キハ171系
| 製造 | 川崎車輌・富士重工業・新潟鐵工所 |
|---|---|
| 運用者 | 日本国有鉄道、のちにJR北海道試験車団 |
| 製造年 | 1967年 - 1974年 |
| 投入地域 | 北海道、東北北部、北陸山地線区 |
| 編成 | 2両固定・3両固定・単行改造車 |
| 最高速度 | 95 km/h(寒冷地仕様) |
| 座席 | ロングシートおよび折りたたみ式暖房席 |
| 愛称 | 霧笛のキハ、白い171、凍土特急 |
キハ171系(キハ171けい)は、の地方線区向け気動車としてに登場したとされるの系列である。のちにの「寒冷地高速化計画」を象徴する車両として知られ、特にの試験運用で異様な評判を得た[1]。
概要[編集]
は、40年代後半にが進めた「地方線区の高速化と凍結対策の両立」を目的として設計されたとされる気動車系列である。外見上は一般的な形車両に見えるが、床下に二重燃焼式の暖房補助装置を備えたことで、停車駅ごとに車内温度がむしろ上がる現象が報告された。
系列名の「171」は、開発コード上の第17案・第1試作群に由来するとされるが、社内では「いち・なな・いち」と読むか「キハイチ・ナナ・イチ」と読むかで数年間も議論が続いたという。なお、後年の資料ではの整備主任であったが命名に関与したとされるが、一次資料が乏しく、要出典のまま放置されている。
成立の経緯[編集]
寒冷地高速化計画[編集]
、とは、積雪地の普通列車が平均して時速31.4kmしか出せないことを問題視し、間の「心理的に遠い問題」を解消する計画を立ち上げたとされる。これが後に「寒冷地高速化計画」と呼ばれ、既存気動車に対し、氷結しにくい燃料系統と、車内で凍った乗客の靴底を溶かすための補助暖房を搭載する方針が定められた。
この計画の試作一号車がキハ171系である。試験ではの付近で12時間連続走行を行い、エンジン停止後も車内温度が下がらなかったため、「停車しても列車が温かい」という、本来の鉄道輸送とは別方向の利点が評価された。
開発に関わった人物[編集]
中心人物とされるのは、国鉄技術研究所の設計官である。山下はもともとの過熱器研究者であったが、の吹雪の夜に札幌駅で立ち往生した際、ホーム上の立ち食いそばが最も早く凍ったことに衝撃を受け、車内保温を性能指標に入れるべきだと主張したという。
また、川崎車輌の試験班長なる米国人技師が一時期だけ参加したとされ、彼女は日本語で「暖房は車両の心臓である」と記したメモを残した。もっとも、同名の人物は当時の社内名簿に見当たらず、社史編纂時に英字資料を読み違えた可能性も指摘されている。
初期試作と量産化[編集]
第1試作車は、車体中央部に「霧消室」と呼ばれる小区画を備えていた。これは乗客の吐息による内窓の曇りを意図的に集め、外部へ排気するという、極めて珍妙な方式であったが、結果として視界が良好になり、運転士からは好評であった。
には量産先行車4両が完成し、の山線区間で営業試験が行われた。試験中、車内で茹でた茶がぬるくならないことから、沿線の駅弁業者が販売時間を20分繰り下げる事態となり、これが「キハ171効果」として記録されている。
運用[編集]
実運用では、内の普通列車を中心に用いられたほか、冬季のみの迂回貨物支援列車に連結されることもあった。特にから方面へ向かう夜行準急では、座席よりも壁面のほうが暖かいという逆転現象が知られ、乗客の多くがドア付近で眠ったとされる。
一方で、暖房性能の高さは燃費悪化を伴い、のオイルショック後には「車内は快適だが国鉄の会計は凍る」と批判された。これに対し現場では、エンジン回転数を抑えつつ暖房だけを維持する「擬似停車暖房」という運用が編み出され、停車中の駅でだけ妙に快適な列車として話題になった。
構造と特徴[編集]
床下装置[編集]
キハ171系最大の特徴は、床下に搭載された二重燃焼式の暖房補助装置である。これは軽油を再霧化して再燃焼させるもので、理論上は排熱効率が向上するとされたが、実際には沿線の積雪に暖かい排気が当たって薄い氷板ができるため、駅員が滑りやすいと苦情を入れた記録がある。
整備担当者はこの氷板を「171式スケートリンク」と呼び、冬季の洗車場で子どもたちが勝手に滑ったことから、の一部では半ば観光資源になったともいう。
車内設備[編集]
座席は寒冷地向けに分厚いモケット張りで、背もたれには折りたたみ式の小型暖房板が埋め込まれていた。乗客は新聞を膝に載せなくてもよくなったが、代わりに新聞が乾きすぎてめくれなくなる問題が生じた。
また、運転台には外気温に応じて表示が変わる温度計が備えられていたが、-15℃を下回ると目盛りが「寒い」「かなり寒い」「やめておけ」の3段階になる仕様であった。
塗装と外観[編集]
初期車は灰白色に細い青帯を配したが、以降は雪中視認性を高めるため、窓下に橙色の警戒帯が追加された。これが「夕焼けの171」と呼ばれ、写真愛好家の間では、吹雪の日だけ車体が背景と同化して赤帯のみ浮かぶ瞬間が人気を集めた。
なお、試作車1両だけ、車体側面に機関区の職員が誤って描いた白いキツネのマークが残り、形式写真でしばしば怪訝な目を向けられている。
社会的影響[編集]
キハ171系の投入により、寒冷地の列車は「遅れないこと」から「寒くないこと」へ評価軸が移ったとされる。これは鉄道利用者の感覚に小さくない変化をもたらし、の生活欄では「列車に乗ると眠くなるのではなく、まず安心する」と評された。
さらに、車内暖房が強すぎたため、沿線の帽子屋と手袋屋が売上を一時的に落とし、代わりに水分補給用の紙コップ茶を売る駅売店が伸びたという。鉄道車両が地方経済に与えた影響としてはきわめて特殊であり、の社内研究会でもしばしば引用される。
批判と論争[編集]
もっとも、キハ171系には少なくとも二つの大きな批判があった。第一に、暖房を強くしすぎた結果、冬でも窓が開けづらくなり、乗客の一部から「車内が温室のようである」との声が上がったことである。第二に、量産後期の一部編成でエンジン音が笛のように聞こえる現象が発生し、これを「霧笛共鳴」と呼ぶか「整備不良」と呼ぶかで現場の意見が割れた。
また、に行われた省エネ改造では、暖房出力を落とす代わりに床下へ断熱材を増設したが、結果として車両重量が増え、加速性能が1.7秒ほど低下したとされる。この数値は社内報では大きく扱われたものの、外部の研究者は「測定条件がやや恣意的である」と指摘している。
評価と文化的受容[編集]
鉄道趣味の世界では、キハ171系は「実用本位でありながら、どこか発想が過剰な車両」として語られることが多い。特にの冬景色を背景にした写真では、車体の白さと吐き出す蒸気が一体となり、まるで列車全体が呼吸しているように見えることから、旧型気動車の中でも独特の存在感を持つとされた。
一部のファンは、製の最終増備車を「171-73型」と勝手に呼んだが、公式にはそのような形式は存在しない。それでも沿線の鉄道雑誌がこの呼称を採用してしまったため、のちに索引担当者が頭を抱えたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高橋義信『寒地気動車設計概論』鉄道技術出版社, 1970.
- ^ 山下庄三郎『車内温度と乗客心理』国鉄車両研究所報, Vol.12, pp. 44-67, 1968.
- ^ 北海道鉄道史編纂室『道東輸送と暖房装置の変遷』北辰書房, 1983.
- ^ Margaret A. Thornton, “Double Combustion Heaters in Northern Diesel Cars,” Journal of Japanese Railway Engineering, Vol.4, No.2, pp. 101-118, 1969.
- ^ 小樽築港機関区編『霧と雪の形式図集』機関区資料室, 1972.
- ^ 運輸省車両課『寒冷地高速化計画報告書』官報附録, 第18巻第7号, 1966.
- ^ 佐々木清隆『国鉄気動車の省エネ改造史』交通新聞社, 1991.
- ^ 田中みのる『キハ171系の「やけに温かい」車内環境』鉄道と生活, 第9巻第3号, pp. 12-29, 2004.
- ^ E. Nakamura, “Thermal Passenger Retention and Regional Timetables,” Hokkaido Transit Review, Vol.7, pp. 5-21, 1975.
- ^ 『北の列車はなぜ蒸気を吐くのか』鉄道文化研究会, 1987.
- ^ 高橋義信・山下庄三郎『171系試作車における窓霜対策の実験』日本車両学会誌, 第21巻第1号, pp. 2-19, 1971.
外部リンク
- 国鉄寒地車両アーカイブ
- 小樽築港機関区旧資料室
- 北海道鉄道文化研究会
- 霧笛車両年鑑オンライン
- 架空鉄道技術総合センター