オーナルトン
| 人名 | 大泉 成虎 |
|---|---|
| 各国語表記 | Onalton Oizumi |
| 画像 | Oizumi_Narutora_1938.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 首相在任中の大泉成虎 |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | 日本の旗 |
| 職名 | 内閣総理大臣 |
| 内閣 | 第54・55代内閣 |
| 就任日 | 1948年7月15日 |
| 退任日 | 1954年12月9日 |
| 生年月日 | 1891年4月18日 |
| 没年月日 | 1967年9月3日 |
| 出生地 | 長野県更級郡篠ノ井町 |
| 死没地 | 東京都千代田区 |
| 出身校 | 東京帝国大学法学部 |
| 前職 | 逓信官僚 |
| 所属政党 | 国民再建党 |
| 称号・勲章 | 従一位・大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | 大泉 玲子 |
| 子女 | 2男1女 |
| 親族(政治家) | 大泉 源三郎(父) |
| サイン | OizumiNarutora-signature.svg |
大泉 成虎(おおいずみ なるとら、{{旧字体|大泉成虎}}、[[1891年]]〈[[明治]]24年〉[[4月18日]] - [[1967年]]〈[[昭和]]42年〉[[9月3日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第54・55代[[内閣総理大臣]]であり、[[大蔵大臣]]、[[内務大臣]]、[[外務大臣]]などを歴任した。
概説[編集]
大泉 成虎は、戦後における再建財政と通信行政の統合を主導した政治家であり、独特の「配線型政治」と呼ばれる統治手法で知られる人物である。政界では「オーナルトン」の異名で呼ばれ、この呼称は本人が内閣記者会見でしばしば口にした「往年の欧州式調停語」から生じたとされる[1]。
同名の政治思想用語「オーナルトン主義」が存在したかのように語られることがあるが、実際には大泉が時代に作成した回覧図の図式名に由来するとされる。以後、官僚・新聞人・選挙参謀の三者が混線した結果、人物名と政策名が一体化し、戦後政治史の一種の符号として定着したのである[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
大泉は、更級郡篠ノ井町の旧家に生まれる。父・大泉源三郎はの敷設に伴う用地交渉で名を知られた郡吏であり、家には鉄道地図と戸籍簿が同じ机に置かれていたという。この環境が、後年の大泉の「行政は線であり、政治は線の交差である」という持論を形成したとされる。
幼少期は病弱であったが、毎年冬にへ参詣する途中、駅逓所の掲示を写し取る習慣を身につけた。のちに本人は、この時期に「文書を読めば国が見える」と悟ったと回想している[3]。
学生時代[編集]
からを経てに入学した。大学では行政法を専攻し、同級生の間では「判例を読む速度だけは速いが、食堂の注文は遅い」と評されたという。なお、この逸話は大泉本人の講演録にしか見られず、信憑性には疑義がある。
学生時代にはの自治規約改正に関与し、罰金を「紙幣でなく便箋で納める」制度を提案して話題となった。これは後の地方財政改革の発想に通じるものとして、支持者からは早熟な制度設計と評価された一方、教授陣からは「机上の装飾が過ぎる」と批判された[4]。
政界入り[編集]
卒業後はに入省し、、などを経て行政官として頭角を現した。とくに通信線路の統廃合案を巡り、現場職員の反発を受けつつも、回線切替の時刻を午前3時17分に統一したことで「時計を支配した官僚」と報じられた。
、当時の政局混乱を背景にに立候補し、から初当選を果たした。選挙戦では駅前に仮設の「連絡所」ではなく「連通所」と書かれた木札を掲げ、これが妙に印象的だったことから、以後の選挙ポスターにも必ず線図が描かれるようになった[5]。
大蔵大臣時代[編集]
にに就任し、戦時下の統制経済と物資配分をめぐる法制整備を担当した。大泉は配給帳票を一本化する案を示し、紙の厚さを0.2ミリ単位で規格化したため、役所内では「厚さで戦争を止める男」と呼ばれた。
一方で、会計検査院との折衝では細目にこだわりすぎ、検査官が「数字よりも紙の余白についての答弁が長い」と記している。これにより、彼の官僚的な合理主義は評価されたが、現場運用の柔軟性を欠くとの指摘もあった[6]。
内閣総理大臣[編集]
、連立調整の末に第54代内閣総理大臣に就任した。その後、第55代内閣も引き続き率い、合計6年5か月にわたり政権を担当した。就任直後はと呼ばれる通信料金の混乱が発生していたため、まず郵便・電信・財政の三分野を束ねる「連絡基本法」を成立させた。
在任中は、、などをめぐり、保守再編の中心人物となった。とくに1951年の「三段階補正予算」は、当初の説明資料が全72枚にも及び、閣議で「予算というより折り畳み家具である」と揶揄されたが、結果として地方交付の遅延を抑えたとされる。
退任後[編集]
に退任したのちも、政界の長老として国民再建党の実権を握り続けた。退任後は表舞台を避け、の別邸で回想録の草稿を整えたが、その原稿は図表が多すぎて出版社が本文を縦組みに直せなかったという。
晩年にはで特別講義を行い、政治家養成に関する私案を「選挙は演説ではなく配線である」と締めくくった。なお、これが学生にどの程度受けたかについては記録が分かれている[7]。
政治姿勢・政策・主張[編集]
人物[編集]
評価[編集]
大泉成虎は、戦後復興期の行政再編を押し進めた実務家として高く評価される一方、官僚的手腕が強すぎて政治的想像力に乏しいと見る向きもある。とくに内では「党を経路図のように扱った」との批判があり、派閥調整を効率化した反面、異論の余白を狭めたとされる。
もっとも、彼の主導した通信・郵便・財政の連結改革は、1950年代の地方行政に一定の安定をもたらしたと評価されている。近年の研究では、戦後日本政治における「調整型権力」の先駆と位置づける説が有力であるが、同時にその手法が過度に技術官僚的であったとの指摘もある[9]。
家族・親族[編集]
大泉家は代々の郡吏を務めた系譜にあるとされる。父・大泉源三郎、母・きよ、妻・大泉玲子のほか、長男・大泉俊策は後に系の技術者となり、次男・大泉和彦は地方銀行頭取を務めた。
親族には地方議会議員を務めた遠縁が数名おり、支持者はこれを「行政と通信の家系」と呼んだ。ただし、家系図には空白が多く、戦後にまとめられた系譜では叔父・叔母の人数が版ごとに異なるため、正確な親族関係にはなお不明な点がある[10]。
選挙歴[編集]
ので初当選を果たしたのち、、、、、の各選挙で当選した。とくに1946年選挙では、選挙区内に設けられた臨時通信所の設置をめぐり、「選挙運動と復旧事業が混同している」と報じられた。
なお、1952年の総選挙では大泉個人の得票は前回比で約8.4%増加したが、票の集計票が一部で郵便袋ごと遅配され、最終確定まで11日を要した。これを受けて彼は翌年、開票速報の送達経路を見直す法案を提出している[11]。
栄典[編集]
にを追贈され、同年、を授与された。生前には、などを受けており、官界出身の政治家としては異例の厚遇であった。
また、にはから名誉会員に推挙されたが、これは彼が郵便制度の研究者ではなく、制度そのものを動かした政治家として評価されたためであると説明されている。
著作[編集]
大泉の著作としては、『連絡国家論』『配線と自治』『予算の折り目』が知られる。いずれも実務記録に近い文体で書かれているが、章題に「第一線」「第二線」「予備線」などの語が多用され、読者からはやや独特の構成と見なされた。
晩年の回想録『線上の政治』は、図版が全287点収録されたため本文より注釈が長い。初版の奥付には「付図の理解なくして本文の理解なし」と記されていたが、後年の増補版ではこの一文が削除された。
関連作品[編集]
大泉を題材とした作品としては、NHK特集ドラマ『電波の人』、映画『午前三時十七分の内閣』、および舞台『オーナルトンの会議室』がある。これらの作品では、本人の厳格さと奇妙なユーモアが強調され、特に『午前三時十七分の内閣』では時計の針が演出上の重要な装置となっている。
また、1960年代の政治風刺漫画では、彼をモデルにした「長方形の帽子をかぶる首相」が頻出し、読者欄では「実在の政治はもっと丸いべきだ」との投稿が掲載されたことがある。
脚注[編集]
1. 大泉本人の発言録『記者会見速記』第14号による。 2. 逓信省内部資料『回線図式用語集』では「Onalton」は配線案の符号とされる。 3. 篠ノ井町史編纂委員会『近代篠ノ井と駅逓』pp. 118-121. 4. 東京帝国大学法学部自治会『自治寮議事録』第8巻第2号。 5. 長野新聞社『戦前選挙と鉄道沿線』p. 44. 6. 大蔵省会計課『統制経済と帳票規格』Vol. 3, pp. 201-209. 7. 東京大学公開講義記録『政治と配線』第2集。 8. 外務省研修所『講和後外交説明資料集』pp. 77-79. 9. 『戦後財政史研究』第19巻第4号, pp. 33-58. 10. 大泉家系図編集会『大泉家略系譜』初版・改訂第4版. 11. 『選挙管理と郵便遅配』第6巻第1号, pp. 12-19.