トレの目
| 分野 | 民間計測・技能伝承 |
|---|---|
| 主な用途 | 対象の状態判定(収穫時期・漁獲条件など) |
| 起源とされる地域 | 宇和海沿岸(伝承) |
| 成立の経緯 | 帳簿文化と口伝の“相互照合”から形成されたとされる |
| 関連する組織 | 農林水産局・旧沿岸測定会 |
| 記録形態 | 手帳・竹札・港の掲示板(“目”の書き分け) |
| 特記事項 | 体系化の途中で複数流派が併存し混乱が生じたとされる |
| 代表的な指標 | 日射角/反射色/潮の“戻り”の秒数 |
トレの目(とれのめ)は、の民間技法に由来するとされる“目印”の呼称である。主にやの現場で使われたと記録されるが、実際にはそれを軸にした小規模な計測体系が発展したとされている[1]。
概要[編集]
は、一定の手順で対象(作物や海面、さらには天候の兆し)を観察し、その“見え方”を単語と数字に変換して共有する技能体系であるとされる。呼称の由来は、観察者が“トレ(測れ)”と声を掛け合いながら状態を揃えていったことにあると説明される場合がある[2]。
体系の核心は、観察結果を「色相」「光沢」「輪郭の締まり」「反応時間」といった、当時の現場が使いやすい軸に分解する点にあったとされる。とくに港では、同じ夕刻でも到来する風向と波の“手触り”が違うため、単位の目安を固定する工夫が行われたと記録されている[3]。
なお、この“目”は単なる比喩ではなく、地区ごとに定められた照合表(竹札の穴あきパターンや、帳簿の欄)として運用されたとされる。一方で、表の解釈が口伝に依存したため、旅行者や新規就業者が理解するには時間を要したとも指摘されている[4]。
歴史[編集]
起源—宇和海の“潮戻り”手帳[編集]
宇和海沿岸では、明治末から大正初期にかけて、漁の成否が「潮が戻るタイミング」に左右されるという経験則が広まったとされる。そこで沿岸の若者たちは、潮が“引いてから戻り始める瞬間”を目で追い、同時に腕時計のような砂時計を並べて照合する試みを始めたと伝えられている[5]。
このとき用いられた“目”の最初の記録が、宇和島の細工師であるが作ったとされる「十穴竹札(じっぱちたけふだ)」である。札は十個の穴があり、穴の位置を見て「目の状態」を当てる仕組みになっていたとされるが、当初は読めるのが作者本人と三人の弟子だけだったと記録されている[6]。
さらに、宇和海では日没からのあいだに海面の反射色が変わるという“観察窓”が定められた。村の帳簿には「トレの目・第一群」などの分類が書かれ、夜ごとに同じ観察を繰り返して“当たり外れ”を補正していったとされる。もっとも、この手帳方式が他地区へ共有される前に、紙面が痛んでしまい、復元の過程で数値が揺れたとも言われている[7]。
近代化—測定会と“目”の規格化[編集]
大正末から昭和初期、港の共同作業が増えたことを背景に、技能を“個人の勘”から“規格化された手順”へ移す動きが出た。これに関わったとされるのが、農林水産局の下部組織である「沿岸測定会(通称:沿測会)」であると記述されることが多い[8]。
沿測会は、観察項目を「反射色(白〜青の5段)」「輪郭の締まり(1〜9)」「潮戻りの遅れ(秒・-30〜+60の範囲)」に分解し、各項目に“目の呼び方”を割り当てたとされる。たとえば「潮戻りの遅れが+17秒で、輪郭が6より上、反射色が青寄り」は、口伝では“トレの目・鯛滑り型”と呼ばれたとされる[9]。
ただし、この規格化には副作用もあった。新規就業者は数字を覚えれば再現できると期待したが、実際には観察角度が屋外照度計の感度に影響されるため、同じ数字でも見え方がズレた。結果として、昭和十三年頃に宇和島周辺で「目の誤差裁判」と呼ばれる集団トラブルが起きたとされるが、記録は少なく、当事者の証言が互いに食い違う点が知られている[10]。
また、面白いことに、規格化の議事録には妙に具体的な行事が残っている。たとえば「平均風速が毎秒を超えた日は、第三群の判定を“保留”とする」といった条文である。こうした条文は、当時の技師が持ち込んだ簡易風速計の癖を、そのまま条文化してしまったものだと推定されている[11]。
通信時代—港の掲示板から“全国”へ[編集]
戦後、ラジオや地域新聞が普及すると、トレの目は港の掲示板での共有へと拡大したとされる。とくに、掲示板の書式を統一した「目札通信(もふだつうしん)」が大きく寄与したという[12]。
目札通信では、各地区が毎月一度、観察の週間平均値を“目の形”として掲示したとされる。ここで扱うのは「月の光(観察時刻のずれ)」「潮温」「風の前兆の鳴き」など、かなり広い項目だったため、分類が膨れ上がったとされる。結果として、地区同士で同じ名称でも中身が違う“方言的トレの目”が増えたと指摘されている[13]。
なお、テレビ番組で取り上げられた際には、視聴者が「単なる占いでは?」と誤解したこともあったとされる。ただし番組側は、実際の運用例として「海面の反射が“鏡のように割れる”瞬間」を観察する場面を紹介したとされるが、当時の記録には“鏡ではなく油紙”が使われていたとも書かれている[14]。この食い違いが、のちにトレの目が“科学っぽいのに妙に民間”として語られる理由になったと考えられている。
技法と運用[編集]
トレの目では、観察前に「基準面」を作る手順が重視されたとされる。たとえば漁では、で入手できる薄い油紙を張った板を海際に立て、一定の角度から反射を確認することが推奨されたと記録されている[15]。
観察そのものは、基本的にに行うとされる。もっとも、規格化後の沿測会の資料では「日没後〜の窓で必ず同一視線を保つ」と明記されており、かなり厳密に見える[16]。しかし、同じ資料には「窓の中心はその日の靴底の埃で修正せよ」とも書かれているため、現場では数字と口伝が混在していたことが分かる[17]。
結果は“目の箱”に記入する形式で残された。箱は三つの欄からなり、第一欄は反射色の段階(白・灰・青灰・青・濃青)、第二欄は輪郭の締まり(1〜9)、第三欄は潮戻りの遅れ(秒)であるとされる[18]。面白いのは、数字の記入方法にも流派があり、宇和島では“上書き禁止”だった一方で、隣の佐田岬側では“翌日まで消してはいけない”という逆ルールが採用されていたとされる[19]。
社会的影響[編集]
トレの目は漁や農の効率化に直結したとされる。たとえば沿岸漁の合図として、掲示板に記入されたトレの目の値に従って出漁時刻を揃えると、曳網の準備が短縮され、港の待ち時間が平均短くなったという。これはに沿測会の監査資料として引用されたとされるが、監査の原本は所在不明とされる[20]。
一方で、技能を“規格化された目”として共有できたことで、個人の熟練が相対化される方向にも作用したと考えられている。その結果、新参が入りやすくなった面があるとされる反面、古参は自分の目が「仕様外」扱いされることを恐れ、観察を渋るようになったとも指摘されている[21]。
また、行政の文書にも影響が及んだとされる。たとえばの依頼により、農協の説明会資料へトレの目の比喩が採用されたという。資料では、稲の生育を判断する際に「第五欄は見えないが、見えないことこそ目である」といった言い回しが使われたとされる[22]。この文章は、後年に「意味不明だが、なぜか現場は理解してしまう」と評され、資料の転用が繰り返されたとされる。
批判と論争[編集]
トレの目には、疑似科学的であるという批判が存在したとされる。具体的には、視認条件を一定に保つはずなのに、実際の運用では「靴底の埃」「その日の歌声」などの要因が暗黙に混ざるため、再現性が担保できないという指摘である[23]。
また、沿測会の規格化があまりに詳細であったことも論点となった。反射色を5段階に分類することは合理的に見えるが、分類境界が曖昧で、判定者によって“青灰”が“青”に吸い寄せられる傾向があるとされた。こうした問題は「目のバイアス(青寄り)」としての技術講習で言及されたとされるが、講習記録の該当ページが紛失しているとも言われている[24]。
さらに、最も笑われる論争として「トレの目・第三群は存在しない」という主張がある。これは、沿測会の表には第三群の番号があるのに、実際の掲示板写真では第二群の後に第四群が出てくる事例が報告されたためだという[25]。一部では、第三群が“悪天候のせいで記録されなかった”だけだと説明されたが、別の説では、第三群は“見た者だけが理解でき、文字にできない”と噂された。結果としてトレの目は、実務の道具でありながら、いつしかコミュニティの物語装置にもなっていったとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高橋昌明「トレの目—沿岸技能の数値化と口伝の混成構造」『沿岸民俗工学研究』第12巻第2号, 1954.
- ^ 渡辺清九郎「十穴竹札の設計意図について」『愛媛地方技術史紀要』Vol.7, pp.41-66, 1961.
- ^ Margaret A. Thornton, “Visual Calibration Practices in Postwar Coastal Communities,” 『Journal of Applied Folk Measurement』Vol.3, No.1, pp.11-29, 1969.
- ^ 伊藤真里「日没後の観察窓と反射色分類—トレの目の運用手順」『農漁業データ整理学会誌』第20巻第4号, pp.203-231, 1972.
- ^ 佐々木礼二「目のバイアス(青寄り)再検討」『海象計測論集』第8巻第1号, pp.77-95, 1980.
- ^ 沿岸測定会編『目札通信の書式体系』沿岸測定会出版部, 1959.
- ^ 愛媛県庁農林水産局「技能伝承の行政資料化に関する試案」『行政技術月報』第33号, pp.9-18, 1966.
- ^ 斎藤和夫「トレの目・第三群は存在するか—掲示板写真の照合法」『地域観察史の研究』Vol.5, pp.141-160, 1991.
- ^ 田村俊彦「再現性をめぐる共同体の技術政治」『計測社会学評論』第2巻第3号, pp.55-88, 2003.
- ^ Aoyama Institute of Quantitative Tradition, “The Tore No Me Index: A Speculative Framework,” 『Proceedings of the International Symposium on Uncertain Traditions』Vol.1, pp.1-12, 2011.
外部リンク
- 宇和海掲示板アーカイブ
- 沿岸技能研究データバンク
- 竹札設計図コレクション
- 目札通信復刻ページ
- 反射色分類ミニ講座