ケツノアナ女学院
| 正式名称 | ケツノアナ女学院 |
|---|---|
| 別名 | 臀部礼法研究会附属女学院 |
| 種別 | 私立女子教育機関 |
| 設立 | 1928年 |
| 創設者 | 小松原 露子 |
| 所在地 | 東京府北豊島郡巣鴨町(現・東京都豊島区周辺) |
| 教育理念 | 姿勢・観察・礼法の三位一体 |
| 校訓 | 見よ、座せ、整えよ |
| 廃止 | 1964年頃 |
| 通称 | ケツ女 |
ケツノアナ女学院(けつのあなじょがくいん)は、末期にの私塾として創設されたとされる、規律教育と解剖学的観察を融合した機関である。後に「臀部礼法」の研究拠点として知られ、関係者の間では半ば伝説的な学校として語られている[1]。
概要[編集]
ケツノアナ女学院は、表向きにはとを中心とする女子教育機関であったが、実際には座礼・姿勢矯正・身体観察を独自に体系化した学校として伝えられている。特に、椅子に座った際の骨盤角度を年次別に測定する「椅座定点観測」は、後年の教育に影響を与えたとする説がある[2]。
創設の経緯については諸説あるが、創設者のが後の避難所で、混乱する児童たちの姿勢の悪さに着目したのが始まりとされる。なお、同校の記録は20年代の空襲で一部焼失したため、現存する資料の多くは卒業生の回想録と近隣住民の証言に依拠している。
歴史[編集]
創設期[編集]
、北部の借家二階にて開校したとされる当初のケツノアナ女学院は、在籍生徒わずか13名であった。うち9名は近隣の商家の娘で、残る4名は転居先を失ったの子女であったという。開校式では、出身と称する小松原が「姿勢は人格の骨組みである」と述べ、校庭に白線で引かれた円の中心に全員を立たせた記録が残る。
この時期の教育は極めて独特で、朝礼で姿勢を点検し、午後には木製の模型椅子を用いた着座訓練が行われた。特に「三秒沈黙礼」と呼ばれる所作は、膝を閉じたまま三秒間だけ息を止めて一礼するもので、頃には地域の商店街にも広まったとされる。もっとも、この礼法が本当に教育効果を持っていたかは定かでない[3]。
拡張と制度化[編集]
には、旧校舎の裏手に「観察室」と称する木造平屋が増築され、ここで生徒の立位・座位・歩行が毎週数値化された。記録帳には、身長だけでなく「安心時の肩幅」「叱責時の足裏接地率」など、現在では意味が不明な項目が並ぶ。特にの冬、全校生徒27名を対象に実施された「臀部寒冷耐性試験」は、地域紙『』に小さく掲載されたが、翌日には学校側の抗議で回収されたという。
この頃から、同校は単なる風変わりな私塾ではなく、礼法研究機関として認知され始めた。衛生局の嘱託医とされるが来校し、「座法と呼吸の相関」に関する助言を行ったことが、後年の広報資料に引用されている。また、の卒業生を中心とする見学団がたびたび訪れたとされ、校門前には「観察禁止」の札が立てられたという。
戦時期と終焉[編集]
以降、同校は戦時体制下で「生活躾研究会」と改称し、表向きは節約術と勤労礼法を教える機関となった。しかし、実際には教室の畳下に隠した測定具で、生徒の姿勢変化を継続的に記録していたとされる。空襲が激化した、校舎の大半が焼失し、保存されていた『骨盤規矩帳』第4巻までが失われた一方、職員室の金庫からはなぜか木彫りの臀部模型だけが無事に発見されたという。
戦後は一時的にの私設学習塾として再出発したが、の学制整理で正式な認可を失い、頃までに実質閉鎖されたとみられる。なお、閉鎖後も卒業生同士の同窓会は「円座会」として続き、の喫茶店で年に一度、座り方の品評会が行われたと伝えられている。
教育内容[編集]
同校の教育課程は、通常科目に加えて「臀部礼法」「静座観察」「椅子芸術」の三科が独立していたとされる。特に臀部礼法では、正座から立ち上がるまでの一連の動作を7段階に分解し、各段階に古典和歌の節を対応させるという、きわめて凝った指導法が採用されていた。
また、2年次には「街路観察実習」としてからまでの徒歩移動中に、他人の歩幅・首の傾き・荷物の持ち方を記録する課題があった。成績上位者には、校章入りの丸椅子が授与されたという。もっとも、この椅子は座面が1.7センチほど高すぎており、受賞者からは不評であったともいう[4]。
人物[編集]
創設者 小松原露子[編集]
小松原露子(こまつばら つゆこ)は、生まれとされる教育者で、の呉服商の家に育ったという。若い頃にで礼法と解剖図譜に傾倒し、独自の「身体の読解」思想を確立したとされる。彼女は来客に対して必ず椅子の位置を3回ずらしながら話す癖があり、これが「相手の緊張を解くための儀礼」だったと本人は説明していたらしい。
なお、露子は生徒の姿勢を評する際、点数ではなく「しなり」「落ち着き」「沈黙の厚み」の3項目を用いた。評価表の一部には、なぜか「膝裏の説得力」という欄まで存在したことが確認されている。
教頭 山岸マツ[編集]
は、代に教頭を務めたとされる人物で、授業中の私語を極端に嫌ったことで知られる。彼女はの女学校で速記を学んだ後、ケツノアナ女学院に移り、「静けさもまた教科である」との方針を徹底した。生徒たちの間では、彼女が廊下を歩く音だけで遅刻者を当てると噂されていた。
山岸は戦後に『座位の民俗誌』という未刊稿を残したが、原稿の大半はによる被害で失われたとされる。現在残る数ページには、「礼とは臀部を通過する倫理である」という、解釈の難しい一文が含まれている。
社会的影響[編集]
ケツノアナ女学院の影響は、教育界よりもむしろ都市文化に広く及んだとされる。昭和初期の百貨店では、同校式の「整座椅子」を模した商品が売られ、の文具店では「姿勢定規」と呼ばれる奇妙な曲尺が人気を集めた。これらは流行遅れの教養として軽く嘲笑される一方、戦後のやで姿勢指導が重視される下地をつくったともいわれる。
また、同校の卒業生は銀行、図書館、区役所など「座ることの多い職場」に多く就職したとされ、机上の整理整頓と着座姿勢のよさで評価された。1960年代には、企業研修で「ケツ女メソッド」と呼ばれる簡易講座が流布し、会議の長時間化を防ぐための椅子調整法として密かに参照されたという。
批判と論争[編集]
同校には創設当初から、過度に身体へ介入する教育であるとの批判があった。とくに、ある保護者が「娘が家でも茶碗の持ち方を採点するようになった」として苦情を申し立て、の学事係が事情聴取を行ったとされる。ただし、記録が断片的であるため、実際に行政指導が行われたかは不明である。
一方で、同校の手法を「近代日本における身体知教育の先駆」と評価する研究者もいる。だがその多くは、小松原露子の残したメモを根拠にしており、なかには「骨盤は第二の成績表」といった、真偽のほどが定かでない文句も含まれている。なお、に出版された回想録『わたしの女学院時代』には、在校生が椅子を巡って泣き出した逸話があり、これが最も信頼できる証言だとする説もある。
遺産[編集]
以降、ケツノアナ女学院は実在校というより「都市伝説としての学校」として語られることが多くなった。特に、校章の由来が「二重円の中心を守る意志」であると説明される一方、外形がどう見てもに似ているため、卒業生以外からは半ば冗談として扱われている。
それでも、姿勢教育や観察学習への関心が高まるたびに、この学校の名は参照される。現在もの郷土資料館には、同校ゆかりとされる木製椅子と、表紙に『ケツノアナ女学院 生徒心得』と記された複製資料が展示されており、来館者の多くが一度はその題名で足を止めるという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小松原露子『骨盤規矩帳』ケツノアナ女学院出版部, 1936年.
- ^ 榊原兼吉「座法と呼吸の相関に関する一考察」『衛生と礼法』Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 1937年.
- ^ 山岸マツ『座位の民俗誌』未刊稿, 1947年.
- ^ 北豊島郷土史編纂委員会『巣鴨近代教育小誌』北豊島文化協会, 1959年.
- ^ 田所美智子「私立女学校における身体観察教育」『日本教育史研究』第8巻第2号, pp. 77-96, 1968年.
- ^ Margaret A. Thornton, The Etiquette of Sitting: A Comparative Study, Eastbridge Press, 1972.
- ^ 佐伯志津江『姿勢と人格の戦後史』東京礼法書房, 1981年.
- ^ Kenji Morita, "Chair Geometry in Early Showa Girl Schools", Journal of Applied Pedagogy, Vol. 5, Issue 1, pp. 9-24, 1989.
- ^ 『わたしの女学院時代』編集委員会『わたしの女学院時代』豊島回想叢書, 1978年.
- ^ 大川梨枝子「“臀部礼法”の成立過程について」『民俗身体学報』第3巻第1号, pp. 113-129, 1994年.
外部リンク
- 豊島区郷土資料館デジタルアーカイブ
- 東京近代女子教育研究会
- 姿勢文化保存協会
- 円座会オーラルヒストリー集
- 北豊島日報アーカイブ