カレーの排出権取引
| 対象領域 | 食品提供・調理工程(香味由来の疑似排出) |
|---|---|
| 運用主体 | 環境調達局(各自治体の食環境部門) |
| 取引単位 | 「C-CERT」(Curry-Certificate) |
| 算定指標 | 香味エアロゾル指数(CAI) |
| 開始年 | 2008年(東京都モデル) |
| 主な市場 | 東京湾岸の証券・証書取扱会場 |
| 議論の焦点 | 排出の実体性と計測妥当性 |
カレーの排出権取引(かれーのはいしゅつけんとりひき)は、カレー調理に伴うとされる「香味エアロゾル」由来の排出量を、証書で売買する制度である。制度はの食環境部門から始まり、のちに複数の自治体へ波及したとされる[1]。ただし、その前提となる算定手法には、のちの監査で大きな疑義が示された[2]。
概要[編集]
は、カレーを調理・提供する事業者に対して「調理由来の排出」を数値化し、その上で排出上限を超過しそうな事業者が排出権(証書)を購入することを目的とした仕組みである。
算定には「香味エアロゾル指数(CAI)」が用いられ、鍋の回転数、玉ねぎの炒め時間、香辛料の投入タイミングなどが、なぜか厳密な係数で換算されるとされる。制度創設者は「“見た目の熱量”ではなく“匂いの社会コスト”を扱うべきだ」と主張したが、運用が進むほど手続きは複雑化した[1]。
なお、制度は地球温暖化対策という名目で導入された一方、会計処理や監査の実務が先行し、「排出の実体」と「証書の価値」が乖離していったと指摘されている。とくに証書価格が暴騰した局面では、カレー店のメニュー改変が“環境政策”として喧伝されることもあった[3]。
制度の仕組み[編集]
取引される証書は「C-CERT(Curry Certificate)」と呼ばれ、1口が「CAI換算で0.1ポイント分の上限」を表すとされた。運用の詳細は自治体ごとに異なるが、いずれも調理ログと匂いセンサーのデータ提出を求める形式が採用された[4]。
調理ログは、厨房用タブレットに入力される「投入時刻」「加熱曲線」「攪拌回数」を基本要素として設計された。さらに、玉ねぎの切り幅が細かいほど“微粒化”が増えるとして係数が上乗せされるなど、現場の裁量が入り込みやすい仕様になったとされる[5]。
市場では、証券会社が運営するという建前のもと、実際には自治体の食環境部門と近接する複数の業界団体が価格形成に影響したと報告されている。特にの協力窓口が“名前だけ”貸し出されたとされ、細部の実態は当時の監査報告で曖昧化した[6]。
歴史[編集]
起源:『匂いは数値化できる』という発想[編集]
制度の起源は、2000年代初頭の内部資料にある「香味公害リスク概念」の検討に求める説がある。当時、熱帯夜の屋外イベントで出た調理臭が住民トラブルになったことが契機となり、担当官が「臭いにも排出枠を」という短絡的な発想をまとめたとされる[7]。
その後、のモデル事業として、月島地区の食品工場に“匂いの計測器”が試験導入された。現場では粒子カウンターを流用したが、装置の誤差が大きいことから、急遽「臭いを測るのではなく、調理工程の操作を測る」方式へ切り替えられたと伝えられている[8]。
このとき決まった係数の一部は、議論の記録が残っていないまま採用されたとされる。たとえば「玉ねぎ投入から2分以内の攪拌」はCAIが2.37倍になるとされるが、その根拠は“実験的に気分が良くなる調理”というメモに基づいたとも報じられた[5]。
拡大:東京湾岸から全国へ、そして証書相場へ[編集]
2008年、は“食環境の脱炭素ロードマップ”の一施策としてを採択し、まずは湾岸の業務用給食とフードコートを対象に試行した[1]。初年度の参加事業者は245施設とされ、うち返上(証書を超過しない運用)できたのが173施設だったという[9]。
しかし初年度から、証書の発行量と実績が一致しない事態が起きた。原因として、厨房機器の更新タイミングによって“攪拌回数のログが丸められる”仕様が発見された。担当課は「丸めは環境の安定化のため」と説明したが、実際には丸めによってCAIが意図的に減らせる余地が残ったとされる[10]。
2011年以降、証書は“余れば儲かる”商品として扱われ始めた。特に2013年の春先には、1口C-CERTの指標価格が前週比で+18.4%となり、新聞の経済面で「カレーが金融商品化」と報じられた[3]。この報道をきっかけに、メニュー開発部門に投資部が常駐する企業も現れ、調理の速度が経営指標に組み込まれていった。
転機:監査と“計測が料理を支配する”問題[編集]
制度が広まるほど、現場は「おいしさ」ではなく「監査に耐える工程」へ寄っていった。2016年、の外部監査チームは、CAIの算定式に“匂いの物理ではなく、香辛料メーカーの推奨手順”が混入している可能性を指摘したとされる[6]。
当時の監査議事録には、香味エアロゾル指数のうち“スパイス投入の姿勢”に係る項目が、なぜか動画マニュアル参照になっていたとの記述がある。マニュアルは実在企業が提供した教材で、投入角度が「60度が最適」とされていた。監査側は、環境政策の式が料理指南になっている点を問題視したが、式はその後も修正されなかった[11]。
2020年にかけて、取引の透明性を求める声が増えた一方、価格が政治日程と連動して動くという見方も出た。ある報道では、年度末の証書価格が連動して上がる理由として「監査窓口の営業時間」が挙げられたが、これは“おおむね事務の都合”という曖昧な結論で処理されたとされる[2]。
カレー店と現場のエピソード[編集]
制度導入後、店によっては“環境的に正しいカレー”が一種のブランドになった。たとえばのあるカレー専門店では、玉ねぎを刻む刃の交換頻度を月2回から月6回に増やしたとされる。理由は、細かい刻みがCAIを押し下げる(とされている)係数に合致するからで、店長は「環境と食感を両立した」と説明した[12]。
一方、外食チェーンでは逆の最適化が起きた。香辛料を“香りが立つ前に分散投入”することでCAIが抑えられると試算され、結果として濃厚さよりも工程の整合性が評価されるようになったとされる。利用客は「味が薄い」と批判したが、経営陣は“味は主観、証書は客観”と回答したという[4]。
また、証書の不足が見込まれる日に合わせて、厨房担当が“カレーを出す時刻”を調整する光景も報じられた。とくに2014年の台風シーズンでは、停電回避の都合で攪拌が停止するとCAIが自動で減る仕様が一時的に有利になり、ネット掲示板では「台風でエコ、カレーで得」と揶揄された[10]。
批判と論争[編集]
最大の批判は、制度の前提が実測というより推定に依存している点であった。香味エアロゾル指数は、調理ログをもとに算定されるため、記録が整っていれば“排出が少ないカレー”とみなされる余地があるとされた[2]。
さらに、取引が進むにつれて「誰が得をするか」という経済論が前景化した。証書を余らせる体質の店舗が利益を蓄積する一方、購入せざるを得ない店舗が価格転嫁で苦しくなるといった構図が生まれたとされる。消費者団体は、環境目的の制度が実質的に“カレー料金の変動装置”になっていると批判した[9]。
なお、数式の一部に“官報読み替え条文”が参照されていたとする指摘もあり、学術界では「政策が数理に勝った」との辛辣な評価が出た[6]。ただし制度側は、政策目的に沿うよう仕様を柔軟に解釈してきたとし、改定手続きを毎年行っていると説明した。ここに、改定のたびに事業者が設備投資を迫られるという副作用も重なった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 東京都環境調達局『香味公害対策の実装報告書(試行版)』東京都, 2009年.
- ^ 山下玲子『食環境会計と証書市場の形成:C-CERTの事例』環境政策研究会, 2014年.
- ^ Jonathan P. Mercer『Metrology of Odor Proxies in Urban Food Services』Journal of Applied Urban Sustainability, Vol.12, No.3, pp.41-67, 2016.
- ^ 田中誠一『調理工程ログによる推定排出の設計論』日本衛生工学会誌, 第58巻第2号, pp.101-129, 2018.
- ^ Lina S. Watanabe『Curry as Financial Derivative: An Empirical Note on CAI』International Review of Food Policy, Vol.5, Issue4, pp.222-239, 2020.
- ^ 国立厨房監査機構『香味エアロゾル指数の算定妥当性に関する中間答申』国立厨房監査機構出版局, 2017年.
- ^ 『月島調理臭トラブルの経緯と対策(内部資料抄録)』東京都総務局, 2006年.
- ^ 田村真理『匂いの社会コストをめぐる行政裁量と数式の政治』自治体法務研究, 第33巻第1号, pp.12-36, 2019年.
- ^ Michael R. Danton『Trading Certificates and Behavioral Adaptation in Municipal Regulation』Policy & Markets Quarterly, Vol.9, No.1, pp.8-25, 2012.
- ^ 佐伯和人『台風と証書価格:事務運用が相場を動かす理由』経営監査ジャーナル, 第21巻第5号, pp.77-93, 2021.
外部リンク
- C-CERT取引ガイド(食環境部門)
- 香味エアロゾル指数・事例集
- 調理ログ監査の手引き(自治体版)
- 東京湾岸フードコート協同組合
- 政策数式と現場実務フォーラム