グルメ番号1〜99
| 正式名称 | グルメ番号1〜99制度 |
|---|---|
| 通称 | グルメ番号 |
| 開始年 | 1968年 |
| 提唱者 | 河村俊一郎、田所ミレイほか |
| 主管 | 食味基準連絡会議 |
| 対象 | 料理、菓子、飲料、屋台食品 |
| 等級範囲 | 1〜99 |
| 主な採用地域 | 関西圏、首都圏、港湾都市部 |
| 関連法令 | 飲食表示暫定要綱(1974年) |
| 備考 | 1987年以降は民間規格として運用 |
は、料理や飲食物を味覚・温度・香気・供給速度の4軸で数値化し、からまでの通し番号で管理するために作られた評価体系である。元来はの市場再編計画から生まれたとされ、のちにの外食業界へ広く浸透した[1]。
概要[編集]
グルメ番号1〜99とは、飲食物の「うまさ」を単純な主観で扱うのではなく、流通条件や盛り付けの再現性まで含めて番号化した独自の評価体系である。番号が低いほど古典的・重厚、高いほど軽快・都市的とされ、の催事場やの案内板に採用された時期がある。
この制度は、戦後の外食産業において、料理名だけでは品質差を説明できないという不満から生まれたとされる。特にの周辺で、同じ「天ぷら」でも衣の湿度や揚げ油の粘度によって格付けが乱立したことが、統一番号の必要性を強く意識させたという[2]。
成立の経緯[編集]
市場再編と「通し番号」の発想[編集]
1968年、の臨時研究班に所属していた河村俊一郎は、青果の品番管理を料理に転用する案を提示した。彼は当時すでに魚介の等級表示で実績があり、試験的にの食堂街で番号札を配布したところ、客が「17番の煮込み」や「42番の出汁茶漬け」を目当てに店を回遊する現象が起きたとされる。
この時点ではからまでしか設定されていなかったが、番号が埋まると商店主が独自に「51番補助系」を名乗り始め、混乱が拡大した。そこで翌年、田所ミレイが加わり、上限をに拡張することで体系化が図られた。なお、当時の会議録には「100は縁起が悪い」とする発言があり、これが後年まで制度設計に影を落としたとされる[3]。
万博前夜の標準化[編集]
のを前に、来訪者向けの簡易メニューが必要となり、は「番号と料理の対応表」を正式文書として整えた。ここで初めて、味だけでなく香りの立ち上がり時間、皿が下げられるまでの平均秒数、湯気の見え方まで採点対象に含めたことが特徴である。
同会議では、各番号に色名を割り当てる案も出たが、印刷費が高騰したため白黒の記号に落ち着いた。ただしだけは例外的に朱色が認められ、「祭礼性の高い軽食」として扱われた。これは来場者がで最初に撮影した料理が、偶然にものたこ焼きだったためであるという[4]。
番号体系[編集]
1〜33: 基礎料理帯[編集]
からは、米飯・汁物・単品の漬物など、最小構成の料理群に割り当てられている。からは、定食や麺類のように「主食と副要素の結びつき」が評価される帯で、特には出汁の透明度を重視する番号として知られる。
この帯の特徴は、同じ料理でも盛り付けの向きで番号が1つ上下することである。たとえばの親子丼は、卵が半熟なら標準だが、葱が時計回りに配置されているとへ繰り上がる。昭和期の料理研究家・水無瀬ゆりは、これを「箸の文化圏における角運動量」と呼んだ[5]。
34〜66: 都市流通帯[編集]
からは、屋台、駅弁、喫茶店の軽食、百貨店の持ち帰り寿司など、都市の移動と結びつく食品が多い。ここでは味そのものよりも「冷めても成立するか」「改札を通過する間に崩れないか」といった実務的条件が重視された。
とりわけは、の駅構内で販売された味噌カツサンドに多用され、厚紙の包装まで番号に含める運用が行われた。後年、包装を外した瞬間に番号がへ下がるとされたことから、「剥離に弱い高評価」として料理人のあいだで恐れられた。
67〜99: 祝祭・逸脱帯[編集]
以上は、季節限定、地域限定、あるいは説明文が長すぎる料理に与えられることが多い。番号が高いほど希少性が高いとされるが、実際には「担当者が説明に疲れて後半に回した」という事例も多い。
は、の中華街で発生した「鳳凰炒麺事件」の影響で空番に近い扱いを受けた。さらには制度上の最高位である一方、調査票に収まりきらない料理のために半ば象徴的に置かれた番号であり、採番委員の間では「到達点ではなく保留点」と呼ばれていたという。
社会的影響[編集]
グルメ番号の導入により、の食品売場では「番号順に巡回する客」が増え、試食の動線設計が変化した。1973年にはの老舗百貨店で、番号掲示板の前にだけ人だかりができ、店員が実際の料理より番号札の補充に追われた記録がある。
また、学校給食への応用をめぐっては賛否が分かれた。番号を付けることで食育が進むという意見があった一方、子どもがのコロッケパンを「先生が認めた正解」と誤解し、ほかの献立を食べなくなる問題が指摘された。なお、当時の一部自治体では、番号が高い献立ほど残食率が低かったという報告があるが、調査票の裏面におやつ一覧が混入していたため、信頼性には疑問が残る[要出典]。
一方で、海外の日本食レストランではこの制度が「Japanese Menu Numbering」として模倣され、やで独自改変が進んだ。特にのラーメンは、現地では「雨の日向けの麺」として売られ、気圧によって番号が変わるという説明まで付与された。
批判と論争[編集]
制度への批判として最も多かったのは、番号が客観性を装いながら実際には地域差と担当者の癖に左右される点である。ある調査では、同じの鯖寿司がでは上品、では強い、では説明が長い、という三通りの評価を受けた。
また、1978年の「第3回食味基準総会」では、以上の料理にのみ付与される銀箔シールをめぐり、業界団体と消費者団体が激しく対立した。業界側は「高番は説明責任が重い」と主張したが、消費者側は「番号が高いほど値段も高くなる」と反発したため、結果としてからのシールは試験印刷のまま倉庫に積まれた。
さらに、制度を支えた田所ミレイが晩年に「本当はまでで十分だった」と語ったとする証言が残るが、本人の講演録には「37は中盤の風景にすぎない」ともあるため、解釈は分かれている。
現代における位置づけ[編集]
現在、グルメ番号1〜99は法的拘束力を持たない民間規格であるが、老舗飲食店の一部ではなお「昔番」として参照されている。特にとの一部の仕出し業者では、番号を聞けば味付けの方向性が即座に伝わるため、いまも営業用語として生きている。
近年はデジタル化により、QRコードと番号を併用する例が増えた。しかし、若年層のあいだでは「番号が高いほど映える」という誤解が広まり、の素朴な稲荷ずしよりの派手な冷製パフェが人気になるなど、本来の序列が逆転する事態も見られる。食文化研究者の石原三津子は、これを「番号のインスタ映え化」と呼んでいる[6]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 河村俊一郎『通し番号による食味管理の試み』日本食流通研究所, 1969年.
- ^ 田所ミレイ『都市外食における番号体系の導入』『食文化評論』Vol.12, 第3号, 1971年, pp. 44-61.
- ^ 食味基準連絡会議編『グルメ番号1〜99運用細則』大阪食文化出版会, 1972年.
- ^ 水無瀬ゆり『箸の文化圏における角運動量』『料理学年報』Vol.5, 第2号, 1975年, pp. 8-19.
- ^ 石原三津子『番号のインスタ映え化と若年層の選好変化』『現代食誌』Vol.21, 第1号, 2009年, pp. 102-118.
- ^ 山岡達夫『港湾都市における駅弁と採番制度』海鳴社, 1980年.
- ^ Margaret L. Whitford, 'Ordinal Taste Systems in Postwar East Asia,' Journal of Culinary Anthropology, Vol. 8, No. 4, 1986, pp. 201-223.
- ^ Kenji Aramaki and Claire Dubois, 'Numbered Menus and Consumer Trust,' Gastronomy Studies Quarterly, Vol. 14, No. 1, 1994, pp. 17-39.
- ^ 近藤和夫『第九十九番の哲学――保留としての完成』『食と記号』第7巻第4号, 2011年, pp. 55-70.
- ^ S. H. Keller, 'The Curious Case of the 88th Noodle,' East Asian Food Review, Vol. 3, No. 2, 1979, pp. 66-72.
外部リンク
- 食味基準連絡会議アーカイブ
- 日本番号料理学会
- 昭和外食標準資料室
- グルメ番号年表データベース
- 関西食文化口伝集