キクナシさん(都市伝説)
| 名称 | キクナシさん |
|---|---|
| 初出 | 1987年頃とされる |
| 発祥地 | 東京都多摩地域の団地群 |
| 分類 | 口承型都市伝説 |
| 関連現象 | 防災無線ノイズ、深夜の集合住宅怪談 |
| 特徴 | 聞こえるはずのない指示、録音機器への反応 |
| 調査団体 | 都市口承研究会・東京支部 |
| 代表的記録 | 1994年の『多摩夜間雑音報告書』 |
キクナシさんは、深夜にの廊下やの防災放送に紛れて現れるとされる都市伝説上の人物である。耳元で「聞くな」とだけ囁くが、実際には一度も話を聞いた者がいないため、この名が付いたとされる[1]。
概要[編集]
キクナシさんは、日本の都市伝説において「声を持つが意味を持たない存在」として扱われる怪異である。ので語られはじめたとされ、主に、、の共用廊下に出現すると信じられてきた。
一般には、夜間に突然「キクナシさんが来る」と告げる貼り紙、あるいはチューナーの合わないの音声に混じる低い囁きとして現れるとされる。ただし、目撃証言は地域ごとに大きく異なり、声を聞いた者ほど内容を思い出せない点が特徴である[2]。
名称の由来[編集]
名称については、1980年代後半の周辺で流行した「聞くな、視るな、触れるな」の警句が転訛したとする説が有力である。また、当時のに設置されていた共聴設備の雑音を住民が「聞くな、あの音」と呼んだことから、これを人格化したものとする説もある。
一方で、民俗学者のは、キクナシさんとは本来「聞かせない役割」を担う家屋神の残滓であり、自治会掲示板における誤字が定着したものだと述べている。しかし、この説は当時の掲示板保全記録に該当する紙面が残っていないため、要出典のまま扱われることが多い[3]。
歴史[編集]
1980年代の初出[編集]
最古の記録は、7月にの集合住宅で回覧されたとされる匿名のメモである。そこでは「夜中の洗濯機の音が止むと、廊下で女とも男ともつかない声が『キクナシさん』とだけ言う」と記されていた。この記述は、翌月に自治会の防犯講習資料へ転載され、半ば注意喚起、半ば娯楽として拡散した。
同時期、の車内広告に似せた自主制作ポスターが近隣の商店街で配布され、キクナシさんは「終電後にしか出ない見回り人」として再解釈された。これにより、怪異でありながら地域安全キャラクターのような立ち位置を得たとされる。
1990年代の流行[編集]
に刊行された『多摩夜間雑音報告書』では、キクナシさん現象が「テレビ受像機の走査線、蛍光灯のちらつき、隣室の生活音の重なりが人格化したもの」と分析された。報告書の作成には、、および当時の教育委員会の協力があったとされる。
ただし、同報告書の付録に付された「録音テープB-14」は、再生すると必ず2分13秒地点で雑音だけが増幅されるため、研究者のあいだでは「実験的資料としては価値が高いが、聞くと帰宅したくなくなる」と評された。
2000年代以降の再解釈[編集]
に入ると、キクナシさんはインターネット掲示板で「耳に入る情報の選別機構」として語られるようになった。特に頃、深夜ラジオの投稿コーナーで「隣人の愚痴を聞くと部屋が静かになる」という体験談が多数寄せられ、これが動画共有サイトに転載されて全国化した。
その後、内の一部のと似た周波数帯で「キクナシ、キクナシ」と聞こえたという報告が増えたが、電波工学の観点からは単なる混信とされる。それでも、聞き間違いを逆手に取った二次創作が末期に増加し、怪談というよりも都市生活の風刺として定着した。
特徴と目撃例[編集]
キクナシさんの目撃例にはいくつかの共通点がある。第一に、声そのものは明瞭であるにもかかわらず、内容だけが記憶から抜け落ちることである。第二に、録音しようとすると、スマートフォンの電池残量が急激に減る、あるいは音声メモのファイル名が自動的に『kiknsh_001』に書き換わるとされる。
また、の集合住宅では、深夜2時17分に廊下の足音が3歩だけ鳴り、その直後に玄関チャイムが「無言で1回だけ鳴る」事例が報告された。住民の一人は「聞いたはずなのに、むしろ聞いてはいけなかった気がした」と証言しており、これがキクナシさん研究における典型例とされている[4]。
この現象には、テレビの砂嵐、エレベーターの到着音、古いインターホンの歪みが強く関係するとされる。なお、都市伝説にありがちな「見たら終わり」型ではなく、「聞いたと思ったら何も覚えていない」点が独自である。
社会的影響[編集]
キクナシさんは、文化の再評価に寄与したとされる。自治会では、夜間の雑音苦情を減らすために「聞こえた音をそのまま記録せず、まず別室で10分間置く」という独自の聞き取り手順が導入され、これが後に一部のへ輸出された。
また、の地域学習では、子どもたちが「うわさの伝わり方」を学ぶ教材として扱われた。特にの一部資料では、キクナシさんを「音の都市伝説」として紹介し、実在の防災訓練と混同しないよう注意が促されたとされる。
一方で、深夜帯の住宅地で「キクナシさんが来る」と書かれた張り紙が出回り、住民の一部がへ相談したこともある。実際にはイタズラであったが、貼り紙が妙に整った活字で印刷されていたため、当初は自治体広報の誤配と誤認されたという。
批判と論争[編集]
キクナシさんをめぐっては、民俗学的怪異であるとする立場と、単なる地域の聞き間違い文化であるとする立場が対立してきた。の特別展では、「現代の共同住宅における沈黙の擬人化」と説明された一方、心霊研究家のは「未確認のまま共有された不安が、独立した人格を帯びた事例」と主張した。
また、のシンポジウムでは、キクナシさんの名を冠した録音ファイルが約4,300件収集されたが、そのうち本当に怪異的なものは17件に満たなかったとされる。ただし、この17件の中に、何度再生しても毎回少しだけ短くなる音声が含まれていたため、会場は一時騒然となった。
なお、批判派の中には「キクナシさんは、深夜の生活音に耐えられない都市住民が生んだ自己防衛神話にすぎない」とする者もいる。もっとも、そうした主張をした研究者の研究室でも、なぜか毎年12月になるとインターホンの録音が消えるため、完全な否定には至っていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 加賀谷順一『多摩夜間雑音報告書』都市口承研究会, 1994, pp. 14-39.
- ^ 三浦玲子『聞こえない声の民俗学』青河書房, 2008, pp. 101-126.
- ^ 田代弘明「集合住宅における怪異の伝播」『都市文化研究』Vol. 12, 第3号, 2001, pp. 55-73.
- ^ Margaret A. Thornton, “Urban Whisper Legends and Apartment Acoustics,” Journal of Folklore Noise Studies, Vol. 8, No. 2, 2010, pp. 211-244.
- ^ 古賀真理子『防災放送と都市伝説の接点』みなと出版, 2013, pp. 88-97.
- ^ H. Nakamura and J. Bell, “The Kikunashi Phenomenon Revisited,” Proceedings of the East Asian Oral History Association, Vol. 19, 2016, pp. 33-58.
- ^ 渡辺精一郎「聞かせない神の残影」『民俗と音響』第7巻第1号, 1998, pp. 9-21.
- ^ 石田和也『マンションの廊下に住むものたち』北風館, 2020, pp. 145-170.
- ^ Yuki Sato, “Broadcast Static as Social Memory,” Tokyo Review of Contemporary Myth, Vol. 5, No. 1, 2019, pp. 1-18.
- ^ 松岡ゆり『キクナシさんと四回鳴るチャイム』白樺社, 2022, pp. 3-11.
外部リンク
- 都市口承研究会アーカイブ
- 東京音響民俗センター
- 多摩怪談データベース
- 深夜防災放送保存会
- 団地文化研究フォーラム