カレー寿司
| 別名 | 香辛酢飯、カレー押し寿司 |
|---|---|
| 発祥地 | 神奈川県横浜市山下町(とされる) |
| 創案者 | 石橋兼蔵、渡辺ミラ、諸説あり |
| 考案時期 | 1919年頃 - 1924年頃 |
| 主材料 | 酢飯、ルー状カレー、海苔、福神漬 |
| 関連地域 | 関東、関西、インド植民地料理研究会 |
| 分類 | 折衷料理、駅弁文化、洋食再解釈 |
| 特徴 | 冷めても香りが立つよう配合が調整される |
カレー寿司(カレーずし、英: Curry Sushi)は、にを載せる、あるいは巻き込む形式のである。主に末期ので成立したとされ、のちにとで独自の変種が広まったとされる[1]。
概要[編集]
カレー寿司は、とを組み合わせた折衷料理であり、見た目はに近いが、味わいは洋食寄りである。一般には握り、巻き寿司、押し寿司の三系統に分かれるが、地方によってはのように葉で包む例もある。
この料理は、後期からにかけての「米飯の西洋化」運動の副産物として語られることが多いが、実際にはの船員向け食堂と、の料理学校をまたぐ地下的な試作会で育ったという説が有力である[2]。なお、初期のレシピではルーの粘度が高すぎ、寿司を箸で持ち上げると具が滑落する事故が頻発したとされる。
カレー寿司が注目された理由は、冷めても食べやすいこと、そしてとの境界が曖昧になることにあった。また、昭和初期のでは「洋食の体裁を保ったまま弁当に入れられる」と宣伝され、試食した来客のうち約17%が「味は良いが脳が追いつかない」と回答したという記録が残る[3]。
歴史[編集]
起源と初期の試作[編集]
最初期のカレー寿司は、の山下町にあった洋食屋『三潮亭』で試作されたとされる。料理長のは、余ったカレーを翌日のまかないに転用する際、酢飯に載せたほうが油分が落ち着くことを偶然発見したという。
一方で、同時期にの女子料理講習所に在籍していたが、で巻いた「香辛巻」を独自に発表していたとする記録もあり、現在では両者が無関係に同一現象へ到達した可能性が指摘されている。なお、の講習会資料には「香りの強いカレーは、寿司の沈黙を破る」との文言があり、後世の研究者の間でしばしば引用される[4]。
大衆化と駅弁化[編集]
頃から、カレー寿司は沿線の駅弁として再設計され、特にとで売られた押し寿司型が知られるようになった。駅弁業者は、カレーの水分が多いと輸送中に飯が崩れるため、との比率を厳密に管理し、夏季には販売時間を40分以内に制限したという。
また、では酢飯をやや甘くし、カレーにを加える「浪花式」が成立した。これに対しでは出汁の香りを残すため、カレー粉を控えめにして白味噌を数グラム加える変種が生まれ、のちに料亭側から「もはやカレーではない」と批判された。だが、当時の新聞広告では「異国情緒と江戸前の折衷」として扱われ、売上は一週間で前年同時期比の2.8倍に達したとされる[5]。
戦時下と復興期[編集]
初期から戦時中にかけては、香辛料の配給制限により、カレー寿司はいったん縮小した。ただし、の軍港周辺では、艦内食の残り香を模した「黒ルー寿司」が密かに流通し、兵站記録の末尾にのみ「酢飯の彩度が高い」と記された謎の帳簿が見つかっている。
戦後になると、の食文化紹介冊子により「カレーレイド・スシ」と誤記された形で再注目され、のデパート食堂が復興メニューとして採用した。1950年代には冷蔵設備の普及により品質が安定し、の工場地帯では昼食用の二段弁当の定番となったが、作業員の間では「午後三時までに食べないと、飯ではなく香りの記憶になる」とも言われた。
種類[編集]
カレー寿司には少なくとも12系統があるとされ、料理研究家の間では地域差よりも「ご飯の温度」と「カレーの固さ」が分類の決定要因とされている。以下、代表的な類型を挙げる。
・は、固めに煮詰めたカレーを軍艦巻きのように載せる形式である。小豆色に近い濃色が好まれ、の試験販売では、わさびを添えた客の32%が二口目で沈黙したという。
・は、海苔の内側にカレーと炒め玉ねぎを薄く延ばすもので、巻きすを汚さないために油紙が必須である。板前の間では「巻いた瞬間に台所がインドになる」と揶揄された。
・は、で洗練された形式で、木枠に詰めた酢飯の上にカレー餡を敷き、最後に薄切り卵で覆う。型抜き後の断面が美しいため、の食品サンプル職人が最も好んだ。
・は、やで包み、香りを封じ込める地方型である。とりわけでは「山の保存食」として扱われ、雪の日にのみ作る家庭があった。
・は、ルーの流動性が高い場合に採用される応急形で、上部を海苔の堤防で囲う。発案者は不明だが、のちに学校給食用に転用され、子どもが喜ぶ一方で机にカレーの小潮が発生した。
・は、限定の高級版で、冷やしたを裏ごししてルーに混ぜる。昭和30年代の喫茶店では、ガラス皿に盛り付けられ、注文票に「涼風」とだけ書かれることもあった。
社会的影響[編集]
カレー寿司は、単なる奇料理にとどまらず、日本の近代食文化における「外来要素の再編集」の象徴とみなされている。では、寿司職人と洋食調理人の合同実習題材として扱われ、包丁の使い方よりも「香りの衝突をどう収束させるか」が重視された。
にはの老舗が「香辛酢飯の日」を勝手に制定し、近隣の菓子店、漬物店、弁当店が便乗したため、商店街の売上が前月比で13.4%増加したと報じられた。また、放送では「子どもが寿司を食べるきっかけになった」として好意的に紹介されたが、一方で保守的な寿司職人からは「魚がないのに寿司を名乗るのは混乱を招く」との批判が根強かった。
その後、のB級グルメ再評価の流れで、カレー寿司は「地域の創作料理」として再発見された。特にやのイベントでは、観光客向けの体験メニューとして定着し、年間約2万4,000食が提供されたとされる。ただし、実際に完食される比率は会場の空調に大きく左右されるため、統計の信頼性にはなお議論がある。
批判と論争[編集]
カレー寿司に対する批判は、主に「寿司の定義を曖昧にする」という点に集中している。のは、『酢飯の上に何を置いても寿司になるなら、もはや分類学の敗北である』と述べたとされる[6]。これに対し支持派は、「の本質は保存と携行であり、カレー寿司はその精神を最も現代的に継承した」と反論した。
また、には内の学校給食で試験導入された際、アレルギー表示が不十分だったとして保護者会が抗議し、配膳室前で「カレー寿司反対」の手書き掲示が3日間貼られた。もっとも、当時の記録では、抗議の中心となった父兄の半数以上が後日レシピを持ち帰り、家庭で再現を試みたことが示唆されている。
近年では、SNS上で「見た目が強すぎる料理」として拡散され、特にを用いる派生版が論争を呼んだ。これについては、研究者の間でも「食欲を削ぐ色彩設計は文化遺産たりうるか」という、やや哲学的な議論が続いている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 石橋兼蔵『香辛酢飯の研究』横浜料理協会出版部, 1925年.
- ^ 渡辺ミラ『女子料理講習録 第7巻第3号』東京家政学報, 1922年.
- ^ 佐々木一郎『駅弁とカレーの交差史』日本食文化研究会, 1964年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Rice, Vinegar, and Spice: The Port City Synthesis", Journal of Culinary Anthropology, Vol. 12, No. 4, pp. 201-229, 1987.
- ^ 田中春夫『大正期横浜における混成寿司の成立』神奈川近代食史叢書, 1991年.
- ^ Rei Saito, "The Portable Curry: Bento Modernity in Eastern Japan", Foodways Quarterly, Vol. 8, No. 2, pp. 44-61, 2003.
- ^ 佐伯玲子『寿司の定義と境界』月刊調理評論, 第18巻第11号, pp. 5-19, 1979年.
- ^ Henry W. Caldwell, "Fermented Rice and Colonial Curries", Transactions of the Pacific Dietetic Society, Vol. 5, No. 1, pp. 3-17, 1951.
- ^ 中村光『カレー寿司の経済効果に関する一考察』商店街振興資料, 第4巻第2号, pp. 88-104, 2007年.
- ^ 『カレーレイド・スシ問題とその誤訳史』東洋食文化年報, 第9号, pp. 140-158, 1968年.
外部リンク
- 日本香辛酢飯学会
- 横浜折衷食文化アーカイブ
- 近代駅弁史資料室
- 東京料理奇譚データベース
- 香りの保存食研究所