エンターテイナーまいけりゅ
| 名称 | エンターテイナーまいけりゅ |
|---|---|
| 分類 | 舞台演芸、即興芸、地域芸能 |
| 発祥 | 日本・大阪府堺市周辺 |
| 成立期 | 1987年頃 |
| 主な担い手 | 初代まいけりゅ一座、関西演芸連絡会 |
| 特徴 | 語尾変化、回転ステップ、紙吹雪の自動展開 |
| 観客参加 | コール・アンド・レスポンス式の手拍子 |
| 関連施設 | 堺臨海芸能会館 |
エンターテイナーまいけりゅは、を中心に発展した舞台演芸の一系統で、話術・即興歌・小道具操作を同時に行う総合芸能である。とくに以降は、地方イベントや深夜番組を介して全国に普及したとされる[1]。
概要[編集]
エンターテイナーまいけりゅは、の港湾地帯で発生したとされる参加型の舞台芸能である。名称の「まいけりゅ」は、もともと港湾労働者の間で用いられていた掛け声「舞え、蹴りゅう」から転じたものと説明されることが多いが、異説も多い[2]。
この芸能は、観客を単なる鑑賞者として扱わず、手拍子の拍数、肩の揺れ、合いの手の音量まで演目の一部として組み込む点に特色がある。また、演者は左手で、右手で小型の、さらに足元の回転板を操作することが求められ、習熟には平均して3年4か月を要するとされる[3]。
起源[編集]
港湾祭礼からの派生[編集]
起源については、の夏にで行われた倉庫開放祭において、即席の余興として開始されたという説が有力である。初代の実演者とされる渡辺精一郎は、荷役の合間に短い口上を唱えながらを投げ、周囲の作業員がそれに合わせて足を踏み鳴らしたことで、演目としての原型が成立したと述べられている[4]。
ただし、同時期にでも似た形式の「まいける節」が確認されており、の複数の港で独立に発生した可能性も指摘されている。なお、当時の記録には「舞台装置としてのがそのまま花道になった」とする記述があるが、これは現場写真の一部がとされている。
命名と初期理論[編集]
名称の定着は、西宮市の地域文化研究会が発行した小冊子『港の声と拍』によるところが大きいとされる。同冊子では、まいけりゅを「移動する歓待の技法」と定義し、演者が常に半歩前進しながら観客の反応を先取りする現象を、の先駆的事例として扱っている[5]。
この時点で既に、まいけりゅには「一人で成立しない芸」という理論が付与されており、演者・観客・照明係の三者が同時に呼吸を合わせることで完成する、と説明された。後年の研究では、この三者関係を「まいけりゅ三角形」と呼ぶが、実際には四角形だったという証言も残る。
演目の構造[編集]
基本の三段構成[編集]
標準的な演目は、導入・回転・回収の三段構成である。導入では演者がの方言をやや誇張して自己紹介を行い、回転ではから回って中央に出るまでの6.8秒を見せ場とし、回収では冒頭の一言を必ず別の意味で反転させる。この反転技法は、1980年代後半の深夜ローカル番組で洗練されたとされる[6]。
また、演目ごとに「まいけりゅ指数」と呼ばれる独自の評価法が存在し、笑いの発生点、拍手の遅延、観客の体幹の揺れを数値化する。もっとも高い評価例はの堺臨海ホール公演で記録された97.3点で、当日は客席後方の関係者3名が同時にメモを取り落としたという。
衣装と小道具[編集]
衣装は短い上衣、反射材を縫い込んだズボン、そして右肩のみが大きく張り出した非対称の上着が標準とされる。右肩の張り出しは、会場後方からでも演者の「間」を視認しやすくするための工夫であり、が弱い地域会館で特に重宝された。
小道具としては、折り畳み式の、銀色の鈴、紙吹雪射出器の三点が基本である。とくに紙吹雪射出器は、の夜間講座で試作されたものが初期型とされ、1回の起動で約1,200枚の紙片が噴出する設計だったという[7]。
普及と制度化[編集]
テレビ露出と全国化[編集]
半ばになると、まいけりゅは地方局のバラエティ番組を通じて全国に知られるようになった。とくにの特番『夜更けの街角芸能図鑑』で、演者がの老舗旅館の廊下を走り抜けながら即興で祝儀の掛け合いを行った場面は、後に「黄金の17秒」と呼ばれた[8]。
この放送を契機に、を含む複数の放送局が、地域芸能の保存枠としてまいけりゅを取り上げるようになった。ただし、一部のプロデューサーは「視聴率の伸びよりも、編集後の紙吹雪の掃除時間が問題だった」と回想している。
教育機関への導入[編集]
にはが、地域文化体験学習の一環として「まいけりゅ基礎」の試行授業を開始した。授業では、児童が3人1組で掛け声、手拍子、前傾姿勢を分担し、最後に教師が「整列ではなく展開」と叫ぶことで終える形式が採られた。
この施策は一部で高く評価された一方、運動場の白線が消えるほどの踏み込みが生じたことから、翌年度には「静的まいけりゅ」に改編された。なお、この改編により演者の平均年齢が11歳下がったとの報告があるが、統計の取り方がかなり雑である。
批判と論争[編集]
まいけりゅは総じて地域芸能として受け入れられたが、他方で「形式化しすぎている」との批判もあった。とくにのシンポジウムでは、初代系譜を名乗る団体が、演目の最後に必ず鳴らす鈴の位置をめぐって激しく対立し、会場の空調が45分停止した事件が記録されている[9]。
また、一部の保護活動家は、まいけりゅが「観客の拍手を半ば義務化している」と主張したが、実演家側は「拍手は義務ではなく、観客の自由意思が最もよく見える瞬間である」と反論した。この応酬は、のちにの地域芸能保存会議に持ち込まれ、最終的には「拍手は推奨、ただし三拍以上」とする曖昧な指針に落ち着いた。
派生文化[編集]
まいけりゅ喫茶[編集]
後半には、演目の合間に提供される甘いを中心にした「まいけりゅ喫茶」がとで流行した。注文時に客が「熱めで、回転多め」と言うのが作法とされ、カップの受け皿を3回回すと演者が裏口から挨拶に出る仕組みまで整えられた。
この文化は、単なる飲食提供ではなく、待ち時間を演出に組み込む試みとして評価されたが、実際には砂糖の消費量が多すぎたため、地域の菓子店組合から半ば歓迎、半ば苦情の複雑な反応を受けた。
録音資料と研究[編集]
研究面では、の周辺で行われた音声採集が重要であるとされる。収録されたカセットテープ『堺臨海の手拍子群』には、通常では聞き取れない足音の反響が含まれており、これが演者の「間の持続時間」を測る基準になったという。
にはの比較文化研究班が、まいけりゅを「都市の歓待技術」として再定義し、近代化によって失われた地域的な余白を埋める装置であると論じた。ただし、報告書の注釈に「実地観察は主に飲食店の閉店後に行った」とあり、調査環境に若干の偏りが見られる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『港の声と拍――関西演芸の初期形成』堺文化出版社, 1989.
- ^ 佐伯美和『まいけりゅ概論』大阪芸能研究会, 1997.
- ^ H. Thornton, “The Movement of Welcome in Urban Port Performances,” Journal of Comparative Folklore, Vol. 12, No. 3, pp. 41-66, 2002.
- ^ 西宮地域文化研究会『港湾芸能小史』西宮市民図書室, 1991.
- ^ 田中啓介『紙吹雪と回転板の工学』関西技術評論社, 1999.
- ^ M. A. Kuroda, “Audience Synchrony and the Maikeru Triangle,” Asian Performance Studies Review, Vol. 8, No. 1, pp. 5-29, 2009.
- ^ 堺市教育委員会『地域文化体験学習報告書 第4集』堺市教育委員会, 2002.
- ^ 小林絵里『夜更けの街角芸能図鑑とその波紋』放送文化新報社, 1998.
- ^ 日本演芸学会編『演芸の境界線――鈴の位置をめぐる論争』学芸文庫, 2010.
- ^ A. P. Richmond, “Tactile Comedy and Civic Rhythm in Western Japan,” Transactions of the Port City Institute, Vol. 4, No. 2, pp. 118-143, 2016.
外部リンク
- 堺臨海芸能アーカイブ
- まいけりゅ研究所
- 関西演芸連絡会デジタル資料室
- 港の声と拍ライブラリ
- 地域芸能保存ネットワーク