ウィッチ山
| 名称 | ウィッチ山 |
|---|---|
| 読み | うぃっちやま |
| 英語名 | Witch Mountain |
| 成立 | 1897年ごろ |
| 提唱者 | マルグレーテ・L・ハンセン、渡辺精一郎 |
| 主な伝播地 | 北海道、長野県、東京都 |
| 関連組織 | 帝国地形研究会、民俗測量同好会 |
| 中心概念 | 山体を魔女の署名として読む方法 |
| 備考 | 一部の地質学者は装飾地図の副産物とみなしている |
ウィッチ山(ウィッチやま、英: Witch Mountain)は、起源のとが融合して成立したとされる、特殊なの総称である。19世紀末にの鉱山地帯へ輸入され、のちにの民俗学者らによって体系化されたとされる[1]。
概要[編集]
ウィッチ山とは、山の稜線や谷筋をの手稿に見立て、その形状に意味を読み取る一連の信仰・分類法・観測儀礼を指す名称である。一般にはの一支流として扱われるが、実際には、、が妙に整合してしまった結果生まれた複合概念である。
この概念は、後期にの官営鉱山で働いていたスウェーデン人技師マルグレーテ・L・ハンセンが、霧の多い斜面を「女性の署名のようだ」と記したことに始まるとされる。のちにの渡辺精一郎らがこれを再解釈し、山体の傾斜・植生・積雪線を三要素で判定する独自の学説へと発展させた[2]。
成立史[編集]
鉱山技師の観測記録[編集]
最初期の記録は、近郊の坑道監督日誌に現れる。ハンセンは第17号斜坑の通風不良を調べる際、対岸の山影が「尖った帽子を被った婦人の横顔」に見えると書き残した。この記述が後年、地元の炭鉱労働者に引用され、山を『ウィッチ』と呼ぶ半ば冗談の符牒が成立したとされる。
もっとも、当初の用法は現在の意味とかなり異なっていた。古い帳簿では、山そのものよりも霧の出方や雷の落ち方が重視されており、山麓のにあった風見盤と連動させて「魔女の機嫌」を読む実用的な予報法として利用されたという。なお、この時点で既にとを同時に記録する方式が採られていたが、誰が始めたのかは不明である。
東京での理論化[編集]
になると、神田にあった私設研究会「民俗測量同好会」がウィッチ山の整理を試みた。中心人物の渡辺精一郎は、山岳の外形を「輪郭」「転倒」「反響」の三段階で分類し、これをの会報に似せた体裁で発表した。論文は当初ほとんど相手にされなかったが、図版だけが妙に出来がよく、測量学校の副読本に流用されたという。
渡辺はさらに、・・の三山を「高位ウィッチ山」、やを「揺動型ウィッチ山」とする分類を提案した。これに対し地質学者の一部は、山体の形状を女性名に結びつけるのは擬人化が過ぎると批判したが、一方で観光事業者はこの分類を好意的に受け入れ、絵葉書の売上がからの間に約1.8倍になったとされる[3]。
全国への伝播[編集]
大正期にはの温泉地を中心に、ウィッチ山は「霧の出る山を見上げて方角を決める技術」として広まった。特に周辺では、朝霧の割れ方で「右手型」「笑顔型」「逆さ帽子型」を判定し、宿屋が天候案内に用いたとされる。
また、の一部がこれを山地通過訓練の補助に転用したため、半ば軍事技術として扱われた時期もある。もっとも実際には、記録係が山の名前をきれいに書けなかったため、どの山がどの分類に入るのかがしばしば混線し、同じ山が月ごとに三つの型へ入れ替わることがあった。これが後の「流動ウィッチ山論争」の原因になったとされる。
分類体系[編集]
三型分類[編集]
ウィッチ山の基本分類は、渡辺精一郎が提唱した三型分類である。すなわち、①、②、③であり、これに補助項目として「夜間反響係数」が付される。各山は稜線の鋭さだけでなく、風の通過時に生じる笛音の有無によっても判定されるため、見た目以上に測定者の感覚が介在する。
この分類は数値化が試みられ、1920年代には「ウィッチ指数」と呼ばれる独自指標が導入された。指数は0.00から12.75までとされ、7.20を超えると「公的に霊性がある」と扱われたが、算出式は研究会ごとに異なり、ある資料では地図の折れ目の数まで加点対象になっていた[4]。
儀礼的運用[編集]
山を見た者は、頂上の見え方に応じて帽子を脱ぐ、あるいは口笛を吹かない、といった簡易儀礼を守る必要があるとされた。とくに積雪期には、山頂が雲に隠れた回数を3回数える習慣があり、これを怠ると「山が地図からずれる」と信じられていた。
の一部旅館では、宿帳に宿泊者の出身地とともに「本日見たウィッチ山の型」を記入させる風習が昭和初期まで残ったという。現在ではほとんど廃れているが、観光案内書の脚注にだけ「霧の日は尖頂型を避けよ」といった古い注意書きが残存することがある。
社会的影響[編集]
ウィッチ山は、単なる奇妙な民俗概念にとどまらず、地図製作、温泉観光、登山教育にまで影響を与えたとされる。とりわけから初期の観光地図では、山の輪郭の横に小さな星印が付され、山体の「語りやすさ」が宿泊客の滞在日数と相関すると信じられていた。
一方で、山名の解釈をめぐる議論はしばしば激しくなった。のでは、地元新聞が「魔女の山」か「魔女に見える山」かで社説を三日連続掲載し、読者投書がに達したという。もっとも、投書の半数以上は同じ筆跡であったと後に指摘されている。
戦後になると、ウィッチ山はの一資料として静かに再評価された。だが、観光パンフレットだけは最後まで妙に熱心で、にが配布した小冊子では、山の写真に「会話に向く山」「沈黙が似合う山」という独自評価が付され、学術界を少し困惑させた。
批判と論争[編集]
最大の批判は、ウィッチ山が科学と信仰の両方を装いながら、実際には観測者の主観に大きく依存していた点にある。地形学者の間では、同じ山を見ても時刻や天候で型が変わるなら分類の意味が薄いとされたが、支持者は「山は動かぬが、見る側は動く」と反論した。
また、にの地理学講座で行われた公開実験では、同じ山を10名の研究者が別々に判定し、結果が3型すべてに分散した。ところが最後の1名だけが「この山は山ではなく、魔女が地図をたたんだ跡である」と発言し、会場が長時間沈黙したと記録されている。なお、この発言者の氏名は資料によって異なるため、現在も要出典とされることがある。
その後も議論は続いたが、実務上は「観光に使えるなら有効」という極めて日本的な解決がなされ、制度としては曖昧なまま保存された。結果としてウィッチ山は、否定されきらず、かといって確立もしないという、珍しい安定状態に入ったのである。
現代の扱い[編集]
21世紀に入ると、ウィッチ山はやの文脈で再登場した。にはの企画展「山を読む、霧を数える」で取り上げられ、来場者の一部が展示された等高線図をお守りのように持ち帰ったという。
現在、学術的にはほぼ消滅した概念であるが、登山愛好家や古地図収集家のあいだではなお語られている。特に、古い測量図に「W.M.」の略記がある場合、それをの痕跡とみなす研究者もいるが、実際にはの略である可能性も高いとされる[5]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『山体の署名と霧の読解』帝国地形研究会、1911年、pp. 14-39.
- ^ Margarete L. Hansen, "Observations on the Northern Slope Glyphs", Journal of Alpine Notation, Vol. 3, No. 2, 1898, pp. 201-219.
- ^ 斎藤久子『観光地図における魔女表象の変遷』民俗地理学叢書、1936年、pp. 88-112.
- ^ K. W. Armitage, "The Witch Index and Its Practical Uses", Proceedings of the Royal Cartographic Society, Vol. 17, No. 4, 1927, pp. 44-67.
- ^ 中村義昭『霧中の測量と山の気分』北方書房、1954年、pp. 5-26.
- ^ 「山を読むための三型分類試案」『民俗測量同好会報』第2巻第1号、1909年、pp. 1-18.
- ^ Harold Fenwick, "On Mountains That Refuse to Stay Classified", Transactions of the Society for Imaginary Topography, Vol. 9, No. 1, 1949, pp. 73-90.
- ^ 『長野県観光連盟資料集 1968』長野県観光連盟、1968年、pp. 113-121.
- ^ 松浦千春『等高線と帽子のあいだ』東京民俗出版、1978年、pp. 41-59.
- ^ 渡辺精一郎・マルグレーテ・L・ハンセン「夕張斜坑周辺の風向と山影認識」『帝国大学理工学報告』第14巻第3号、1902年、pp. 233-250.
外部リンク
- ウィッチ山資料アーカイブ
- 民俗測量デジタル図書室
- 北海道霧と山の会
- 古地図異説研究センター
- Witch Mountain Field Notes