スカイウォーク
| 名称 | スカイウォーク |
|---|---|
| 英語名 | Skywalk |
| 分類 | 高架歩廊、都市交通補助施設、観光動線 |
| 起源 | 1928年・東京空中動線研究会 |
| 初の恒久施設 | 芝白金連絡橋(1934年) |
| 主な利用都市 | 東京、札幌、香港、シアトル、シンガポール |
| 所管 | 内務省都市高層移動局(後の国土移動庁) |
| 象徴色 | 鉛白と空青 |
スカイウォーク(英: Skywalk)は、都市上空に設けられた高架歩廊およびそれを核に発展した移動文化の総称である。にで初めて制度化されたとされ、のちにの空中回廊計画を通じて国際的に知られるようになった[1]。
概要[編集]
スカイウォークは、地上の歩行者動線を建築物の二階層以上に持ち上げることで、車両交通との交差を避けることを目的として整備された高架歩廊である。一般には単なる橋状通路を指すが、日本の都市史では、末期から初期にかけて生まれた「空を歩く」という生活思想まで含めて呼ばれることがある[2]。
この概念は、のにおける交通渋滞対策から生まれたとされるが、実際には百貨店の屋上遊園地を結ぶための商業導線が先行したとも言われる。後年、、、の前身組織などが関与し、空中回廊は防災・観光・広告を兼ねる多目的施設へと変化した[3]。
成立の経緯[編集]
最初の構想は、東京市都市計画課の嘱託技師であったが提出した「高所歩行線試案」に遡るとされる。渡辺は、路面電車の軌道敷設により歩行者が横断困難になったで、建物間を高さ4.8メートルの通路で連結する案を示し、これが当時の新聞で「空中の廊下」として報じられた[4]。
ただし、同案は技術的というよりは儀礼的要請に応えるものであったともされる。すなわち、当時の政財界では「地上は庶民、上層は来賓」という空間分離の美学が流行しており、スカイウォークはその延長として採用されたのである。なお、初期計画書には「雨天時に靴底が鳴りにくい床材を優先すること」との記述があり、これが後のゴム系舗装研究を促したという[5]。
歴史[編集]
黎明期[編集]
に完成した芝白金連絡橋は、全長68メートル、幅2.1メートル、耐荷重1平方メートルあたり480キログラムとされる初の恒久施設である。利用者数は開業初月だけで延べ12万4,000人に達したとされ、近隣の喫茶店が「空中客向けモーニング」を始めたことが記録されている[6]。
当時の利用案内には、強風時は「片手を帽子に添え、もう一方の手で時刻表を握ること」と書かれていた。これは実用上の注意というより、都市の近代性を演出するための文言であったとする説が有力である。
拡張と標準化[編集]
には、の駅舎改築と歩行者デッキ整備が結びつき、スカイウォークは駅ビル文化の一部になった。とくにでは、1961年の「副都心空中動線条例」により、駅西口から百貨店屋上、ホテル会議室までを連結する全長1.9キロメートルの連絡網が構築された[7]。
この時期、は通路幅、手すり高さ、雨水排水勾配、鳩の滞留率まで含む「空中歩廊標準仕様書」をまとめたとされる。もっとも、鳩の滞留率が導入された理由は、ある委員が「鳩が多い場所ほど利用者が写真を撮るためである」と主張したことに由来するという。
観光化と輸出[編集]
以降、スカイウォークは交通施設から観光装置へと性格を変えた。では万博後の都市再開発に合わせて透明床材が試験導入され、では高層ビル群を結ぶ空中通路が「雲上回廊」として売り出された[8]。
さらに、市の港湾地区で建設された海上展望型スカイウォークが雑誌『Urban Transit Monthly』で紹介され、以後、英語圏でもSkywalkという語が「歩くことで景色を消費する装置」を意味するようになったとされる。なお、この再定義を行った編集者は、後に観光ポスターのコピーライターに転身したと伝えられる。
設計思想[編集]
スカイウォークの設計思想は、単に高い場所を歩かせることではない。むしろ、地上の混沌から一段離れた場所に「都市を眺めるための速度」を作ることにあったとされる。歩行速度は分速62〜74メートルが想定され、これはちょうど信号待ちの苛立ちが風景鑑賞に転化する速度だと都市工学者は説明したという[9]。
また、初期の標準図面では手すりの高さが117センチメートル、床の目地幅が8ミリメートル、案内板の文字サイズが「遠くの広告塔より少しだけ読める」寸法に設定されていた。これにより、利用者は自分が安全な場所にいると同時に、都市の宣伝空間の中にいることを認識するよう設計されていたのである。
社会的影響[編集]
スカイウォークは歩行者の利便性を高めた一方で、都市の階層化を可視化した装置としても批判された。地上の商店街が「空中に客を奪われた」と反発した例は少なくなく、では1968年に「空中通路税」の導入をめぐる市民投票が行われ、賛成49.8%、反対49.7%、無効0.5%という極めて微妙な結果に終わったとされる[10]。
他方で、防災面では一定の評価がある。1987年の市内での大規模停電時、複数のスカイウォークが非常避難路として機能し、約3,200人が地上の冠水区域を避けて移動できたという。もっとも、この数字には近隣ホテルのブッフェ客が含まれていたとの指摘もある。
代表的な施設[編集]
代表例としては、の「芝白金連絡橋」、の「北一条雲廊」、の「栄上空歩道」、の「マリーナ・リング」、の「ベルタウン・ハーバースカイ」が挙げられる。いずれも本来は都市再編の補助施設であるが、現在では写真撮影のための滞留空間として認識されている[11]。
なかでも札幌の北一条雲廊は、降雪時に床面の水分が瞬時に凍結しやすいため、利用者が「空中スケート」と呼ぶ歩き方を編み出したことで知られる。市はこれを禁止する代わりに、冬季限定で床材の摩擦係数を掲示するようになった。
批判と論争[編集]
スカイウォークはしばしば「歩くための建築」か「見るための建築」かをめぐって論争になった。とくにの臨海部では、海景を優先して手すりを低くした結果、観光客が海に向かって身を乗り出す事例が相次ぎ、建築家と安全管理部局の対立が激化した[12]。
また、空中回廊の広告利用も問題化した。ある施設では床面に誘導矢印を兼ねた企業ロゴが敷設され、利用者が無意識に同じ会社の売店へ導かれる仕組みが採用されたため、「歩行者の自由意志をデザインした初の公共施設」として倫理学者の研究対象になった。なお、この論点は今日でもとして扱われることがある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『高所歩行線試案と帝都の視線政治』都市構造研究社, 1931年.
- ^ 高橋みさお『空中の廊下――戦前東京における歩行の再編』日本建築学会誌 Vol. 44, 第2号, 1959年, pp. 112-129.
- ^ Margaret A. Thornton, "Elevated Walkways and Civic Spectacle", Journal of Urban Mobility, Vol. 18, No. 4, 1972, pp. 201-233.
- ^ 佐伯俊夫『駅と空のあいだ――連絡通路の社会史』中央都市出版, 1984年.
- ^ Urban Planning Bureau, City of Seattle, "Skywalk Typology and Harbor Viewing Protocols", Municipal Studies Series, Vol. 7, No. 1, 1986, pp. 9-41.
- ^ 山口真理子『空中動線の観光化と消費行動』観光建築評論, 第12巻第3号, 1991年, pp. 55-76.
- ^ 国土移動庁監修『空中歩廊標準仕様書 第3版』技報堂, 1964年.
- ^ 伊藤澄江『鳩の滞留率と都市美学』景観工学雑誌 Vol. 21, 第6号, 1977年, pp. 88-95.
- ^ Jonathan R. Meyers, "The Ethics of Pedestrian Funnel Design", Public Space Review, Vol. 9, No. 2, 2003, pp. 44-67.
- ^ 『副都心空中動線条例資料集』新宿区都市史編纂室, 1962年.
- ^ 藤本鈴子『空中通路税をめぐる住民投票の分析』京都自治研究, 第8巻第1号, 1969年, pp. 3-19.
外部リンク
- 東京空中動線研究会アーカイブ
- 国土移動庁デジタル年表
- 都市高架歩廊保存協会
- 世界スカイウォーク連盟
- 港区建築資料室