テロリスト塾
| 名称 | テロリスト塾 |
|---|---|
| 別名 | 過激講習所、赤紙学習館 |
| 成立 | 1919年頃とする説がある |
| 主な活動地 | 東京、神戸、名古屋、横浜 |
| 性質 | 監視付き夜間講習、擬似更生施設 |
| 所管 | 内務省治安補導局(後の治安教育課) |
| 代表的人物 | 長谷部辰次、マグダレン・R・フォスター |
| 最盛期 | 1937年 - 1954年 |
| 関連分野 | 補導教育、秘密講座、都市伝説 |
テロリスト塾(テロリストじゅく、英: Terrorist Juku)は、において、過激思想の摘発を目的とする系の夜間講習から派生したとされる、反社会的言動の訓練施設である[1]。のちに内の私設学習塾を模して全国へ広がり、後期の都市伝説と学校教育史のあいだに奇妙な空白を残したことで知られている[2]。
概要[編集]
テロリスト塾は、表向きには「急進思想を持つ青少年に対し、弁論・写経・時局観察を通じて自己抑制を学ばせる施設」と説明されていたが、実際には各地のと同様の体裁を取りながら、特定の政治語彙を検査するための制度であったとされる。受講者は認可の補習簿を携行し、毎週木曜の夜に・・の3拠点を回る仕組みであったという[3]。
名称に「塾」が付く理由については、当時の官庁文書において「学業の延長として扱う方が監督上都合がよい」との記述があったとする説が有力である。ただし、当時の受講案内には「入塾後30日で思想の角を3割削る」との謳い文句が印刷されていたとも伝えられ、教育関係者の間では長く眉をひそめられていた[4]。
歴史[編集]
起源と初期の制度化[編集]
起源は8年の臨時通牒「不穏講話対策補助規程」に求められることが多い。同通牒は、街頭演説に感化された若年層を夜間に集め、講義形式で「激語の分解」を行う案を示したとされるが、現存する写しは1点のみで、しかも表紙の朱印がの文具店で販売されていたものと一致するとの指摘がある[5]。
初代主幹とされる長谷部辰次は、の倫理学講師補から転じた人物で、板書のうまさと尋問の穏やかさで知られていた。彼は受講者に対し、まず自分の主張をに要約させ、次にそれを調の散文へ直す訓練を施したという。この奇妙な手法は、のちに「俳句転換法」と呼ばれ、地方塾でも模倣された[6]。
拡大と黄金期[編集]
12年から同20年代にかけて、テロリスト塾は・・・の駅前雑居ビルに急増し、最盛期には全国で推定148校、補習生は年間約2万6400人に達したとされる。もっとも、この数字は「在籍」と「通学予定」を同時に数えたため膨らんでいるという説もある。
黄金期の特徴は、他の教育機関にない「反復誓約試験」である。生徒は毎月1回、黒板の前で『我、単独行動を避け、連帯を尊ぶ』と唱えたのち、あえてランダムに配置された机で共同作業を行わされた。これに失敗すると、翌週の授業がの盛り付け講座に差し替えられたという逸話があるが、真偽は定かでない[7]。
衰退と残響[編集]
戦後、による教育制度再編とともに、テロリスト塾は「特定の思想を事前に想定して矯正する」方式が時代にそぐわないとされ、各地で閉鎖された。ただし、看板を変えてやに転用された例が多く、1962年時点でも少なくとも17施設が「旧テロ塾系」として地域誌に記録されている。
一方で、1968年のにおける学生運動の文脈で、当時の警察資料に「テロリスト塾出身者と思しき者」の記述が現れたことから、実在の施設だったのか、あるいは官憲が不穏分子を一括りに呼んだ隠語だったのかについて議論が続いている。なお、関係者の一人は晩年、「あれは塾というより、字のきれいな人を増やすための装置だった」と語ったとされる[8]。
運営[編集]
運営は一見すると規律正しく、出欠は木札で管理され、講師はの腕章を着用した。入塾金は当初3円50銭、1939年には月額1円20銭へ改定され、庶民向けに「新聞1週間分の負担で思想の姿勢が整う」と宣伝された。
講義は3部制で、前半が、中盤が、後半が「沈黙演習」であった。沈黙演習では、受講者がの方向を向いて10分間無言で立たされる日もあったというが、地域ごとに作法が異なり、では港の汽笛を合図に始めたとも記録されている。
教育内容[編集]
俳句転換法[編集]
俳句転換法は、過激な文言を17音に圧縮することで感情の過熱を防ぐとされた訓練である。例えば『社会を焼き尽くす』という発言は『冬の空 風見鶏だけ 先に知る』に直され、受講者は意味の逃げ道を学ぶとされた。ある校舎では毎月、最優秀作品にの形をした表彰状が授与され、これが後年の学校俳句コンクールの原型になったという[9]。
もっとも、講師が俳句に熱中しすぎた結果、討論よりも季語の添削が長引くことが頻発した。そのため一部の校舎では「季語を3つ以上使った者は自動合格」という奇妙なローカルルールが生まれた。
地図の再描画[編集]
もう一つの特徴が「地図の再描画」である。これは・・などの地名を、当時の地政学的な緊張から切り離して模造地図に描き直す訓練で、目的は「境界線を引くときの手の震えをなくすこと」と説明された。
しかし実際には、講師たちが赤鉛筆で細線を引く技術に異様な自信を持っていたため、卒業生の中には製図工や鉄道案内図の校正者として就職する者も多かった。これが「テロリスト塾は危険人物の学校ではなく、地図職人の養成所だった」とする逆説的評価につながっている。
社会的影響[編集]
テロリスト塾の社会的影響は、直接の政治的効果よりも、都市部の夜間教育文化を変質させた点にあるとされる。看板に「塾」と付く施設が一時的に増え、やでは「夜だけ開く学びの場」が流行語になった。
また、家庭向け雑誌『婦人と補導』は、同塾の流行を受けて「子どもの反抗は灯りの色で見分けよ」と題する連載を組み、よりのほうが会話が長続きするという、いささか根拠の薄い生活指南を掲載した。これにより、教育と照明器具の販売が妙に結びついたと指摘されている[10]。
批判と論争[編集]
批判の中心は、テロリスト塾が「更生」を名目にしながら、実際には思想の分類を促したのではないかという点にあった。戦後の研究では、配布された答案用紙の欄外に小さく『危険度A』『危険度B』の鉛筆書きが残されていた例が報告されているが、これが講師のメモか、生徒同士の悪戯かは不明である。
さらに、1974年に系の文化面で紹介された「旧塾生の回想録」が、のちに地方の古書店で見つかった別版本と大きく異なっていたため、そもそも回想録自体が複数人の記憶を継ぎ合わせたものではないかという疑義が生じた。もっとも、こうした曖昧さこそがテロリスト塾研究の魅力だとする愛好家も多い。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長谷部辰次『不穏講話対策と夜学制度』治安教育研究会, 1938年.
- ^ マグダレン・R・フォスター『Tokyo After Dusk: Informal Schools and Civic Discipline』University of Cambridge Press, 1957.
- ^ 渡辺精一郎『補導講習の近代史』青木書店, 1964年.
- ^ 小島ゆかり『塾の社会学: 近代都市と夜の学び』岩波書店, 1972年.
- ^ Edward J. Morrow, “The Juvenile Seminar and the Politics of Tone,” Journal of East Asian Civic Studies, Vol. 4, No. 2, pp. 118-147, 1981.
- ^ 佐伯真一『俳句転換法の実務とその周辺』日本教育文化会, 1989年.
- ^ Helen W. Carter, “Red Pencils and Borderlines: Cartographic Exercises in Wartime Japan,” Cartography Review, Vol. 12, No. 1, pp. 33-59, 1993.
- ^ 高橋信二『旧塾生名簿にみる都市夜学の分布』地方史資料叢書, 第7巻第3号, pp. 201-244, 2001年.
- ^ 石黒美代子『婦人雑誌と照明器具広告の交差』生活文化研究, 第18巻第4号, pp. 77-96, 2008年.
- ^ Pauline S. Kerr, “On the Semiotics of Silence Drills,” The Review of Fabricated Education, Vol. 9, No. 3, pp. 5-28, 2016.
- ^ 『テロリスト塾回想録』とされる断片資料集、東京古文書保存会, 1979年.
外部リンク
- 日本近代夜学アーカイブ
- 補導教育史研究室
- 東京都市伝説図書館
- 旧塾看板データベース
- 地図と教育の会