、残りが郵便馬車の更新費に消えたと記録されている。
とりわけ有名なのが「冬の胡桃税」である。これは周辺で広く行われた臨時徴税で、納税者が胡桃を割る音の回数で家内人口を推定した制度であった。徴税官の一人は、胡桃の音が大きすぎる家は裕福であるという理由で追加課税したとされ、後の財政学研究でしばしば引用される。
また、からにかけては、ラクダ乳を担保にした短期信用が流通し、連邦中央銀行の前身である「水路信用庫」がこれを記帳していた。なお、帳簿の一部は湿気で溶けたため、現存資料の精度には限界がある。
文化と社会[編集]
連邦期の文化は、遊牧詩、スーフィー神秘主義、ロシア語新聞、そして測量図が同じ紙面に共存する独特のものであった。特にの印刷所では、新聞の縁に運河の水位が印刷され、読者が天気より先に水不足を知る仕組みがあった。
教育面では、に「三文字教育令」が出され、児童は、、を同時に習得させられた。1学期で3種類の文字を覚えられない者は夏季休暇中に井戸の深さを測る課題に回されたという。これにより識字率は急上昇したが、役所の掲示が季節ごとに読めなくなる副作用も生じた。
音楽では、とに蒸気機関の警笛を模した伴奏を加える「鉄道ムカーム」が流行した。1930年代の録音盤8枚がの私蔵コレクションから発見されたことがあり、真贋をめぐる論争が起きた。
批判と論争[編集]
トルキスタン連邦共和国をめぐる批判で最も大きいものは、実際には一枚岩の国家ではなく、の初期政策と地方商人の利害が混ざった便宜的呼称にすぎなかったのではないか、という指摘である。とくにのは、連邦政府の存在を裏づける議事録の多くが後年の写本であると論じ、研究史に衝撃を与えた。
一方で、連邦憲章の原本がのモスク裏から発見されたとするの報告もあり、学界は長く割れてきた。ただし、その原本には雨染みで「共和国」の「国」だけが読めなかったため、ある研究者は「連邦ではあったが共和国ではない」と結論づけた。これは意味がわからないが、中央アジア史ではしばしば有力説とされる。
さらに、旧連邦時代の公文書に繰り返し現れる「第四の井戸」という表現が、実際には第三の副署名者を指す暗号だったのではないかという説もある。これについてはとされることが多い。
歴史的評価[編集]
現代では、トルキスタン連邦共和国は失敗した国家建設の例としてよりも、中央アジアにおける複合的統治の実験として評価されることが多い。特に系の研究では、同国の水利行政が後の、、の越境水資源交渉に影響したとされる。
また、の歴史博物館では、連邦議会の投票箱、割れた胡桃税の秤、そして「冬の決裁帽」が展示されており、観光客の半数以上がそれを民族衣装と誤認するという。学芸員は「誤認もまた連邦の遺産である」と説明している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ エリザベート・M・ホフマン『Water and Votes in Inner Asia』Cambridge University Press, 2008.
- ^ アレクサンドル・クズネツォフ「トルキスタン連邦共和国の水利憲章」『中央ユーラシア史研究』Vol.12, 第3号, 1997, pp.45-88.
- ^ ミルザ・アブドゥラフマノフ『サマルカンド会議議事録抄』タシュケント歴史資料刊行会, 1934.
- ^ S. P. Voloshin,
- ^ The Fiscal Geography of Turkistan
- ^ Journal of Steppe Studies
- ^ Vol. 5, No. 2, 1961, pp. 101-133.
- ^ ナターリア・ボグダノワ「連邦タラン流通表の再検討」『ロシア帝国末期経済史』第8巻第1号, 2011, pp. 9-39.
- ^ Ibrahim Karimov, “Canals Before Nations: Administration in Samarkand”, Oxford Eurasian Papers, Vol. 19, 1972, pp. 200-241.
- ^ 佐藤光一『中央アジアの国家と井戸』東京大学出版会, 1989.
- ^ マリヤ・T・アリエワ『冬の胡桃税とその社会的効果』レニングラード経済史叢書, 1955.
- ^ ドミトリー・ラハティン「第四の井戸をめぐる文書学的考察」『文書史学季報』第21号, 2003, pp. 77-95.
- ^ B. A. Kadyrov, “Railway Muqam and the Sound of Administration”, Middle Asian Review, Vol. 11, No. 4, 1984, pp. 14-29.
外部リンク
- 中央アジア連邦史アーカイブ
- サマルカンド文書研究所
- フェルガナ灌漑遺産財団
- 旧トルキスタン公文書デジタル室
- 鉄道ムカーム録音保存会