カタクチイワシの乱
| 事件名 | カタクチイワシの乱 |
|---|---|
| 年月日 | 寛文11年7月14日 - 寛文11年8月2日 |
| 場所 | 伊豆国下田沖、相模灘南部、房総半島南端一帯 |
| 結果 | 幕府方の勝利、反乱軍解体 |
| 交戦勢力 | 江戸幕府海上監察方、下田奉行配下水軍 vs. 浜子連合、廻船問屋連盟、私設警固船団 |
| 指導者・指揮官 | 小田原八郎兵衛、深見与三左衛門、黒田庄之進 |
| 戦力(兵数) | 幕府方 約1,280、反乱軍 約2,450 |
| 損害 | 幕府方 死者41・負傷97、反乱軍 死者183・捕縛312 |
カタクチイワシの乱(かたくちいわしのらん)は、11年()に沖で起きたである[1]。の海上監察網に対する漁民・廻船問屋・私設警固船団の反乱として知られる[1]。
背景[編集]
カタクチイワシの乱は、期の沿岸で進められていた政策に端を発し、塩干魚の流通統制をめぐる対立が累積した結果、発生したとされる。とくに湊では、がに対し、入港時に「口細札」と呼ばれる魚種証明を提出させたことが大きな火種となった[2]。
この制度は、当初は密貿易取締りのための臨時措置であったが、末ごろから一帯の漁民にも転用され、カタクチイワシの積荷にまで検査が及ぶようになった。これにより、干物としての価値が高い小魚の流通が滞り、や南端の浜子たちが急速に離反したとする説が有力である。
また、反乱軍の中心となったのは、の廻船問屋と、配下の同心でありながら監察改役を解かれたであった。両名は本来対立関係にあったが、の「南浜魚価崩れ」を契機として一時的に共闘し、漁民・荷主・警固船の三者連合が形成されたとされている[3]。
経緯[編集]
開戦[編集]
寛文11年7月14日未明、反乱軍は沖の検問船「瑞雲丸」を奇襲し、これを拿捕した。攻撃は率いる私設警固船三隻を先頭に行われ、船首に干したカタクチイワシを束ねた旗印を掲げたことから、後世「いわし旗軍」とも呼ばれる[4]。
幕府方は当初、単なる積荷争議と見て軽視したが、反乱軍が・方面の補給線を断ち、さらにの潮目を利用して夜間航行を封じたことで、事態は一気に海戦へ転じた。なお、この潮目操作については、与三左衛門がから潮文を授かったとする奇説もあるが、史料的裏付けは乏しい。
展開[編集]
7月18日には、奉行所の火矢隊が浜辺に上陸したが、反乱軍は「塩樽楔」と呼ばれる即席障害物を築き、砂浜に敷いた藁莚へ海水を引き込んで足止めした。これにより幕府方の陣形は著しく乱れ、のより派遣された援軍の到着までに、反乱軍が周辺の御用塩蔵をほぼ掌握したとされる[5]。
一方で、反乱軍内部でも対立があり、魚価高騰に抗議する純粋な浜子層と、流通免許の独占を狙う廻船問屋層の利害が衝突した。この分裂を幕府方は見逃さず、の子孫と称する調停役を密かに送り込み、8月初旬には三浦組の一部が離反した。これが転機となり、反乱軍は南端の岩礁地帯へ後退した。
結末[編集]
最終局面では、幕府方がの御用船を回して包囲網を形成し、反乱軍の主力は、下田沖の「片口潟」と呼ばれる浅瀬で壊滅した。小田原八郎兵衛は自沈寸前に投降し、深見与三左衛門は捕縛後へ配流された。黒田庄之進は行方不明となり、のちにへ渡ったという流布もあるが、同時代史料には見えない[6]。
この戦闘では、反乱軍が戦術的には優位に立った局面もあったが、補給と統制で幕府方に劣ったため、長期戦に耐えられなかったと評価される。もっとも、周辺の漁民の間では、敗北後も「いわしの三度返し」と称して、毎年旧暦7月に船団を逆向きに並べる風習が残ったという。
影響・戦後・処分[編集]
戦後、幕府は沿岸の海上監察制度を大幅に改編し、口細札の提出対象をカタクチイワシから全般へ拡大した。また、には「魚種勘定方」が新設され、魚群の移動と価格変動を同時に記録する仕組みが導入された[7]。
処分は厳しく、首謀者のうち生存者27名がへ配流、84名が漁船の操舵権を没収された。さらに、廻船問屋連盟の資産はの米問屋に移管され、以後の沿岸流通は一時的に安定したが、実際には密売が地下化しただけであったとの指摘がある。
また、乱後には「カタクチ改」と呼ばれる申告書が各地で作成され、からにかけての沿岸行政に影響を与えた。後世の研究では、これは単なる魚価暴動ではなく、海上交通・塩蔵技術・地方統治が複合的に衝突した政変であったとする説が有力である。
研究史・評価[編集]
期の郷土史家は、この事件を「魚市場の反乱」と位置づけ、近代流通史の前史として再評価した。一方、期の海事史研究では、反乱軍が潮流を利用した戦術に注目が集まり、のは、これを「日本沿岸戦術の最初期の総合戦」と呼んだ[8]。
後期になると、事件の史実性そのものをめぐる議論が活発化し、所蔵とされる「口細札控」が真正史料か写本かで長く論争が続いた。ただし、控えの紙質が期の漉き込みに一致しないという報告もあり、事件の一部は後世の脚色を含む可能性がある。
現代では、カタクチイワシの乱は、沿岸統治の細密化がかえって反乱を生んだ例として教科書的に引用されることが多い。また、地元では「いわし戦役」とも呼ばれ、観光パンフレットではしばしば英雄化されるが、実際には飢饉対策と魚価調整の失敗が重なった混乱だったとする慎重な見方も根強い。
関連作品[編集]
事件を題材とした講談『いわし旗三十六船』は、39年にの寄席で流行したとされる。また、公開の映画『片口潟の夜明け』は、反乱軍側の視点から描いた作品として知られ、潮の満ち引きを誇張した映像が話題となった[9]。
ほかに、の歴史ドラマ『海鳴りの与三左衛門』では、深見与三左衛門を理知的な改革者として描いており、史実との乖離が大きいとして批判も受けた。一方で、制作のローカル番組『下田いわし絵巻』は、地元伝承の採集に優れているとして評価が高い。
なお、以降にはボードゲーム『カタクチイワシの乱 〜潮目の覇権〜』が発売され、船団配置と塩蔵量を同時に管理する難度の高い作品として一定の人気を得た。
脚注[編集]
[1] 寛文期の下田海戦記録に基づくとされる。
[2] 口細札制度については、旧蔵文書『海上監察覚書』による。
[3] 真鍋定一『伊豆沿岸魚価史考』、郷土史研究会、。
[4] 小田原八郎兵衛の名は複数史料で揺れがあり、八郎右衛門とする写本もある。
[5] 塩樽楔の実在性については議論がある。
[6] 黒田庄之進の行方については未詳である。
[7] 魚種勘定方の設置年は12年とする説もある。
[8] 小宮山辰次『日本沿岸戦術史序説』、史学会、。
[9] 映画『片口潟の夜明け』の公開年は資料によりともされる。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 真鍋定一『伊豆沿岸魚価史考』郷土史研究会, 1934.
- ^ 小宮山辰次『日本沿岸戦術史序説』東京帝国大学史学会, 1928.
- ^ 安西良蔵『下田奉行所と海上監察の成立』有斐閣, 1956.
- ^ Margaret A. Thornton, The Littoral Mutinies of Early Tokugawa Japan, Cambridge University Press, 1971.
- ^ 佐伯源太郎『口細札と沿岸統制』岩波書店, 1988.
- ^ Kenji Watano, Fisheries and Rebellion in the Eastern Seas, Vol. 12 No. 3, Journal of Maritime History, 1994, pp. 201-229.
- ^ 三浦信吾『潮目における政変―カタクチイワシの乱再考―』吉川弘文館, 2002.
- ^ Hiroshi Aizawa, "The Salt Barrel Wedge and Tactical Beach Control", Vol. 8 No. 1, The Japanese Historical Review, 2009, pp. 45-68.
- ^ 下田海事文化協会編『片口潟文書集成』静岡民俗資料刊行会, 2015.
- ^ Rebecca L. Moore, Coastal Administration and Fish Protests in Tokugawa Japan, Vol. 19 No. 2, Asian Maritime Studies, 2020, pp. 77-104.
- ^ 黒川修『海鳴りの与三左衛門―史料と映像表現―』彩流社, 2021.
- ^ 石田冬子『カタクチイワシ戦役年表』、第3巻第2号、地方史叢刊, 2023, pp. 11-39.
外部リンク
- 下田海事史料館デジタルアーカイブ
- 伊豆沿岸政変研究会
- 片口潟文庫
- 魚価変動史オンライン
- 東海古海戦データベース