カレーの特許紛争
| 名称 | カレーの特許紛争 |
|---|---|
| 時期 | 1898年 - 1932年 |
| 場所 | 横浜、神戸、ロンドン、カルカッタ |
| 原因 | 香辛料配合、増粘技術、商品名の使用権 |
| 関係機関 | 大日本香料組合、帝国商標局、Colonial Food Patent Office |
| 主要人物 | 白井源三郎、Margaret A. Thornton、アブドゥル・ラザク・カーン |
| 結果 | 三者協定と「二段仕込み方式」の普及 |
| 影響 | 家庭用カレーの画一化、軍需配給規格の整備 |
| 別名 | 香辛料三年戦争 |
カレーの特許紛争(カレーのとっきょふんそう)は、とをめぐって生じた、とにまたがる一連の知的財産上の争いである。一般にはので最初の係争が起きたとされ、のちに家庭用の標準化に大きな影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
カレーの特許紛争は、を単なる料理ではなく、配合比率と調理工程の組み合わせからなる「工業的発明」とみなす発想から生じた紛争である。とくに末期から初期にかけて、の食品会社、の香辛料商、の法学者らが、どの段階までを発明として保護できるかをめぐって対立したとされる[2]。
この紛争が注目されるのは、単にカレー粉の配合を争っただけでなく、湯に溶かす前の「香りの立ち上がり」にも権利が主張された点にある。後年の研究では、の倉庫記録との議事録が食い違っており、特許文書そのものよりも、出荷伝票の方が真相に近いとする説もある[3]。
成立の背景[編集]
起源は、の居留地で活動していた香料商・が、英国式のカレー粉にとを加えた製品を「新式印度汁粉」として出願したことにある。これに対し、で香辛料の輸出を担っていたアブドゥル・ラザク・カーンが、同年のうちに「ミックスド・カレー・エッセンス」の先行権を主張し、さらにの弁理士が、液状化された香辛料の保護範囲をめぐる反対意見書を提出した。
問題を複雑にしたのは、当時のが「カレー」という語を、食品名ではなく「東洋風風味の総称」と解釈していたことである。このため、ある会社は「カレー」を商標として登録しようとし、別の会社は同じ名称を「調味操作の工程名」として申請した。結果として、同一の鍋に入れる順番で権利の帰属が変わるという、きわめて奇妙な法理が形成されたとされる[要出典]。
経過[編集]
第一期:横浜調合事件[編集]
からにかけては、横浜港周辺の輸入倉庫で、どの香辛料が「発明の核心」に当たるかが争われた。白井は、の純度が七割を超える場合にのみ保護されると主張したが、対する輸入業者は「香りは分量ではなく、湿度で決まる」と反論した。なお、当時の裁判記録には、証人が法廷で実際に小鍋を温め、ごとに味見を求められたと記されている。
この時期に有名になったのが、通称「スプーン逆転判決」である。判決文では、左手で鍋をかき回した場合は創作性が高いが、右手の場合は既製品に近いと判断され、後の食品工業界に無意味な混乱をもたらした。もっとも、判決原本は関東大震災で一部焼失しており、現在残るのは図書館の写本のみである。
第二期:ロンドン覚書とカルカッタ反論[編集]
には、で「スパイス調合法に関する覚書」が公表され、カレー粉の権利は粉末の段階に限られるとする立場が強まった。これに対し、の香辛料仲買人組合は、粉末化以前の焙煎工程こそが価値の源泉であるとして、蒸し暑い倉庫での再現実験を要求した。実験は続き、参加者のうちが「胡椒の夢を見た」と証言したという。
ここで注目されるのが、Thorntonの草稿にだけ現れる「湿式権利」という概念である。これは、液体に接した時点で権利が発生するという理屈で、後にの食品委員会で半ば冗談として引用されたが、なぜか一部の企業は真剣に受け止めた。結果として、缶詰カレーのラベルに「湿式処理済」と記す慣行がまで残った。
第三期:軍用配給と三者協定[編集]
、の補給課が、携行食としてのカレーを大量採用しようとしたことから、紛争は一気に国家規模へ拡大した。軍は「同じ味を前線で再現できること」を要件としたが、各社のレシピは異なり、しかも特許上は塩分、油脂量、煮込み時間のいずれも権利対象になっていたため、調達が進まなかったのである。
最終的に、で結ばれた三者協定により、特定の香辛料比率を公開規格化する代わりに、製法の一部を各社の「秘伝」として残す折衷案が採用された。これが後の家庭用ルーの標準化につながり、のちに「二段仕込み方式」と呼ばれる製造法の原型になった。なお、協定書の第4条には、なぜか「煮込み中の沈黙は権利を侵害しない」と明記されている。
主要人物[編集]
白井源三郎は、横浜の薬種商から食品技師に転じた人物で、香辛料を「目に見えない建築資材」と呼んだことで知られる。彼は一時期、の厨房改善顧問も務めたとされるが、実際には缶詰の開封方向しか助言していなかったという話もある。
Margaret A. Thorntonは、で法学を学んだ後、食品特許を専門とした弁理士である。彼女は「味とは再現可能な記述である」との論文で知られ、のちに編集委員を務めた。もっとも、同誌はで休刊しており、実質的には彼女の個人誌であった可能性が高い。
アブドゥル・ラザク・カーンは、の商人で、輸出用香辛料の品質等級をめぐって英国側と激しく対立した。彼は証拠として自家製のカレーを3樽持ち込み、うち1樽が開廷中に再発酵したため、陪席した判事が「香りが強すぎる」として一時休廷を命じたと伝えられる。
社会的影響[編集]
この紛争は、食品をめぐる知財の扱いに先例を与えたとされる。特にでは、「配合」と「工程」を分けて考える説明が定着し、の教科書には、カレーの作り方がそのまま簡易特許図面のように描かれていた。
また、では売場ごとに「権利表示」の札を出す慣行が生まれ、ある時期には「この鍋は白井系」「こちらはカーン系」といった分け方が行われたという。消費者は当初困惑したが、逆に「どちらの系譜か」で辛さの期待値を判断する文化が成立した。結果として、カレーは味覚の問題であると同時に、出自を語る商品になったのである。
批判と論争[編集]
一方で、後年の法制史研究では、この紛争の多くが実際には商標実務の誤記から拡大したもので、特許争いそのものは限定的だったとする見方もある。とくに前後の新聞記事には誇張が多く、編集者が「カレーは国家を揺るがす」と書いたことで、議論が必要以上に膨らんだ可能性が指摘されている。
また、の内部文書には、担当官が香辛料の区別をつけられず、すべてを「茶色の粉」とまとめて処理していた節がある。これが紛争の長期化を招いたとする研究もあるが、当の文書は後期に再製本されたもので、どこまで信用できるかは不明である。なお、近年の再検証では、協定書の一部に別の料理名が上書きされていた形跡が見つかっており、ビリヤニ関連の案件が混入していた可能性も否定できない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 白井源三郎『香辛料配合権の研究』東洋食料法研究会, 1906年.
- ^ Margaret A. Thornton, "On Wet Rights in Curry Paste", The Journal of Colonial Culinary Property, Vol. 2, No. 4, 1912, pp. 41-68.
- ^ アブドゥル・ラザク・カーン『ベンガル香料輸出史料集』カルカッタ商業文庫, 1914年.
- ^ 帝国商標局編『食品工程における権利の帰属』官報附録, 1921年.
- ^ 加納一三郎『カレー粉と近代日本の商標紛争』神戸法政書房, 1935年.
- ^ Eleanor V. Pike, "The Two-Stage Simmer Doctrine", British Review of Patent Foods, Vol. 11, No. 1, 1929, pp. 5-29.
- ^ 横浜税関史料室編『輸入香辛料帳簿抄』第3巻第2号, 1902年.
- ^ 中村理惠『軍用配給と味覚の標準化』食文化学会誌, 第18巻第3号, 1968年, pp. 77-103.
- ^ Harold S. Bennett, "A Curious Dispute over Curry Aroma", Proceedings of the Imperial Culinary Law Society, Vol. 7, No. 2, 1933, pp. 112-140.
- ^ 『The Complete Manual of Curry Litigation and Other Kitchen Matters』Westminster Press, 1934.
外部リンク
- 国際香辛料権利アーカイブ
- 横浜近代食文化研究所
- 神戸カレー法制資料室
- 帝国食品特許年報
- カレー紛争口述史プロジェクト