ズルムングゥ寺院
| 正式名称 | ズルムングゥ寺院 |
|---|---|
| 宗派 | 東密系の変種密教 |
| 山号 | 霧返し山 |
| 創建 | 1298年頃 |
| 開基 | 行円(ぎょうえん) |
| 所在地 | 京都府京都市右京区一帯と推定 |
| 主要遺構 | 反転石畳、二重鐘楼、螺旋井戸 |
| 焼失 | 1704年の火災で失われたとされる |
| 別称 | ズル寺、無音堂 |
ズルムングゥ寺院(ズルムングゥじいん)は、の寺院史料に断片的に名を残す、末期成立とされる系の秘儀施設である。現存は確認されていないが、の絵巻や近世の旅行記にしばしば登場し、奇妙な鐘楼と「逆向きの石畳」で知られている[1]。
概要[編集]
ズルムングゥ寺院は、の山間部にあったとされる寺院で、実在の寺院というよりは、複数の・地誌・修験道系の口伝が混ざって形成された半伝説的な施設である。とくに「鐘を撞くと音が外へ出ず、先に境内の人の影が揺れる」という逸話で知られている。
寺名の由来については、の転訛とする説、あるいは末期に渡来した石工集団の符牒が寺号化したとする説があり、の古老の間では、雨の夜にだけ山門が現れるという話が昭和中期まで語られていた[2]。なお、寺域からは実物の発掘が行われていないにもかかわらず、の郷土研究家によって「瓦片十三枚の所在」が詳細に記録されている。
成立[編集]
行円による開創伝承[編集]
寺の開基とされる行円は、にで修行した後、の北縁に降り、飢饉時の炊き出しと祈雨を兼ねた小堂を建てたと伝えられる。『行円記』と呼ばれる写本では、彼が「鐘を鳴らす代わりに、鐘に風を入れる」という独特の作法を用いたとされ、これが後の無音鐘法の起源になったという。
ただし、『行円記』は中期の模写であることが判明しており、筆跡も三人分ほど混在しているため、史料としては慎重に扱われる。それでもの旧蔵目録には昭和初期まで載っていたため、学界では「完全な創作ではないが、完全な実録でもない」という便利な位置づけに置かれてきた。
建築と儀礼の特異性[編集]
ズルムングゥ寺院の最大の特徴は、参道が入口から本堂に向かってわずかに下り坂になっている点である。これは、参詣者に「登っていくのではなく、深く沈んでいく感覚」を与えるための設計とされ、の棟梁・がに導入したとされる。
また、境内中央の螺旋井戸は直径1.8メートル、深さ27メートルと記されるが、底に水脈はなく、代わりに年に一度だけ冷たい風が吹き上がるという。これにより、修法の際には香煙が井戸へ吸い込まれ、参列者の袂だけが先に湿るという現象が起きたとされる[3]。
歴史[編集]
中世から戦国期[編集]
には、寺は「山の奥の判じ物」として知られ、の頃に一度だけ公的な保護を受けたとする記録が残る。これは、寺僧が将軍家に対し、疫病流行を予見する「影札」を献上したためであるとされるが、影札の現物はの古物市で一度だけ目撃されたという証言しかない。
には、寺は兵站施設としても利用され、兵士の矢尻に刻印を入れる工房が併設されていたとされる。近年の研究では、境内から出たとされる鉄滓の重さが合計4.6貫である一方、寺の規模に比してやけに少ないことから、そもそも実在したとしても「武装した茶室」程度の規模だったのではないかという指摘もある。
江戸時代の再解釈[編集]
に入ると、ズルムングゥ寺院は修験者や旅人の怪談の舞台として定着した。とりわけ年間の地誌『洛北奇聞録』では、寺の鐘楼を三度見上げると、見上げた回数だけ自分の履物が片方ずつ増えると記されており、当時の町人文化において「不可解だが便利な寺」として人気を得た。
この時期、寺は近隣の寺院と香木の取引を行っていたという説があり、の大火で焼失した後も、香りだけが三日間残ったという話が広く流布した。なお、この火災については『京都町触集成』に該当記録が見つからないため、火事そのものが後世の脚色である可能性が高い。
近代以降の調査[編集]
後期から初期にかけて、郷土史家のと民俗学者のが相次いで現地踏査を行った。彼らは寺域とされる林地から礎石らしきものを12個採集し、そのうち3個に「逆向きの梵字」が刻まれていたと報告したが、のちに同じ形の石がの石材店でも販売されていたことが判明している。
それでもにはで「ズルムングゥ寺院展」が開催され、初日は来場者が2,314人に達した。会場では、再現された無音鐘が鳴らされるたびに照明が一瞬だけ暗転する演出が行われ、これが「史料展示なのに一番怖い」と評判になった。
伽藍と遺物[編集]
伝承上の伽藍配置は、山門、本堂、僧房、螺旋井戸、そして「聞き耳堂」の五区画で構成されていたとされる。聞き耳堂は、内部で発した言葉が一拍遅れて返るため、説法より謝罪に向いていたと記される。
遺物として有名なのは、長さ34センチの半月形木札と、縁に7つの孔が開いた青銅製の鈴である。木札には「ヌムグラ・イニ」と読める文字列があり、の旧調査票では「漢字ともインド系とも断定しがたい」とのみ記載されている。また、鈴についてはにアメリカ人宣教師が「風で鳴るのではなく、持つ人の汗で鳴る」と記したとされる[4]。
一方で、これらの遺物は現在いずれも所在不明であり、複数の収蔵庫の棚卸しからも一致する記号が見つかっていない。このため、寺そのものよりも遺物のほうが先に伝説化した可能性があると考えられている。
社会的影響[編集]
ズルムングゥ寺院は、周辺の民間信仰において「無音の祈り」の象徴として受容され、受験生や病人の家族が密かに絵馬を奉納する慣習を生んだ。とくに昭和40年代には、寺名を縮めた「ズル寺守り」が土産物として模造され、の露店で100円均一に売られたことがある。
また、寺の「逆向き石畳」は、後年の都市計画や観光案内において、迷いやすい路地の比喩としてしばしば引用された。『論文集』では、これを「歩行の反省を促す舗装」と評する研究が掲載されたが、同論文は本文よりも図版の方が明らかに楽しそうである。
なお、にはの地域番組で特集が組まれ、寺域推定地を案内した地元保存会会長が「ここが本堂跡だと思うが、夏草が強すぎて何も見えない」とコメントした。この発言がきっかけで、夏の雑草管理だけが異様に熱心になったという。
批判と論争[編集]
ズルムングゥ寺院については、そもそも寺院としての実在性が疑問視されてきた。とりわけの民俗学会シンポジウムでは、のが「寺というより、複数の山伏宿と香木商の倉が一つの物語に合成されたものではないか」と指摘し、会場がやや静まり返った。
これに対して、地元保存団体は「伝承の整合性こそ遺産である」と反論し、保存対象を建物ではなく語りそのものに広げる運動を開始した。しかし、その活動記録には、参加者数が年によって18人から173人まで乱高下しており、手書き名簿の筆跡が四種類あるため、後年になってからは補助金申請のための盛りすぎではないかとの疑いも生じた。
また、寺名の「ズル」が俗語の「ずるい」と関係するのではないかという説も流布したが、言語学的根拠は薄い。ただし、古い瓦版に「ずるむんぐう、音なく徳を取る」とあるため、完全否定もされていない[5]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小野寺定次郎『洛北山間寺院調査録』京都郷土史刊行会, 1932.
- ^ 高瀬瑞枝『山の寺の音と沈黙』民俗学研究社, 1941.
- ^ 平岡雅人「ズルムングゥ寺院伝承における空間反転の構造」『民俗と建築』Vol. 18, No. 2, 1997, pp. 41-68.
- ^ Charles H. Wentworth, "The Bell That Rattled with Sweat," Journal of Oriental Curiosities, Vol. 4, No. 1, 1892, pp. 9-17.
- ^ 京都府立総合資料館編『ズルムングゥ寺院展図録』京都府立総合資料館, 1978.
- ^ 藤原実綱『山門作事覚書』写本影印版, 1968.
- ^ 日本建築学会編『歩行の反省を促す舗装に関する研究』日本建築学会, 2003.
- ^ 渡辺精一郎「影札の筆跡鑑定に関する一考察」『京都史料通信』第12巻第7号, 1959, pp. 113-129.
- ^ Margaret A. Thornton, "Negative Chimes in Medieval Temple Culture," The East Asian Antiquarian Review, Vol. 11, No. 3, 2001, pp. 201-224.
- ^ 京都市右京区保存会『寺名だけが残った場所』地域文化資料室, 2015.
外部リンク
- 京都山間伝承アーカイブ
- 古寺怪談データベース
- 右京区民俗地図帳
- 無音鐘法研究会
- 寺域推定地写真集