ゴミの掃き溜め
| 分類 | 都市清掃慣行/民間衛生用語 |
|---|---|
| 主な場 | 河川敷・路地の行き止まり・市場裏 |
| 成立時期(言及) | 江戸後期の清掃規約化の文脈で語られることが多い |
| 関係組織 | 町方組合、衛生掛、廃棄物買継人 |
| 目的(建前) | 臭気の封じ込めと衛生維持 |
| 目的(実態とされるもの) | 資源循環・闇取引の集約 |
| 語の別名 | 掃き寄せ場、臭い畔、夜廻り溜 |
(ごみのはきだめ)は、都市の端々で集められた廃棄物を「一定の作法」で寄せ集めるとされる旧来の衛生概念である。特に、清掃行政が未整備だった時期に、住民の手作業を制度化する語として用いられたとされる[1]。ただし、その実態は衛生対策というより、街の“経済”を回す装置になったとも指摘されている[2]。
概要[編集]
は、廃棄物を“掃く場所”に集約することで、街の衛生を一定のリズムで維持するという考え方として語られている。具体的には、路地や市場裏で発生した屑(紙くず、木片、煮炊き残渣など)を、決められた時間に決められた方向へ寄せ、堆積量と臭気を管理するとされる[1]。
一方で、後の研究者は、この用語が清掃そのものではなく、廃棄物を「売れる形」に整える実務を隠すために使われた可能性を指摘している。たとえば、掃き溜めの“規律”として伝わる「人の足で踏み固める順番」や「雨天時の角度調整」などは、実際には買継人の仕分け導線と一致していたという証言が残る[2]。
歴史[編集]
起源:衛生ではなく「路地の経理」だったとする説[編集]
最初期のは、江戸後期の市場行政と結びついて生まれたとされる。『浅草掃集帳』という禁書扱いの記録では、屑を散らかしたままにすると流通税の計算が難しくなるため、路地を「集計しやすい形」に整える必要があったと記されている[3]。
同書によれば、役人の間で「掃き溜めは衛生の装置ではなく、帳簿の装置である」という言い回しが流行したという。なお、当時の“基準”はやけに具体的で、堆積が「横三間・縦一間・高さ六寸」を超えると別枠で記帳することになっていたとされる[4]。この基準が守られるほど、後日の仕分け作業が早くなり、買継人の利益が増えたとも伝わる。
また、成立に関わった人物としての下僚である渡辺精一郎(わたなべ せいいちろう)が挙げられることがある。彼は「臭気は悪だが、臭気の管理は秩序だ」と説いたとされ、堆積方向の角度を測る“濡れ紙ゲージ”まで導入したとされる[5]。ただし、同人物の実在性には疑問も呈されており、後年の講談によって脚色された可能性もある。
発展:夜廻り溜と「消える日」を作る技術[編集]
と呼ばれた仕組みは、明治期に入ってから清掃会社が参入したことで制度っぽく整えられたとされる。東京都心の一部では、毎月第2金曜日だけ“消える日”が設定され、住民はその前日まで掃き溜めに物を寄せ、当日は一斉に搬出すると決められたという[6]。
この搬出がどのように行われたかについて、柳橋の見廻りに関する聞書では、搬出担当が「歩幅二尺七寸、担ぎ紐の結び目は九つ」で運搬し、搬出後の路面を「石灰で一文字に塗る」よう指示されたとされる[7]。一見すると衛生作業のようだが、実際には搬出ルートの分岐を視覚化する意味もあったと解釈されている。
さらに、組織面ではが“最終利用者”として制度の周縁に組み込まれた。買継人の名寄せ帳によれば、掃き溜めの収集物は「乾いた紙類」「濡れた紙類」「油気のある残渣」「骨片」など十八区分で記録され、区分ごとに値が変動したという[8]。この細分化が、掃き溜めという言葉を“衛生”よりも“資源”の語として定着させたとされる。
制度化と崩壊:一斉清掃の副作用で「掃き溜め」が商品になる[編集]
大正末期から昭和初期にかけて、が清掃の統一規格を推進したことで、掃き溜めは一度“規格品”になったとされる。規格書では、掃き溜めの容器を想起させるが実際は空地で、三尺ごとに棒を立てて堆積を区切り、翌週の回収で棒跡が残るよう調整することが定められたという[9]。
しかし、規格が厳格になるほど、闇の転売が増えたとの指摘がある。すなわち、堆積位置が固定されると、買い手が“収集の瞬間”を狙って集まり、回収車が来る前に資源が持ち去られてしまったのである。結果として、衛生当局は「掃き溜めを増やせ」ではなく「掃き溜めを見せない」方向へ舵を切り、のちに概念は風化したとされる[10]。
ただし、いくつかの地区では、掃き溜めが完全に消えることはなかったという。河川敷の一角では、回収後の空間が集会所として転用され、住民が“掃いた場所”を記念碑のように覚えていたという証言も残る[11]。
運用と技術[編集]
の運用は、単なる放置ではなく、いくつかの“作法”に支えられていたとされる。まず時間管理として、日没後の投棄は避け、夕刻の湿度が「七十から七十三パーセント」の範囲にあるときだけ掃くべきだとされた記録がある[12]。この湿度は測定器の誤差も織り込む前提だったとされるが、実務者はなぜか湿度だけは守る傾向があったらしい。
次に、方向管理である。掃き溜めを作る際、風下へ寄せるのではなく、風上側を“仮置き”として一度溜め、そこから最終堆積へ移す手順が推奨されたとされる[13]。理由は臭気の拡散を抑えるためと説明されるが、実際には後で回収する人が視認しやすいように、照り返しの角度を揃える目的があったとする説もある。
また、資源化の観点から、堆積中の“混ぜ”の比率が語られている。『市中屑混合法』では、紙片に対して木片を「三対二」、残渣を「一対一・二」で混ぜると、再利用時の腐敗が最小化されると書かれている[14]。なお、この比率は再現性が低く、守った地域と守らなかった地域で“匂いの強さ”に違いが出たといわれるが、当時の測定は感覚評価で行われたともされる。
社会的影響[編集]
は衛生を語りながら、住民の生活リズムと経済行動を再編したとされる。たとえば、掃き溜めの“当番”が固定されると、住民は前日に食事残渣の処理を前倒しし、結果として市場の仕入れが変わったという証言がある[15]。
さらに、は掃き溜めを“情報の結節点”として利用した。回収車の来訪時刻が読めるようになると、転売の相場が形成され、路地の小規模な金融が発達したとも指摘されている。ある記録では、夜間の仕入れにより一晩で「貸借が十六件」、金額にして「銀三匁の利息が付いた」とされる[16]。
一方で、負の影響もあったとされる。掃き溜めが貴重な資源に変わるほど、人々は“惜しみなく集める”ようになり、清掃の名目で実際には私物の廃棄を混ぜ込む事例が増えたとされる[17]。そのため、当局はのちに「掃き溜めを作るな」ではなく「掃き溜めを純化せよ」という奇妙な方針を掲げたが、現場では“純化の基準”が曖昧で反発が起きたとも伝わっている。
批判と論争[編集]
批判の中心は、が衛生対策として機能したのか、それとも資源転売のための見えないインフラだったのかという点にある。都市史研究では、掃き溜めが臭気を抑える効果を持ったという説がある一方、当時の住民の証言からは「臭気が消えたというより、臭気の責任が移った」という見方が紹介されている[18]。
また、昭和期の行政文書では、掃き溜めの周辺で体調不良が増えたとの報告があるとされる。ただし、その文書の引用元が『見廻り記』という私家記録であり、一次資料として扱うには慎重さが求められるとされる[19]。そのため、論争は今も整理されていない。
加えて、最も奇妙な論点として「掃き溜めを小さく作ると火災リスクが下がる」という主張があったとされる。根拠として、ある衛生指導員が“匂いが弱いほど火が出ない”と口述したという逸話が流通しているが、統計的な裏づけは不明である[20]。それでも、現場ではなぜかこの口述が広まり、堆積量の見た目を極端に小さくする傾向が生まれたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 伊藤尚武『市中掃集規約の研究』東京清掃協会, 1932.
- ^ 渡辺精一郎『路地の経理と屑』国勢印刷所, 1911.
- ^ 松平嘉義『臭気管理の経験則』衛生出版社, 1926.
- ^ Hirose, M. & Thornton, M. A. “Odor Accounting in Urban Alleys: A Comparative Note,” Vol. 4, No. 2, Journal of Municipal Practices, 1938, pp. 11-29.
- ^ Schmidt, R. “Waste as Information Infrastructure,” Vol. 12, No. 1, Urban Sociology Review, 1941, pp. 201-233.
- ^ 佐伯千里『河川敷の夜と資源の数え方』民間文庫, 1957.
- ^ 『浅草掃集帳』町方組合編, pp. 37-42, 1808.
- ^ 『市中屑混合法(増補)』第2巻第3号, 屑化学研究会, 1929.
- ^ 田中律子『清掃が変えた市場の時間』東京府立大学出版部, 1974.
- ^ Kobayashi, R. “The Myth of Hygiene Squares,” Vol. 9, No. 4, The Journal of Street Histories, 1981, pp. 77-95.
- ^ 『見廻り記(影印)』衛生局資料刊行会, 1939.
- ^ 小林武彦『臭い畔の民俗学』青天社, 1995.
外部リンク
- 掃集規約アーカイブ
- 夜廻り溜観測記録館
- 屑混成率データベース
- 衛生掛文書検索
- 市中屑史ミュージアム