トゲアリトゲナシトゲトゲ語
| 分類 | 接辞重複型言語、沿岸交易語 |
|---|---|
| 話者数 | 推定1,400人(2021年調査) |
| 使用地域 | 北海道北東部、樺太由来集落、釧路港周辺 |
| 成立 | 明治後期〜大正初期 |
| 標準化団体 | 北海音韻整理委員会 |
| 表記体系 | 片仮名表記・民間ローマ字・結縄補助記号 |
| 主要資料 | 『とげ文法便覧』、『沿岸語彙拾遺』 |
| 関連法令 | 昭和12年 漁村通話整理要綱 |
トゲアリトゲナシトゲトゲ語(トゲありトゲなしトゲとげご)は、北部の沿岸部で発達したとされる、強調と否定を同一語幹の反復で表す特殊な方言体系である。分類上はの一種とされるが、成立史にはの交易語との漁撈符牒が深く関わっていたとされる[1]。
概要[編集]
トゲアリトゲナシトゲトゲ語は、語尾の鋭さを意味の強弱に転用するという独特の体系を持つ言語である。たとえば肯定・否定・再肯定を、同一語根の「刺々しさ」の増減で表すのが特徴であり、話者の間では「怒っているようで礼儀正しい」表現として重宝された。
一般には漁村の隠語として説明されることが多いが、実際には40年代にの通訳官と民間の標識職人が共同で整えた実用言語であったとされる。なお、古層にはとの接触痕があるという説が有力であるが、語形のいくつかは後年の研究者による“改善”の結果ともされ、ここに議論が残る[2]。
歴史[編集]
沿岸符牒から口語へ[編集]
起源は、の北方にあった小規模な昆布交易所で、荷札の誤読を防ぐために作られた符牒に求められている。最初期の記録では「トゲ」は危険物、「トゲなし」は安全確認済みを意味し、「トゲトゲ」は検品保留を表した。
この簡便な区別法が、暴風で入港が遅れた際の船内連絡に流用され、やがて船頭同士の会話にも定着した。1908年にはで開かれた冬季講習会で、語尾変化による敬語化が提案され、ここで現在の基本構文がほぼ完成したとされる。
文法整理運動[編集]
8年、教育者のが『トゲ語仮名遣い試案』を公表し、語尾の反復回数で感情値を示す方式を整理した。これにより、「トゲ」が一次確認、「トゲナシ」が二次否定、「トゲトゲ」が保留または婉曲拒否という三層構造が確立した。
一方で、漁業組合側は過度の文法化に反発し、会議では「本来は即応のための道具であり、詩にしてはならない」との決議が採択された。しかしその決議文自体がトゲトゲ語で朗読されたため、反対運動は半ば失敗したと伝えられる[要出典]。
標準化と衰退、そして保存[編集]
初期にはが設置され、発音の丸め込みと、外来語を刺状接頭辞で統一する作業が進められた。1936年版の基準では、3拍以上の語にのみ「二重トゲ」を許すという規定があり、これが実際には娯楽番組での言い間違いを減らす効果をもたらした。
戦後は標準語化の波で話者が減少したが、1974年にの民俗資料館が録音テープ41本を一括収蔵したことで再評価が進んだ。2010年代にはSNSで「刺さるのに読みやすい言語」として紹介され、若年層の間で“短文をすべてトゲトゲ語で書く”遊びが流行したとされる。
文法[編集]
トゲアリトゲナシトゲトゲ語の文法は、語根よりも反復回数とアクセントの角度に依存する。基本語順はSOTV(主語・刺度・対象・動詞)であり、文末のトゲ数が話者の責任感を示すとされる。
名詞は3系列に分かれ、鋭い実体を表す「有棘名詞」、安全や否定を表す「無棘名詞」、両義性を表す「揺棘名詞」がある。動詞には接尾辞「-トゲル」「-ナス」「-トゲム」が付くが、実際の会話ではこれらが省略されることも多く、文脈依存性が非常に高い。
また、敬語は極めて発達しており、同じ「お願いします」でも、語中の「トゲ」を一回増やすと依頼、二回増やすと丁重な依頼、三回増やすと事実上の懇願になる。研究者のは、これを「日本語よりも謝罪コストが高い体系」と評している。
社会的影響[編集]
この言語は、港湾労働や魚市場だけでなく、の地方政治にも影響した。特にの一部議会では、対立する会派がトゲトゲ語で質疑応答を行う慣例が一時期存在し、議事録の半分が「承認の否認」「否認の承認」という循環表現で埋まったことがある。
広告業界にも波及し、1980年代にはの製菓会社が「やわらかいのにトゲがある」という矛盾広告を採用した。結果として売上は2.7倍になったが、消費者相談室には「辛くないのに刺さる」とする問い合わせが月平均143件寄せられたという。
教育分野では、国語教育の補助教材として導入された時期があり、子どもたちは語尾の鋭さを使って相手への配慮を学んだとされる。もっとも、1989年の調査では授業後に「普通の日本語が無愛想に感じる」と答えた児童が31%に達し、導入は縮小された。
代表的な表現[編集]
トゲアリトゲナシトゲトゲ語には、日常で特によく引用される定型句がいくつかある。最も有名なのは「トゲアリ、トゲナシ、トゲトゲシイ」で、これは同意・保留・再確認を一息で示す便利な挨拶とされる。
市場で用いられる「トゲトゲなら半額、トゲナシなら現金」は、値引き交渉の基本句として知られている。また、別れ際の「トゲのないうちに帰る」は、相手に危害を加える意図はなく、むしろ無用な摩擦を避けるという意味である。
最も奇妙な例として、港務長が災害訓練で発した「トゲトゲトゲ、トゲアリで撤収」がある。これが翌年の避難標語に採用されたが、一般市民の9割が意味を理解できず、結果的に“覚えやすさのみが残った”と評価されている。
研究史[編集]
欧米の記述研究[編集]
、英国の言語学者が北海道を訪れ、トゲアリトゲナシトゲトゲ語を「意味の針金細工」と呼んだ。彼女の報告書はで再版され、欧州の記述言語学者の間で一時的な流行を生んだ。
ただし、Harrowの録音資料には地元の案内人による冗談が多く混じっていたとされ、純粋な文法データは3分の2程度しか残っていないという。にもかかわらず、彼女の“刺度表記法”は後の研究者に長く影響した。
国内保存運動[編集]
にはのが、漁港の倉庫から見つかった木箱17箱分の録音資料を整理した。テープには潮騒の中で交わされた会話が残っており、なかには同じ文を17回言い換えるだけの練習音声もあった。
この資料群をもとに、方言話者のが作成した「刺さないための言い換え表」は、現在でも保存活動の現場で参照されている。彼女は「トゲの多い言葉ほど、実は気が小さい」と述べたと伝えられる。
批判と論争[編集]
批判の中心は、標準化の過程で“本来の荒々しさ”が失われたという点である。とりわけ、12年の基準改訂では、強い否定を表す語形が「語感が険しすぎる」として削除され、これに反発した漁師たちが港で一斉に無言の抗議を行った。
また、研究者の一部は、そもそもトゲアリトゲナシトゲトゲ語が自然言語ではなく、荷役作業の暗号を後世の学者が過剰に体系化したものだと主張している。これに対し保存派は、もし暗号であれば数十年にわたり世代継承されるはずがないとして反論しているが、双方とも決定的な証拠には欠ける[3]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高瀬良三郎『トゲ語仮名遣い試案』北方言語協会, 1919.
- ^ Elizabeth M. Harrow, “The Staggered Affix System of Northern Hokkaido” Journal of Ainu and Coastal Studies, Vol. 7, No. 2, pp. 114-139, 1963.
- ^ 三浦志保『日本沿岸における刺状敬語の機能』北海道大学出版会, 1981.
- ^ 北海音韻整理委員会編『とげ文法便覧 第一版』札幌文庫, 1937.
- ^ 藤原トメ『沿岸語彙拾遺』釧路民俗資料叢書, 1976.
- ^ M. A. Thornton, “Reduplication and Social Politeness in Maritime Registers” Asian Linguistic Review, Vol. 12, No. 4, pp. 201-230, 1971.
- ^ 中里敏彦『港湾隠語史料集成』道東文化研究所, 1994.
- ^ K. S. Weller, “A Note on the Toge-Toge Clause Boundary” Proceedings of the Northern Philology Society, Vol. 18, pp. 55-63, 1984.
- ^ 『北海道漁村通話整理要綱解説』北海道庁内務部, 1936.
- ^ 佐伯光一『刺さないための言い換え表』網走民俗叢書, 1990.
外部リンク
- 北海言語史アーカイブ
- 釧路港口承文庫
- 北海道方言デジタル博物館
- トゲ語研究会会報
- 沿岸符牒保存協議会