クロアチア・ヴェネツィア戦争
| 時期 | 1478年頃 - 1509年頃 |
|---|---|
| 場所 | アドリア海東岸、ダルマチア沿岸、内陸交易路 |
| 原因 | 塩税、港湾使用権、関税標識の設置権 |
| 結果 | 非公式停戦、共同徴税区の設定、地図改訂 |
| 交戦勢力 | クロアチア海辺諸都市連合、ヴェネツィア共和国 |
| 指導者 | ラドヴァン・クレシッチ、マルコ・バルバリゴ |
| 兵力 | 沿岸民兵約8,400、ガレー船19隻前後 |
| 被害 | 港湾倉庫12棟焼失、塩樽約3万1,000樽流失 |
クロアチア・ヴェネツィア戦争(クロアチア・ヴェネツィアせんそう、英: Croatia-Venice War)は、東岸における港湾徴税権と塩の流通管理をめぐって、後半から断続的に続いたとされるである[1]。後世の年代記では、が作成した海図の誤記から拡大した「紙上の国境紛争」としても知られている[2]。
概要[編集]
クロアチア・ヴェネツィア戦争は、沿岸の交易都市群が、の海上支配と系諸侯の港湾自立権をめぐって対立した一連の軍事衝突である。史料上は単一の開戦日を持たず、沿岸の徴税吏への襲撃、補給船の拿捕、関税札の焼却が積み重なって戦争化したとされる[3]。
この戦争の特徴は、砲撃よりも先に帳簿が争われた点にある。とくに、、周辺では、港に掲げる旗の色よりも塩の量目と通行証の印章が重視され、戦闘と会計が同じ会議録に並記されたことが知られている。また、の写字生が双方の関税表を混同したことが、紛争長期化の一因になったとの指摘がある[4]。
背景[編集]
発端は、がアドリア海東岸の港湾に「潮汐整備費」と称する追加課金を導入したことに端を発するとされる。これに対し、内陸の毛皮商人と海岸の塩商人が反発し、近郊の荷揚げ場で印章の押し直しを要求したことが最初の小競り合いとされる[5]。
一方で、当時の側には統一的な海軍司令部が存在せず、地元の豪族、修道院、港湾同業組合がそれぞれ独自に防波堤を修築していた。このため戦争は正規軍同士の衝突というより、商船団と徴税組、沿岸民兵、地図製作者が入り乱れる複合紛争として進行した。なお、近年発見されたの会計帳簿によれば、開戦前年の塩税収入は前年比17.4%増であったが、これは徴税に成功したというより密輸が増えたためとみられている[6]。
経緯[編集]
沿岸衝突の拡大[編集]
、沖でヴェネツィアの護送船団が漂流木を装った小舟の攻撃を受け、積荷の塩樽214樽を失った事件が、戦争の象徴的事件とされる。襲撃そのものより、樽の底に押された印章が前年度の徴税印と同一であったことが問題化し、双方が「偽造された正当性」をめぐって非難合戦を行った。
この頃、の港務局では、紛争回避のため荷札にローマ数字ではなく星印を用いる試みが行われたが、星印の数え方をめぐって逆に混乱が広がった。のちの史家は、これを「会計上の小改革が戦争を一段階複雑化させた稀有な例」と評している[7]。
海上封鎖と文書戦[編集]
に入ると、ヴェネツィア側はガレー船による沿岸封鎖を強化し、からに至る航路で通行証の再発行を義務づけた。これに対抗してクロアチア側は、港湾の入り口に木製の「仮関税門」を設け、門を通過するたびに税率が変わるという奇妙な制度を採用したと伝えられる。
この時期の戦争は、実戦よりも文書の方が激しかった。双方は少なくとも32種類の停戦案を交換し、そのうち7件は条項の番号が逆転していたため無効になった。とくにが署名した草案には、翌週に別の秘書が「沿岸の月曜日は存在しない」と追記しており、後世の研究者を悩ませている[8]。
主要人物[編集]
クロアチア側の中心人物とされるは、実在の伯爵ではなく、複数の港湾監督官の記録を一人にまとめた便宜的名称である可能性が高い。もっとも、19世紀の史料編纂者は彼を「塩樽を剣より重く見た男」と描写し、以後の通俗史に定着した。
ヴェネツィア側ではが総督府の沿岸交渉官として登場する。彼は軍人というより測量士に近く、戦闘前に海岸線を3回描き直してから出航したことで知られる。また、という女性書記が停戦文書の原案を作成し、双方の印章欄の間隔を3ミリ広げたことが偶発的な再戦回避につながったとする説もある[9]。
影響[編集]
戦争の直接的な帰結として、東岸では共同徴税区が設けられ、塩と蝋と魚醤に限っては両陣営の検査官が交互に立ち会う制度が整えられた。これにより沿岸商業は一時安定したが、反面、通関書類が増えすぎて交易速度はおよそ23%低下したと推定されている[10]。
文化面では、この戦争を契機として「青い印章紙」と呼ばれる特殊な公文書用紙がとの両方で流行した。紙の青は海を示すというより、改竄の痕跡を見分けやすくするための技術的要請であったが、やがて詩人たちが「波の色」と解釈し、戦争の記憶は叙事詩に転化した。なお、の最終停戦では、港の鐘を鳴らす回数まで条文化されたため、鐘楼の修理業者だけが戦後に最も繁栄したという。
研究史・評価[編集]
20世紀前半の史料学派は、この戦争を「国家間戦争」ではなく「海上行政紛争の軍事的外延」と位置づけた。これに対し、1970年代の研究者は、民謡に残る戦死者数の過大表現を根拠に、むしろ象徴戦争であったと主張した。
近年では、の海域史研究との地方文書研究を接続することで、戦争の実体は「塩税改定に反対した複数都市の連鎖的暴動」であった可能性が高いとみられている。ただし、の教会記録に「海が三日間だけ静かであった」とあることから、完全な文書闘争に還元できないとの反論も根強い[11]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Nikola Vuković, "Salt, Seals, and Small Wars: The Adriatic Tariff Conflicts", Journal of Maritime Microhistory, Vol. 12, No. 3, 1987, pp. 201-244.
- ^ Marta Bellini『L'ombra del dazio: commercio e conflitti nell'Adriatico orientale』Edizioni Lagunari, 1994.
- ^ Jelena Kovač, "The Blue Seal Paper and Its Administrative Afterlife", Transactions of the Dalmatian Institute, Vol. 8, Issue 2, 2001, pp. 55-79.
- ^ Ivan Šarić『Kronike o ratu što se vodio perom』Sveučilišna Naklada, 1978.
- ^ Frances A. Thornton, "Cartographic Misreadings in Late Medieval Coastal Wars", The Bulletin of Coastal History, Vol. 19, No. 1, 2009, pp. 13-41.
- ^ Lorenzo Badoer, "On the Refusal of Mondays: A Note on Negotiation Calendars", Venice Historical Review, Vol. 6, No. 4, 1963, pp. 88-97.
- ^ Petar Lukić『Zbirka sporednih ugovora i drugih nesporazuma』Arhivski Zavod, 2011.
- ^ A. M. D. Rinaldi, "Customs Gates That Changed Their Tax Rate Midday", Journal of Invented Legal History, Vol. 3, No. 2, 1998, pp. 1-29.
- ^ Đuro Marinović『More, sol i pečati』Katedra za Jadranske studije, 1982.
- ^ Helmut Kraus, "A War of Ledgers: Venetian Finance and Croatian Port Resistance", Rivista di Storia Economica Adriatica, Vol. 27, No. 5, 2015, pp. 301-336.
外部リンク
- Adriatic Archive Consortium
- Lagunare Historical Gazette
- Institute for Coastal Tariff Studies
- Digital Cartulary of Dalmatian Ports
- Forum for Maritime Misreadings