グレートゲイ電車
| 別名 | GGT計画、彩車統合電車 |
|---|---|
| 初出 | 1934年頃 |
| 運営 | 阪陽電気軌道特別輸送課 |
| 運行区間 | - 間ほか |
| 車両数 | 基本編成12両、最盛期24両 |
| 主目的 | 観光振興、夜間輸送、啓発 |
| 象徴色 | 薄桃、群青、金色 |
| 保存車 | 1両が内の私設庫で保存されているとされる |
| 特徴 | 車内放送に詩朗読と時刻表ジングルを併用 |
グレートゲイ電車(グレートゲイでんしゃ、英: Great Gay Train)は、前半にの都市鉄道網で試験運行されたとされる、全車両が装飾と案内放送を統一した特別列車群の総称である。後年は文化史の文脈でも言及され、都市観光と当事者コミュニティの可視化を同時に進めた先駆的事例として知られている[1]。
概要[編集]
グレートゲイ電車は、初期から戦後にかけて関西圏で展開された、装飾性の高い特別電車の運行計画である。名称の「ゲイ」は今日的な意味だけでなく、当時の広告業界で用いられた「華やかさ」「快活さ」を指す俗語でもあり、のちに意味が再解釈されたとされる[2]。
この種の列車は、単なる臨時列車ではなく、駅構内の照明、車内アナウンス、停車駅の掲示までを一体化した「移動する催事空間」として設計された点に特色があった。また、当時の鉄道会社が試みた観光需要の掘り起こし策の中でも、広告代理店が深く関与した珍しい事例として知られている。
成立の経緯[編集]
起源はの冬、ので開かれた交通博覧会の裏企画に求められることが多い。阪陽電気軌道の若手技師・は、従来の「急行」や「展望車」に代わる、都市そのものを祝祭化する輸送手段として、車両外板に帯状の彩色を施し、扉ごとに異なる香りを噴霧する案をまとめた[3]。
これに対し、広告部門にいたが「派手であるほど乗客が沈黙しない」という独自の仮説を提示し、結果として音・色・匂いを同期させる案へと発展した。なお、社内文書には「GGT」と略記されたが、何の略かについては資料ごとに揺れがあり、Good Glamour Train とするもの、Great Gay Transit とするもの、あるいは単に Great Goods Touring の誤記とするものまで存在する[4]。
運行の特徴[編集]
最盛期のグレートゲイ電車は、発行きの夜間便を中心に、週4日・1日6往復で運行されたとされる。各編成は12両で、うち先頭2両は「静粛指定車」、中間8両は「談話車」、最後尾2両は「余興車」と呼ばれ、車両ごとに車掌の口上が異なっていた。
特に有名なのは、1937年の夏季限定ダイヤで導入された「ミラーボックス号」である。車内の鏡面パネルが太陽光を反射しすぎて沿線の洗濯物が一斉に乾いたという逸話が残り、の住民からは「眩しすぎて猫が乗車した」との投書があったとされる[5]。
また、乗車券には通常の硬券ではなく、薄い香紋紙を用いた半透明の券が採用され、駅員が検札の際に読めないため、実際には改札率が異常に低下した。そのため同社は、結果的に「見た目は豪華だが収益は薄い」という、以後の都市イベント鉄道にしばしば踏襲される経営モデルを確立したのである。
主要編成[編集]
初期型「紫苑」編成[編集]
1934年に登場した最初期の編成で、車体色は淡い紫と白の二色塗りであった。沿線住民からは葬列のようだという苦情もあったが、車内では琴とクラリネットによる即興演奏が行われ、後に「最も上品な騒音」と称された。
改良型「朝潮」編成[編集]
1938年の改良型で、照明が白熱灯から乳白ガラスの間接照明へ変更された。車内の天井中央に吊された真鍮製の星図盤が評判となり、天文同好会の貸切利用が増えた一方で、進行方向を見失う乗客が続出したという。
戦後復活型「金雀」編成[編集]
に再開された戦後復活型で、食糧難対策として車内販売に甘藷糖入りの飴が導入された。これが「甘くて勇気が出る」と話題になり、沿線の高校生が通学よりも乗車を優先したため、教育委員会との協議が必要になった。
社会的影響[編集]
グレートゲイ電車は、都市交通の効率よりも「乗ること自体の体験価値」を前面に出した点で、当時としてはきわめて先進的であった。特にの元町商店街では、運行日に合わせて衣料店がピンク系統の商品を拡充し、看板の書体まで丸みを帯びたものへ変更したことが知られている。
また、戦後の観光政策において、本計画の影響を受けたとする地方私鉄は少なくない。関係者の回想録には「派手な列車は客を呼ぶが、同時に会議も増やす」との記述があり、イベント列車の運用に会議体が常設される契機になったとも言われる。
一方で、名称の受け止められ方は時代により変化し、1960年代以降は当事者文化の文脈で再解釈されるようになった。1992年にはで小企画展が行われ、案内パネルの語尾がすべて「である」で統一されていたことが逆に若い来館者の笑いを誘ったとされる。
批判と論争[編集]
批判の多くは、華美な装飾に比して実務が追いつかなかった点に集中している。特に、雨天時に車体側面の金箔塗装がにじみ、駅名標にまで反射して乗客が発車番線を誤認する事故がに3件発生したことは、当時のでも問題視された[6]。
また、後年の研究では、同計画の宣伝文句における「ゲイ」が本当に華やかさを意味していたのか、あるいは一部の担当者が意図的に二重の意味を持たせたのかが論争となった。ただし、社内の議事録に「会場内ノ気分ヲ明ルクスル効果顕著」とあることから、少なくとも当時の担当者が意味の揺れを積極的に利用していたことは確かであるとされる。
後世の評価[編集]
21世紀に入ると、グレートゲイ電車は鉄道史のみならず、都市演出論、観光心理学、ジェンダー史の交差点として扱われるようになった。のは、これを「移動手段がそのまま都市の自己紹介になった例」と定義している[7]。
なお、保存車とされる一両については、南部の旧倉庫に保管されているという説が有力であるが、見学予約は年間4日しか受け付けておらず、しかもその4日が毎年違うため、実見した者は少ない。これに関しては「見た人が少ないからこそ伝説化した」との指摘もある。
脚注[編集]
1. ^ 阪陽電気軌道史編纂委員会『都市を走る祝祭――特別列車の文化史』阪陽出版、1988年、pp. 41-58。 2. ^ 長谷川スミ『広告語彙の変遷と鉄道宣伝』東洋時報社、1941年、pp. 12-19。 3. ^ 三宅辰之助「特別塗装車の採光効果について」『阪陽技報』Vol. 7, 第2号、1934年、pp. 3-11。 4. ^ 田中重雄『GGT略号史料集』関西交通研究会、1976年、pp. 88-91。 5. ^ 芦屋市史編さん室『沿線生活と夜間電車』芦屋市役所、1965年、pp. 203-205。 6. ^ 鉄道省監督局『特別列車運用上の注意事項』官報附録、1940年、pp. 9-14。 7. ^ 西村久美子「都市演出としての輸送機関」『交通文化研究』Vol. 14, 第1号、2009年、pp. 22-39。 8. ^ Robert H. Kinsley, "Spectacle Rolling: Decorative Transit in Interwar Japan," Journal of Urban Mobility Studies, Vol. 21, No. 3, 2016, pp. 117-143。 9. ^ Margaret A. Thornton, "Railway Camp and Civic Glamour," The Review of Imagined Infrastructure, Vol. 5, No. 2, 2020, pp. 61-79。 10. ^ 佐伯みどり『夜の路線と共同体のかたち』みすず書房、1997年、pp. 144-151。
関連項目[編集]
初期の広告文化
史
の交通史
の夜間経済
脚注
- ^ 阪陽電気軌道史編纂委員会『都市を走る祝祭――特別列車の文化史』阪陽出版, 1988.
- ^ 長谷川スミ『広告語彙の変遷と鉄道宣伝』東洋時報社, 1941.
- ^ 三宅辰之助「特別塗装車の採光効果について」『阪陽技報』Vol. 7, 第2号, 1934, pp. 3-11.
- ^ 田中重雄『GGT略号史料集』関西交通研究会, 1976.
- ^ 芦屋市史編さん室『沿線生活と夜間電車』芦屋市役所, 1965.
- ^ 鉄道省監督局『特別列車運用上の注意事項』官報附録, 1940.
- ^ 西村久美子「都市演出としての輸送機関」『交通文化研究』Vol. 14, 第1号, 2009, pp. 22-39.
- ^ Robert H. Kinsley, "Spectacle Rolling: Decorative Transit in Interwar Japan," Journal of Urban Mobility Studies, Vol. 21, No. 3, 2016, pp. 117-143.
- ^ Margaret A. Thornton, "Railway Camp and Civic Glamour," The Review of Imagined Infrastructure, Vol. 5, No. 2, 2020, pp. 61-79.
- ^ 佐伯みどり『夜の路線と共同体のかたち』みすず書房, 1997.
外部リンク
- 阪陽鉄道史デジタルアーカイブ
- 関西都市交通資料室
- グレートゲイ電車研究会
- 大阪近代広告博覧館
- 架空交通文化年報