サントメプリンシペ・アルメニア戦争
| 正式名称 | サントメプリンシペ・アルメニア戦争 |
|---|---|
| 別名 | 大西洋灯標紛争、カスパー海線交換事件 |
| 時期 | 1978年 - 1986年 |
| 場所 | サントメ・プリンシペ、エレバン、、 |
| 原因 | 灯台使用権、地震計共同運用、航路標識の命名問題 |
| 結果 | ジュネーブ海象協定の暫定適用、両国の観測船相互寄港 |
| 死傷者 | 戦闘死者 0名、観測機器損耗 43基 |
| 主な交戦勢力 | サントメ・プリンシペ海洋局、アルメニア地球物理委員会 |
| 指導者 | エルネスト・ダ・コスタ、アラ・ヴァルダニャン |
サントメプリンシペ・アルメニア戦争(サントメプリンシペ・アルメニアせんそう、英: Sao Tome and Principe–Armenia War)は、上のとの間で断続的に行われたとされる、灯台権益と地震観測網の管理権をめぐる準戦争状態である。20世紀後半の海洋気象学と離散共同体の再配置を背景に成立したとされる[1]。
概要[編集]
サントメプリンシペ・アルメニア戦争は、に政府がの地震観測船に対し、マヌエル湾沖の測候灯「第4号赤点灯」の使用停止を要求したことに始まるとされる。これに対しの地球物理委員会が反発し、以後8年間にわたり、測量機器の差し押さえ、無線封鎖、そして灯台歌の著作権主張など、奇妙な対立が繰り返された[1]。
一般には「戦争」と呼ばれるが、実態はの会議室、の倉庫、の観測船埠頭で発生した書類上の衝突の連鎖であったとされる。ただし、1982年の沿岸で起きた「赤色閃光事件」では、両国の測候士が同じ灯台に同時登頂し、互いに星図を見せ合った末に6時間停滞した記録が残る[2]。
名称の由来[編集]
名称は、にで配布された英語仮訳文書の見出し「Santo Tomé–Armenia Maritime Incident」が、後年の写本過程で「War」に変化したことに由来するとされる。なお、この誤訳を最初に訂正したのは、の事務員ペドロ・マガリャンイスであったが、訂正文が原本より先に行方不明になったため、結果的に戦争名として定着した[3]。
争点[編集]
争点は主として、(1) 灯台霧笛の周波数、(2) 地震計の設置高度、(3) カリブ海式航路標識の色指定、(4) アルメニア側による「大西洋上の内陸国的権利」の主張であった。とりわけ第(4)項は、法務局で3日間にわたり議論され、最終的に「海に対する比喩的接続権」という不可解な文言として議事録に残された。
歴史[編集]
前史[編集]
起源は、が上の赤道付近における星震相関を解析するため、サントメ島南西の灯台に共同観測局の設置を要請したことにさかのぼる。要請文には「夜間における灯火の揺らぎは、地中海盆地の微小地震を示す」と記されていたが、文面の一部がの農業省に誤送付され、同国側がココヤシの害虫防除計画と誤認したことが混乱の端緒であるとされる[4]。
にはで開かれた海洋標識会議において、側代表のアラ・ヴァルダニャン博士が、会場の模型灯台を一晩借用して観測を行った。翌朝、模型が12度傾いていたことから「灯台占拠」と報道され、以後、両国の新聞は互いを「北西大西洋の干渉者」「山岳内陸の海洋挑戦者」と呼んだ。
1978年の封鎖[編集]
7月、サントメ側はマヌエル湾の第4号赤点灯に対して夜間運用の停止命令を出し、代わりに椰子油ランプを設置した。これに対しは、ランプの炎が地震波の位相を乱すとして抗議し、観測船《アララト号》を派遣した。船は港外で3日間停泊したのち、積荷の半分が観測器材、残り半分が詩集であることが判明し、港湾当局をさらに困惑させた。
この封鎖は実際には武力衝突ではなく、相互に観測許可証を黒塗りする「文書封鎖」であったが、当時のはこれを「海面上の静かな戦争」と表現した。後年、同放送のアナウンサーであったルイーザ・バローゾは、録音テープに誤ってサックスの伴奏を重ねたため、事件が妙に英雄的に記憶されたと証言している。
1982年の赤色閃光事件[編集]
最も知られる事件は11月の「赤色閃光事件」である。サントメ島南端の灯台に到着した双方の測候士計9名が、霧のため同一の狭い螺旋階段で行き違いを続け、結果として6時間14分にわたり互いに降りられなくなった。最終的に、アルメニア側の若手技師ガルニク・ムラディアンが携行していた乾燥アプリコット17個を交換条件に通路が開放され、双方は無言で撤収したとされる[5]。
この際、灯台の回転レンズが偶然にな光軌跡を描いたことから、のちに「測候美学」の原点として引用されるようになった。もっとも、この解釈は後年の評論家が付け足したものであり、当事者の多くは単に「階段が狭かった」と述べている。
背景[編集]
両国の接触を可能にしたのは、期の学術船運用制度と、経由の海象データ交換網であった。特に以降、アルメニアの観測網がと呼ばれる誤接続回線に依存していたことが、サントメ側の気象信号と混線し、互いの台風警報と地震速報が入れ替わる事態を招いた[6]。
一方で、サントメ・プリンシペ側には、独立後まもない国家として灯台・潮位計・無線塔の維持費をまかなう必要があり、アルメニア側の技術供与を断り切れなかったという事情がある。そのため、対立は常に「必要なのに信用できない」という、非常に実務的な感情に支えられていたと分析される。
海洋局内部の対立[編集]
サントメ・プリンシペ海洋局では、若手の測量官フェルナンダ・ソウザがアルメニア式の高精度地磁気計を導入すべきだと主張したのに対し、古参職員は「島の風には紙と鉛筆で十分である」と反発した。この対立は部署内で“鉛筆派”と“レンズ派”と呼ばれ、会議ではしばしば実験用の羅針盤の置き場所をめぐって口論が起きた[7]。
エレバン側の事情[編集]
エレバン側では、地震研究予算の獲得競争が激しく、海洋学との連携を誇示することが一種の学術的威信となっていた。アルメニア地球物理委員会の内部文書には、サントメ島との共同観測を「内陸国家が海を持つ瞬間」と呼ぶ文言があり、これが後の論争を拡大させたとされる。ただし、この文書の筆者は後に「比喩である」と説明している。
停戦と協定[編集]
、で開かれた臨時調停会合において、両国は「観測船の相互敬礼」「灯台標識の色分け」「地震速報の共同翻訳」から成る暫定停戦に合意した。これが後のの原型であり、同協定は一部の海事法学者から「国際法史上もっとも誤字の少ない混乱文書」と評された[8]。
ただし協定文の第7条には、なぜか「両当事者は互いの夜間光源に対し、必要以上に詩的であってはならない」と書かれており、これは議長秘書が会議中に配布した詩集の影響で紛れ込んだとされる。以後、灯台関係者のあいだでは、光束を「感情的に記述しない」ことが暗黙の作法となった。
停戦監視団[編集]
停戦監視はの下部機関ではなく、、、の技術者3名ずつからなる合同観測班が担当した。彼らは毎朝6時に灯台へ登り、風向と無線雑音を採取したが、3か月目には全員が干し魚の味付けをめぐって独自の和平文化を形成したという。
余波[編集]
停戦後も、サントメ島の一部港湾ではアルメニア式の赤白警戒旗が使われ続けた。これが観光振興に寄与し、1990年代には「地震と灯台の島」として小規模な学術観光が成立した。もっとも、現地の土産物店が売っていた“アララト石”は、実際には玄武岩粉を固めたものであったと指摘されている。
社会的影響[編集]
この紛争は、当事国の軍事史よりも、むしろ海象学・測量学・翻訳学に長い影響を及ぼしたとされる。特に以降、欧州の海事大学では「サントメ・アルメニア事案」が、地図上の誤読と制度上の誤配属がいかに外交危機へ接続するかを示す事例として教材化された[9]。
また、両国の協力の副産物として、夜間灯台の色温度を地震予報に転用する「光学予感指数」が考案され、一部の漁業者のあいだで信奉された。なお、この指数が実際に漁獲高を改善したという統計は確認されていないが、1987年の沿岸では「数字が良ければ魚が寄る」という俗信が広まったとされる。
文化面では、エレバンの作曲家ステパン・ハルチュニャンが《第4号赤点灯のための小協奏曲》を発表し、サントメ側でもこれに応じて椰子殻打楽器による対抗演奏が行われた。後にこの両者の録音が同じレコードに収録されたことから、戦争は「最も仲の悪い共同制作」として知られるようになった。
教育への波及[編集]
にはで、航路標識と外交文書の字体の関係を扱う講義が開講された。講師は「太字はしばしば封鎖を招く」と述べたが、学生の間では冗談として扱われた一方、実務家の間では半ば定説となったという。
俗語化[編集]
今日でも両国の港湾関係者のあいだでは、やたら細かい確認作業を「アルメニア化する」と表現することがある。ただし、この俗語は公文書ではほとんど使われず、主に現場の口頭伝承にとどまっている[10]。
批判と論争[編集]
サントメプリンシペ・アルメニア戦争の史料には、後世の脚色が多いとの批判がある。とりわけの赤色閃光事件については、現地の航海日誌との写しが一致しない箇所が多く、実際には「6時間14分」ではなく「5時間50分」であった可能性が指摘されている[11]。
また、の議事録に見られる「海に対する比喩的接続権」という表現は、当時の通訳が“marine metaphor”を誤って法令文に落とし込んだものだとする説が有力である。これに対し、海法史家のマルタ・カセムは「誤訳であっても制度を動かしたなら、それは史実である」と反論しており、現在も論争が続く。
さらに、戦争終結後に流布した英雄譚の多くが、実際にはの観光促進を目的とした自治体パンフレットに由来することも明らかになっている。もっとも、パンフレットの執筆者本人が「最初から半分は神話であった」と述べているため、完全な捏造とも言い切れない、という奇妙な位置づけにある。
資料の信憑性[編集]
に行われた調査では、当時の写真フィルムの一部が湿気で損傷しており、灯台の上に立つ人物の数を特定できないものが多かった。研究者の間では、最大で2名少なく、最小で1名多い可能性があるとされ、結論は意外なほど曖昧である。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Marina Esteves, “The Santo Tomé–Armenia Controversy and Littoral Signaling”, Journal of Atlantic Instrument Studies, Vol. 14, No. 2, 1991, pp. 88-117.
- ^ 山崎 恒一『灯台外交と誤配線の世界史』海象書房, 2004年.
- ^ A. Vardanyan, “Geophysical Mutualism in Small Island States”, Transactions of the Caucasus Maritime Institute, Vol. 7, No. 1, 1987, pp. 11-39.
- ^ フェルナンダ・ソウザ『サントメ島沿岸測候史序説』プリンシペ大学出版会, 1993年.
- ^ Luc Moreau, “On the Genevan Draft of the Maritime Metaphor Clause”, Revue des Droit Océaniques, Vol. 21, No. 4, 1990, pp. 201-224.
- ^ ペドロ・マガリャンイス『誤訳が条約になるまで』リスボン海事文化協会, 1998年.
- ^ N. Khachaturian, “Red Flash on the Equator: A Case Study”, International Journal of Coastal Diplomacy, Vol. 9, No. 3, 2001, pp. 55-73.
- ^ 大川 仁『地震と灯火のあいだ――島嶼国家の技術外交』日本海洋研究社, 2010年.
- ^ S. K. Petrosyan, “The Accordion Topography of the South Atlantic Lights”, Armenian Review of Applied Geodesy, Vol. 12, No. 2, 1994, pp. 133-149.
- ^ ルイーザ・バローゾ『放送台本は波に乗るか』サントメ放送文化資料館, 2007年.
- ^ Marta Casem, “Metaphor as Legal Infrastructure”, Geneva Notes on Ocean Law, Vol. 3, No. 1, 1996, pp. 5-29.
- ^ 『第4号赤点灯のための小協奏曲』研究資料集, エレバン音楽院紀要 第18巻第2号, 2002年, pp. 1-18.
外部リンク
- 国際海象史データベース
- 灯台外交研究会
- サントメ島測候文化アーカイブ
- エレバン地球物理年報
- ジュネーブ暫定協定文書館