スートロワ
| 分野 | 作曲・音楽史(18世紀) |
|---|---|
| 時代 | 1780年代〜1790年代頃 |
| 起源とされる地域 | オーストリア=ボヘミア方面(伝承) |
| 別称 | 匿名の宮廷音楽家/〈裏手の作曲家〉 |
| 代表作 | 特定されていない(「曲が無いのに有名」) |
| 評価 | 資料の少なさと影響の示唆から論争的 |
| 関連組織 | ウィーン市楽友会ほか(後世の記録) |
スートロワ(Sutroiva)は、18世紀後半のヨーロッパで伝えられたとされる「名もない作曲家」を指す呼称である。とりわけが一部の筆記において密かに言及していたとされ、今日では「幻の同時代ライバル」として語られている[1]。
概要[編集]
スートロワは、モーツァルトと同時代に活動したとされる作曲家名(または別名)であるが、現存譜が極端に少ないことで知られている。
同時代の「有名な曲」が確認されていないにもかかわらず、後世の研究者の間では、モーツァルトの創作姿勢や筆致に間接的な影響があったのではないかと推定される。とりわけ、モーツァルトがウィーンでの社交的な演奏会に出向く際の「手帳」の欄外に、短い暗号のような表記が残っていると指摘されることがある[2]。
一方で、スートロワなる人物を実在の個人として扱うことには慎重論も多い。これは、当時の宮廷文書が「演奏会の献呈者」を実名ではなく職位や役割で記す傾向を持っていたためであるとされる[3]。ただし、結果として“曲が無いのにライバルがいた”という物語が強く定着した点は、音楽史の語り口として特徴的である。
語の成立と定義の揺れ[編集]
言語学的見立て[編集]
「スートロワ」は、複数の方言記録を照合すると「—ろわ」語尾がカーテンコールの掛け声に似ているとして説明されることがある。たとえば、モラヴィア方言の歌謡採譜では「Sut—」に類似した音価が“楽章の区切り”を示す合図として扱われていた、という仮説が提示されている[4]。
ただし、この仮説は音韻の一致に強く依存しており、決定打に欠けるとされる。そこで別の説として、「スートロワ」が実は“宮廷の裏方が使った内輪の符牒”であり、作曲家本人の姓ではない可能性が提案されている。すなわち「曲を出さないことで名を残した人物」という方向性が、語の成立にも反映されたと考える見方である[5]。
資料上の定義(誰が何を根拠に呼んだか)[編集]
スートロワという名称が、最初にまとまって確認されるのは、ウィーンのに保管された「請求書綴り」の裏表紙であると報告されている[6]。そこでは「作者不詳の室内作曲(但し、手配はスートロワ)」のような記述が見られたとする。
もっとも、この綴りは“後年に再製本された可能性”があるため、一次資料としての信頼性は揺れている。とはいえ、同会が当時の会員に配布したという短い通知文に、同じ表記が再登場することから、少なくとも“何らかの呼称が流通していた”こと自体は否定されにくいとされる[7]。
歴史[編集]
同時代ライバル譚の発生(モーツァルトの「沈黙」)[編集]
スートロワが“モーツァルトの密かなライバル”として語られ始めた経緯は、1780年代のウィーンの演奏会事情に結び付けて説明されることが多い。
当時、周辺の夜会は、演奏者の出入りが複雑で、楽譜が客席から見えにくい配置が好まれたとされる。そこで、作曲家が自作品を前面に押し出す代わりに、別名義で“指揮者にだけ渡る指示書”を用いる慣行が生まれたのだと推測される[8]。
この慣行に、スートロワの物語が結び付いたと説明される。すなわち、スートロワは“客席に届かない形で作品を存在させた”ために、後世の編者が作品名を確認できなかった、という筋書きである[9]。
「曲が無いのに有名」になるまで(細部の積み上げ)[編集]
決定的な逸話として、モーツァルトがから取り寄せたとされるメトロノームの分解記録が引用されることがある。そこには歯車の番号が「17」「23」「31」のように素っ気なく刻まれ、最後のページだけ“指揮のための合図”を思わせる短句が書き込まれていた、とされる[10]。
研究者の一部は、その短句が「スートロワ」と同音の反転表記であるとして、両者が互いのテンポ感を競っていた証拠とみなした。さらに、当時の楽譜用紙が「1枚あたり厚み2.1ミリ(平均)」で統一されていたにもかかわらず、例外的に1枚だけ1.9ミリのものが混入していた点が、スートロワの“手配ルート”を示す手がかりだと論じられることがある[11]。
ただし、ここでの数値は記録の転記過程で誤差が入りうるとして、反対論も存在する。とはいえ“細部が異様に正確に見える”という性質は、ライバル譚を補強する方向に働いたとされる。つまり、作品名がなくても、痕跡だけは整然と残るよう設計されていたのではないか、という後付けの物語へと発展したのである[12]。
社会的影響[編集]
スートロワの影響は、作品の受容よりも「競争の作法」に現れたと説明されることが多い。すなわち、誰も曲名を言えないのに、誰もが“あの書き方”を真似したがった、という状況である。
具体例として、各地の音楽塾では、門下生に「スートロワ式:前半で主題を露出させず、2回目の合奏でだけ鍵盤の高音を鳴らす」課題が出されたと伝えられる[13]。ただし、この課題の存在を示す現物は乏しく、塾の会計帳簿に「鍵盤用の追加線材 14束(1787年)」「夜会出席手当 9ターラー(同年)」のような費目だけが残っている、と報告されている[14]。
このような“曲ではなく技法が流通する”現象は、のちの19世紀に入ってからも「作者が見えない創作」という言説を呼び込み、匿名性や共同編集の価値が評価される風潮に寄与したとされる。一方で、スートロワという名が独り歩きすることで、作曲家の責任と評価が曖昧になった、という批判につながったとも指摘される[15]。
批判と論争[編集]
スートロワを実在の個人とみなすか否かは、今日でも完全には決着していない。特に批判の中心は「モーツァルトの言及」が、後年の編集者による脚色ではないかという点にある。
と名乗る編纂者が、モーツァルトの手帳を“読みやすい順”に並べ替えた痕跡があるとする報告が存在する。また、並べ替えの際に欄外の暗号が「スートロワ」と読める位置へ移されたのではないか、という疑いも提起されている[16]。
さらに、「ウィーン市楽友会」の通知文についても、後年の会員名簿との整合性が弱いとして、信頼度が下がった例があるとされる。とはいえ、信頼度の低い文書であっても“物語が成立する程度の情報”が揃っていることから、スートロワ像は完全否定されず、むしろ“確かめようのないライバル”として温存されたと見る向きもある[17]。この点が、嘘っぽいのにリアリティがあると感じられる最大の理由であるとも言われる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Ludwig Freistetter「『欄外暗号』とモーツァルト周辺の呼称体系」『ウィーン音楽史評論』第41巻第2号, 2012, pp. 77-112.
- ^ Martha A. Thornton「Anonymous Competition in Late-18th-Century Vienna」『Journal of Early Modern Music』Vol. 18, No. 3, 2019, pp. 201-248.
- ^ 安藤清隆「“曲が無い”作曲家名の社会学」『音楽文化研究』第9号, 2006, pp. 33-58.
- ^ Émile Charpentier「La pratique des indications cachées au concert」『Revue de Critique Musicale』Vol. 62, No. 1, 2008, pp. 1-29.
- ^ Karl Böhm「ウィーン市楽友会綴りの再編手順(未公刊資料)」『アーカイブ編集年報』第3巻第1号, 1977, pp. 10-22.
- ^ 田中眞理「メトロノーム分解記録から読むテンポ競争」『器楽制作史研究』第15巻第4号, 2015, pp. 145-190.
- ^ Sofia Lindström「Paper Thickness Standards and Circumstantial Attribution」『Materials & Music Studies』Vol. 7, No. 2, 2021, pp. 55-90.
- ^ Gunnar Holm「Viennese Night-Assembly Economics and Commissioning」『International Review of Performance Accounting』Vol. 24, No. 2, 2016, pp. 99-134.
- ^ Régis Delaporte「Sutroiva and the Myth of the Unheard Rival」『Theoretical Sound Archive Letters』第2巻第6号, 2020, pp. 301-319.
- ^ (誤植を含む)Clara M. Duvall『Mozart’s Silence: A Documentary Misreading』Aster & Co., 2011.
外部リンク
- Sutroiva研究アーカイブ
- ウィーン市楽友会デジタル綴り
- 欄外暗号コレクション
- 宮廷夜会台帳の部屋
- 匿名作曲家索引