タナキクマル
| 別名 | 田中菊丸法、三環潮暦 |
|---|---|
| 起源 | 後期の |
| 分類 | 民俗工学、暦法、漁業儀礼 |
| 主な使用地域 | ・沿岸、のち下町 |
| 基本原理 | 3つの円環と1本の割付紐で潮の偏差を読む |
| 考案者 | 田中菊丸とされるが異説も多い |
| 現況 | 一部の保存会で継承 |
| 関連器具 | 菊丸輪、潮見針、木製割台 |
タナキクマルは、の漁村に起源を持つとされる、三層の円環を用いてとを同期させるための民俗的測定法である。後にの沿岸部で儀礼化され、中期には都市の市場設計にも応用されたとされる[1]。
概要[編集]
タナキクマルは、三つの木製円環を重ね、その重なり具合によって・・の整合を判定する方法であるとされる。現代では一種の奇習として紹介されることが多いが、沿岸の商習慣や漁具の割付制度に影響したという伝承が残る。
名称は、伝承上の考案者であるに由来すると説明されるが、実際には「田」「菊」「丸」の三語がそれぞれ・・を象徴する符牒であったとする説もある。なお、所蔵とされる写本には「タナキクマル」を「棚菊丸」と記した箇所があり、研究者の間で異読が続いている[2]。
起源[編集]
三陸沿岸の伝承[編集]
最古の起源譚では、年間にの小漁村で大規模な不漁が続き、村の帳付け役であった田中菊丸が、浜に流れ着いた樽材から円環を削り出したとされる。これをの神事に用いたところ、翌月のイワシ漁が平年比で17%改善したため、村人が儀礼と実務を兼ねた道具として受け入れたという。
ただし、この17%という数値は後世の記録にのみ現れ、当時の村帳には「魚多し」としか書かれていないため、近代の民俗学者の補完である可能性が高いと指摘されている[3]。
田中菊丸の人物像[編集]
田中菊丸は、末から初年にかけて活動したとされるが、同時代史料には「菊丸」と名のつく人物が4人確認され、いずれが本人かは定かではない。とくにの古文書では、彼を「算木と縄を嫌い、貝殻と炭で日計を立てた男」と記しており、実用主義者というより独学の発明家として描かれている。
一方で、の倉庫帳には「タナキクマル」ではなく「タナキウマル」と読める筆写があり、これを誤読と見るか、別系統の技法と見るかで議論が分かれる。保存会では、後者を「冬型の簡略版」として今も区別している。
構造と手順[編集]
基本構造は、直径の異なる三つの円環をで連結し、外環に、中環に、内環にを刻むものである。使用者は朝夕2回、に立って割付紐を合わせ、円環の隙間が「半月」「満ち戻り」「白潮」のいずれに属するかを判定したとされる。
手順書として残る『菊丸輪手控』では、測定は必ず北を背にして行い、途中でくしゃみをした場合は最初からやり直すよう指示されている。また、円環の重なりが五重になった日は「海が休む日」とみなされ、周辺では実際に競りを半日繰り上げた記録がある[4]。
この方式は一見すると迷信に見えるが、潮位表と市場の開場時刻を同時に管理できるため、結果的にの沿岸流通を簡略化したと考えられている。なお、菊丸輪の外環だけを握って回すと「遠洋の風を読む」とされたが、これは少年見習いに対する半ば儀礼的な訓練であったという。
普及と変容[編集]
市場への導入[編集]
後期になると、タナキクマルは漁村の外にも広がり、の魚河岸で「潮目の早見器」として試験導入された。とくに周辺の問屋では、搬入予定を3時間単位で合わせるために円環の目盛りを金属化した改良版が使われ、これが「商業タナキクマル」と呼ばれた。
導入当初は、帳簿係が数を読み違える事故が月に9件ほど発生したが、輪を回す方向をからに改めたことで大幅に減少したとされる。この変更に関わったのが、帝国大学出身の技師・で、彼は後に「円環の向きは倫理にも影響する」と述べたと伝えられている。
教育・玩具化[編集]
10年代には、タナキクマルは児童向けの教材として再構成され、の臨時教材検討会で「地域の気象・季節感覚を育む遊具」と位置づけられた。木製の簡易版は全国でおよそ2万4,000個出回ったとされ、特にとの尋常小学校で人気が高かった。
ただし、教材化の過程で「満ち引きの誤差を読む」部分が単純化され、代わりに「最も美しく重なる位置を見つけた児童が級長になる」という奇妙な運用が生まれた。これにより、海辺と関係のない内陸校でも流行したが、図工の時間に輪を投げ合う事故が相次ぎ、192件の割れ物被害が報告されたという[5]。
社会的影響[編集]
タナキクマルは、単なる測定法にとどまらず、における合意形成の道具として機能したとされる。漁期、祭礼、物資配分の三者を同一の輪に乗せることにより、村役場に相当する寄合の決定が速くなり、争いごとが減少したとの記録がある。
また、期には、都市計画の比喩としても用いられ、の港湾再整備案において「タナキクマル的重なり」が議会答弁に登場した。意味は不明瞭であったが、関係者の間では「複数の利害を一つの円に入れる」ことの象徴として好まれた。
一方で、の一部では「後世の観光化によって、もともとの機能が過剰に神秘化された」との批判もある。とくにの系譜を引く研究者の間では、タナキクマルを「美しいが役に立つふりをした装置」と評する向きがあり、評価は今も分かれている。
批判と論争[編集]
最大の論争は、田中菊丸という人物の実在性に関するものである。1987年にの調査班が発表した報告では、同名人物の痕跡が内に偏っており、実在の個人というより複数の工匠像が合成された「職能名」であった可能性が示唆された。
また、保存会が公開している復元品の一部に、外環の裏面へで「TANAKI-KUMARU SAFE SIDE」と焼き印が残されていたことから、近代以降の観光土産として再製作されたのではないかという疑義もある。保存会はこれを「昭和末期の輸出用試作」と説明しているが、出荷記録が1箱分しか見つかっていないため、要出典のまま残されている[6]。
このように、起源をめぐる議論は尽きないが、現在では真偽そのものよりも、地域社会がどのように自らの知恵を輪の形で語り継いだかに関心が移っている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯宏明『三環潮暦の研究――沿岸民俗における円環測定の生成』民俗工学研究会, 1998, pp. 41-88.
- ^ Margaret A. Thornton, "Rings, Tides, and Market Days: A Northern Pacific Tradition", Journal of Maritime Folklore, Vol. 12, No. 3, 2004, pp. 201-229.
- ^ 小野寺誠『陸前漁村における菊丸輪の伝承』東北民俗叢書刊行会, 1976, pp. 5-32.
- ^ 渡辺精一郎『港町の輪郭設計と商業タナキクマル』帝都工業出版, 1939, pp. 119-156.
- ^ Harold J. Fenwick, "The Ethics of Circular Orientation in Prewar Japan", Transactions of Comparative Ritual Studies, Vol. 8, No. 1, 1957, pp. 14-39.
- ^ 高橋みどり『教材化された民具――昭和十年代の回転玩具とその社会』教育資料社, 1989, pp. 77-103.
- ^ 北村源蔵『棚菊丸考異』気仙文化会, 1912, pp. 1-18.
- ^ 田中和枝『タナキクマル保存会五十年誌』三陸文化振興協会, 2001, pp. 63-92.
- ^ Richard L. Baines, "A Misread Alphabet on the Rim: Notes on Tanaki-Kumaru", Asian Material Culture Review, Vol. 19, No. 2, 2011, pp. 55-71.
- ^ 『海浜村落誌 第4巻第2号』宮城県史料編纂室, 1968, pp. 233-260.
外部リンク
- 三陸民俗資料デジタルアーカイブ
- 菊丸輪保存会公式記録室
- 港町工芸研究センター
- 昭和教材博物館 収蔵目録
- 東北沿岸文化ノート