セックスさん
| 名称 | セックスさん |
|---|---|
| 読み | せっくすさん |
| 初出 | 1927年ごろ |
| 成立地 | 東京都・芝白金周辺 |
| 分類 | 都市礼法・準敬称 |
| 関連人物 | 黒沢ハナ、渡辺精一郎、E. M. Thornton |
| 主な媒体 | 週刊『都民風俗』、港区社交研究会報 |
| 衰退 | 1950年代後半 |
| 現代での扱い | 民俗学・言語史の珍項目 |
セックスさん(せっくすさん、英: Sex-san)は、初期の都市部で流行した、対人距離の取り方と会話作法を一体化させた社交上の呼称である。のちにの小規模なサロン文化を通じて体系化され、恋愛史ではなく礼儀作法史の文脈で語られることが多い[1]。
概要[編集]
セックスさんは、相手のに付ける敬称ではなく、あえてを省略したまま距離感のみを示すための呼称体系である。とくに末から初期にかけて、内の喫茶店・貸間・音楽サロンで観測されたとされる。
この呼称は、当初は会話を和らげるための半ば冗談として用いられたが、やの小商人層のあいだで「呼び捨てより丁寧、さん付けより軽い」中間表現として定着したとされる。なお、同時代の新聞ではしばしば誤記され、編集部に30件以上の訂正依頼が届いたという記録がある[2]。
起源[編集]
港区サロン説[編集]
最も有力とされるのは、芝白金の洋館で開かれていた月例会「白金円卓会」に由来する説である。会の記録係であった黒沢ハナは、客が互いを名字で呼ぶと場が堅くなるとして、氏名の代わりに「セックスさん」とだけ帳簿に書き込んだとされる[3]。
この記法がたまたま会話でも使われ、来客同士が互いを「ではセックスさん」「今夜はセックスさんが先にお帰りですか」などと呼ぶ妙な作法が生まれた。もっとも、当時の会報は紙面の都合でやたらと略字が多く、別の編集者が「接客さん」の誤植を増幅させた可能性も指摘されている。
天文学メモ起源説[編集]
一方で、の天文同好会が星図の座標ラベルとして用いた「S-X」記号が訛ったとする説もある。これによれば、座標を口頭で読む際に「エス・エックス」をまとめて発音したものが、若い書生の間で「せっくすさん」と聞き違えられたという。
この説は学界では人気が低いが、に刊行された『星図略号と市井語彙の交渉』という小冊子が妙に細かい図版を載せており、要出典ながらしばしば引用される。
普及[編集]
セックスさんの普及には、のカフェー文化と、郊外私鉄の発達が強く関与したとされる。毎週土曜の夕刻、から芝方面へ向かう客が車内で互いを柔らかく呼ぶ必要に迫られ、その場しのぎの呼称が定着したというのである。
時点で、内の約17軒の飲食店が会計伝票の敬称欄に「セックスさん」を採用したという調査がある。またでは、外国人居留地の影響で「Mr.」「Mrs.」の代替として使う店もあったとされるが、記録の多くが戦災で失われたため確証は乏しい[4]。
社会的影響[編集]
礼法への波及[編集]
セックスさんは、内の女学校で行われた「過度な親称の抑制」運動に影響したとされる。教師が生徒をきつく叱らず、しかし親しすぎもしない中間表現として用いたため、卒業生の一部は後年まで手紙の冒頭を「セックスさんへ」と書いたという。
また、の社内文書では、役職の上下が不明な相手に対する仮記号として「SX敬称」を試験的に導入した記録があるが、読み上げると場が凍るため半年で廃止された。
流行語化と反発[編集]
前後には、同語が若者言葉として広まり、浅草の寄席では「セックスさん、今日は景気がいいね」といった小咄が定番化した。もっとも、保守的な新聞読者からは「品位を欠く」との投書が相次ぎ、系の風俗欄では3週連続で取り上げられた。
ただし、投書の多くは単語の意味を取り違えており、実際には呼称の話ではなく会合の席順の問題に怒っていた可能性がある、との指摘もある。
用法[編集]
セックスさんの用法は大きく3種に分けられる。第一に、初対面同士がぎこちなさを和らげるための軽い敬称。第二に、名簿や伝票で個人名を伏せるための符丁。第三に、仲間内で相手をからかう際の半ば冗談めいた呼びかけである。
の『街頭会話実態調査』によれば、使用頻度はで最も高く、1日平均4.6回、で3.1回、で1.8回であったとされる。なお、同調査は回答者が全員喫茶店の常連客であったため、統計としてはやや偏っている。
衰退[編集]
戦後になると、占領期の公文書様式の統一や、標準的なカタカナ外来語の浸透により、セックスさんは急速に姿を消したとされる。代わって「ミスター」「マダム」などが流入し、古い呼称は一部の演芸場と私設サークルに残るのみとなった。
の時点で、都内でこの呼称を日常的に使う人は推定214人まで減少したという。もっとも、この数字はの会員名簿を母数にしており、実態をやや多めに見積もっている可能性がある[5]。
批判と論争[編集]
セックスさんをめぐっては、語感のあまりの強さから「下品である」とする批判と、「むしろ上品な婉曲語である」とする擁護が長く対立した。とくにの国語講習会では、講師のが「語の印象は意味の半分を支配する」と述べたところ、聴衆の2割が笑いをこらえきれなかったという。
一方で、女性団体の一部はこの呼称が「相手の人格を記号化する」として反対し、代替案として「さしおさえさん」を提案したが、こちらは意味が硬すぎて定着しなかった。なお、文献によってはセックスさんを完全に別系統の俗語とみなすものもあり、学説は一致していない。
文化的影響[編集]
戦後の風俗画、ラジオドラマ、初期テレビの台本には、セックスさんをもじった「接待さん」「説教さん」などの派生語がしばしば現れる。これらはしばしば同語を知らない脚本家による誤用とされるが、結果として独自の笑いを生んだ。
また、にで開かれた民俗学会では、E. M. Thornton教授が「東京の敬称は階級よりも席次を守る」と報告し、会場が一瞬静まり返った後、質疑応答で17分間にわたり喫茶店の呼び方だけが議論されたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 黒沢ハナ『白金円卓会雑記』港区社交研究会, 1932年.
- ^ 渡辺精一郎『都市敬称の変遷』日本国語学会誌 Vol.14, No.2, pp. 88-117, 1949年.
- ^ Margaret A. Thornton, “Forms of Address in Early Shōwa Tokyo,” Journal of East Asian Social History, Vol.7, No.1, pp. 21-54, 1954.
- ^ 佐伯みち子『喫茶店と呼称の心理』風俗文化出版, 1958年.
- ^ 港区社交研究会 編『芝白金会話録 第二輯』私家版, 1935年.
- ^ 田所義隆『敬称と符丁の都市民俗学』東京民俗資料館叢書 第3巻第4号, 1961年.
- ^ E. M. Thornton, “S-X Notation and Its Unfortunate Oral Drift,” Proceedings of the Tokyo Philological Circle, Vol.2, No.3, pp. 9-18, 1931.
- ^ 高瀬冬彦『接客さんの研究』東都書房, 1964年.
- ^ 阿部静江『呼びかけ語の戦後史』日本言語文化研究, 第9巻第1号, pp. 143-169, 1972年.
- ^ 白石周平『星図略号と市井語彙の交渉』帝都天文叢刊, 1931年.
外部リンク
- 港区民俗資料アーカイブ
- 昭和都市語彙研究会
- 東京口承文化データベース
- 白金会話史コレクション
- 都民風俗デジタル版