ゴリオチン
| 氏名 | 五里尾 資千 |
|---|---|
| ふりがな | ごりお すけち |
| 生年月日 | 1898年4月12日 |
| 出生地 | 長野県下伊那郡阿南村 |
| 没年月日 | 1971年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗測量家、地誌学者、講師 |
| 活動期間 | 1921年 - 1964年 |
| 主な業績 | ゴリオチン理論の提唱、山間部距離補正表の作成 |
| 受賞歴 | 地方地理学会奨励章(1958年) |
五里尾 資千(ごりお すけち、【1898年】 - 【1971年】)は、の民俗測量家、地誌学者である。山村における「距離の誤差」を芸術的に扱った理論の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
ゴリオチンは、初期から戦後にかけて活動したの民俗測量家、五里尾資千を中心に形成された距離補正思想である。一般には学術用語として扱われることが多いが、のちに本人の講演録や山村の聞き書きが混同され、人物名そのものを指す呼称として定着したとされる[2]。
この名称は、の方言で「五里ほど行ってもまだ着かない」状態を意味する「ごりおち」の言い回しに、五里尾の姓が重なって生じたとされる。なお、同郷の研究者の間では、彼が系の測量法に反発して独自の補正式を編み出したことが、後年の神秘化に拍車をかけたとの指摘がある。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
五里尾資千は、の山間部にある阿南村の旧家に生まれた。家は代々、林業と炭焼きを営んでいたが、彼自身は幼少期から里と里のあいだの「歩行時間の差」に強い関心を示し、隣村までの実測距離と体感距離が一致しないことを不思議がっていたという。
には村の小学校で、教員が黒板に書いた「一里」を見て、実際の山道では三十分で済むこともあれば二時間かかることもあると主張し、すでに周囲を困惑させていた。後年、これがゴリオチンの原型となる「歩程不一致ノート」の第一頁であったと伝えられている。
青年期[編集]
、資千はの師範学校予科に進み、その後、地理教育の補助講習でに触れた。そこで彼はから派遣された臨時講師・矢野泰次郎に師事し、当時普及しつつあったの読み方を学んだが、すぐに「図面の直線が、現実の峠道を説明していない」と不満を漏らしたという[3]。
の大水害の際、資千は被災地の通行可否を記録する任務に就き、徒歩での迂回時間を「実距離の3.7倍から8.2倍まで揺れる」として一覧化した。この記録が地元紙『信州時報』に小さく掲載され、彼の名は一部の教育関係者に知られるようになった。
活動期[編集]
、資千はで開かれた地方地理研究会において「山道は距離ではなく、気配によって伸縮する」と題する講演を行い、そこで初めて「ゴリオチン補正」の語を用いたとされる。聴衆は半数が沈黙し、残り半数は笑ったが、の地誌編纂担当者だけが熱心にメモを取っていたという。
には、系の地方実測委員会から依頼を受け、との山村18か所を対象に「通行困難時の心理的距離」を調査した。彼は峠ごとに風速、ぬかるみ率、案内標識の有無、茶屋の数を点数化し、最終的に「徒歩五里を精神二十三里」と換算する独自式を発表したが、数理部門からは「整っているが使えない」と評された[4]。
戦時下には資材統制の影響で調査が中断されたものの、にの村役場が彼の補正表を採用し、郵便配達の遅延見積もりに用いたことで、実務家のあいだでのみ密かな支持を得た。なお、資千はこの時期、の前身組織の文書係に「道路が細い地域ほど距離は増える」と進言したが、ほとんど黙殺されたとされる。
晩年と死去[編集]
、資千は地方地理学会奨励章を受けた。受賞理由は「山村における移動感覚の実測を、統計と民俗の両面から継続したこと」であったが、授与式の講評では司会者が三度も「民俗測量」という語を言い間違え、会場が妙に盛り上がったという。
晩年は内の簡素なアパートで暮らし、近隣の子どもたちに「坂は見た目の1.4倍の努力を要する」と教えていた。11月3日、で死去した。死後、書斎からは未完の『ゴリオチン改訂第七表』が見つかり、最後の欄には「この数値は雨の日に限り有効」とだけ書かれていた[5]。
人物[編集]
資千は頑固で寡黙な人物として知られる一方、子ども相手には妙に饒舌で、山道の曲がり角ごとに由来不明の逸話を付け足す癖があった。彼の弟子によれば、徒歩で移動する際には常に木の枝を一本持ち、道の傾斜ではなく「気分の傾斜」を測っていたという。
また、会話の冒頭で必ず「この村の道は、地図より先に意志が曲がる」と言ったため、役場の職員からは半ば迷惑人物として扱われた。ただし、悪路の多い地域では彼の補正表が実際に役立ったため、評価は極端に割れた。
逸話として有名なのは、にの峠道を調査中、同行者が「ここまでで何里か」と尋ねた際、資千が「まだ道半ばの前半である」と答えたことである。後年、この答えはゴリオチンの核心を最も端的に示す名言として、地理学会の非公式なスローガンになった。
業績・作品[編集]
ゴリオチン理論[編集]
ゴリオチン理論は、山間部や積雪地帯において、ではなく「実際に進めるまでの気象的・心理的負担」を補正して地図を読むための考え方である。資千はこれを「人間の脚力は一定ではなく、道によって政治的に変質する」と説明し、距離を三層に分けた。
第一層は実測距離、第二層は徒歩換算距離、第三層は「諦念距離」である。とくに第三層は測定不能とされ、外部の研究者からは最も怪しまれたが、山村の実務では案外よく当たるとされた。
山間部距離補正表[編集]
に刊行された『山間部距離補正表・初版』は、村落間の移動時間を天候、勾配、茶屋、橋の数によって数値化した手引書である。全48頁の薄い冊子であったが、巻末の付録だけがやけに分厚く、そこに「雨後のぬかるみは二里を四里に見せる」といった実用句が並んでいた。
一部の教育委員会では遠足計画に使われたという。もっとも、校外学習で児童が「地図上では近いのに遠い」と訴えるたびに補正表が参照され、結局バスを増便しただけだったとの記録もある。
講演活動と普及[編集]
資千は、、などで講演を行い、各地の郷土史家と討論を重ねた。特にのでの講演では、商店街のアーケード下でも距離感が変わるという独自の補論を披露し、聴衆の一部がメモではなく笑い声を残した。
彼の講演録は、のちにの内部研修資料として再利用され、道路計画、集落案内板、非常時避難経路の説明文にまで影響したとされる。なお、の旧資料室に、彼の補正式を「参考意見」として綴じたファイルが存在するというが、真偽は確認されていない。
後世の評価[編集]
ゴリオチンは、学術的には「測量学と民俗学の境界に出現した例外的な思考」と評価される一方、実務的には「地図を信じすぎないための警句」として生き残った。とくに以降、の交通研究や観光案内の文言に、彼の影響を思わせる表現が断続的に見られる。
批判としては、数式の精密さに比して検証手段がきわめて曖昧であること、また「諦念距離」の定義が毎回変わることが挙げられる。ただし、山岳地域の住民からは「正確ではないが、気持ちは合っている」として妙に愛され、にはの有志によって小規模な顕彰碑が建てられた。碑文には「ここから先、道は思想である」と刻まれている。
系譜・家族[編集]
五里尾家は末期から山林管理を生業とした一族で、祖父・五里尾久左衛門は山道の見張り役であったと伝えられる。父・五里尾庄七は炭焼きと荷運びを兼業し、母・たみは村の道順を暗記する名人で、資千の「距離感覚」は母方から継いだとされる。
妻はに結婚した五里尾ハルで、の郵便局に勤めていた。二人のあいだには長男・正彦、次女・澄子が生まれ、正彦はのちに役場の土木係となって父の理論を半分だけ実務に取り入れた。なお、孫の代になると家族はほとんど都市部へ移り、補正表の原本だけが仏間に残されたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 五十嵐達也『山村距離論の系譜』地方地理研究社, 1962年.
- ^ 矢野泰次郎『歩程不一致ノートと民俗測量』信州学術出版, 1939年.
- ^ H. Thornton, “The Goriocin Correction and Rural Topography,” Journal of Japanese Folkloric Geography, Vol. 7, No. 2, pp. 41-68, 1959.
- ^ 中村たかし『補正表の社会史』東京地誌叢書, 1974年.
- ^ G. Miller, “Walking, Weather, and the Psychology of Distance,” Proceedings of the Far Eastern Survey Society, Vol. 12, pp. 103-129, 1968.
- ^ 長野県地方史編纂委員会『阿南村の道とことば』長野県史料刊行会, 1981年.
- ^ 田所義一『山道はどれだけ伸びるか——諦念距離試論』地域交通研究, 第3巻第1号, pp. 5-22, 1992年.
- ^ 五里尾資千『山間部距離補正表・初版』私家版, 1937年.
- ^ K. Sato, “A Note on the Misleading Exactness of Goriocin,” Review of Rural Metrics, Vol. 4, No. 1, pp. 1-19, 1976.
- ^ 信州地理学会編『講演録 ゴリオチン再考』信州地理学会, 2004年.
外部リンク
- 信州地誌アーカイブ
- 地方測量史研究会
- 山村交通文化資料室
- 阿南村郷土デジタル館
- 民俗測量フォーラム