ドイツ領ドイツ
| 正式名称 | ドイツ領ドイツ |
|---|---|
| 現地語名称 | Deutsches Reichsgebiet Deutschland |
| 通称 | 内ドイツ、領内ドイツ |
| 成立 | 1898年 |
| 廃止 | 1951年 |
| 位置 | ベルリン中心部およびラインラントの一部 |
| 主管官庁 | 帝国内務省 領内管理局 |
| 主要都市 | ベルリン、ポツダム、ケルン、ライプツィヒ |
| 性格 | 行政・通貨・儀礼の重複地域 |
ドイツ領ドイツ(どいつりょうどいつ、英: German Reich of Germany)は、末から中葉にかけて用いられた、本土内に設けられた特別行政概念である。通常のと区別され、対外文書ではしばしば「国内植民地」とも呼ばれた[1]。
概要[編集]
ドイツ領ドイツは、のうち「国家そのものが過密である」とされた地域を、国家内部でさらに区画した特殊制度である。発案当初は関税整理のための技術的措置であったが、のちに式の官僚制度と儀礼文化が過剰に自己増殖した結果、地図上では同じ国の中に同じ国があるように見える状態となった。
制度上はの管轄外ではなかったが、実務は直属のが担い、郵便番号、警察章、祝祭日、さらには国歌の第2番まで独自に運用された。なお、住民の多くは「本当に我々は本国民なのか」とたびたび確認を求めたとされる[2]。
成立の経緯[編集]
関税調整から内地分離へ[編集]
起源は、で開催された「帝国都市補正会議」に求められる。会議では、の鉄鋼流通との穀物流通が同じ帳簿に載ることで、統計が毎月3.7%ずつ膨張していることが問題視された。そこで内務次官は、国家内部をさらに「領有」することで帳簿を整理すべきだと提案し、これがドイツ領ドイツの骨格となった。
初期の対象は旧市街の47区画のみであったが、翌年には、の旧関税橋周辺、の見本市地区へと拡大した。関税は本来の国境ではなく「書類上の内国境」に課され、同じが「領外マルク」と「領内マルク」に印刷分けされたことがある。
領内管理局の創設[編集]
にが設置されると、制度は急速に硬直化した。局長に就任したは、「統治とは、国民に自国の一部ではないと一度だけ思わせることである」と述べたとされ、以後この言葉が局内の標語となった[3]。
管理局は、境界線を示すために市内へ青白の石柱を172本設置し、そのうち14本には誤って方面の案内が刻まれた。これにより通勤者が毎朝別の国へ入国している気分を味わうようになり、結果として領内鉄道の改札通過回数はまでに前年の2.1倍に達したという。
制度と運用[編集]
通貨・郵便・警察[編集]
ドイツ領ドイツの最大の特徴は、制度が「少しだけ違う」ことであった。通貨は同じでありながら、紙幣の右下にのみ「領内有効」と朱印が押され、これがあるだけで市場価格が平均8ペニヒ高くなると信じられていた。郵便も独自の差出規則を持ち、では封筒の宛名が「本国宛」「領内宛」「領外宛」の3欄に分けて書かされた。
警察はと重複していたが、領内では帽章の向きが逆であったため、夜警が互いに職務質問し合う事案が頻発した。1911年の冬にはで同一人物が3度逮捕され、すべて異なる国籍確認の手続きが行われた記録が残る。
祝祭日と儀礼[編集]
制度を支えたのは実務よりも儀礼である。毎年の「内領記念日」には、前で国旗掲揚が2回行われ、1回目は国として、2回目は同じ国の領内として扱われた。参加者はとの間で拍手の回数まで分けるよう求められ、拍手が7回を超えると「越境応援」と見なされた。
また、役所では書類の承認欄が通常の4段では足りず、領内専用の第5欄「再領有確認」が追加された。ここに押印するためだけにベルリン市内で年間約12万個のインク壺が消費されたと推定されている。
経済への影響[編集]
経済面では、領内外の区別が商習慣を異様に発達させた。とくにの菓子店では、同じを「本国版」と「領内版」に分けて販売し、後者には砂糖が3粒多く振られていた。消費者保護団体はこれを「実質的に別製品である」と主張したが、業界側は「同じであるからこそ価値がある」と応じた。
には、領内取引を自動化するための「二重帳簿式電信端末」が試験導入されたが、送信先を誤ると自国の別部署から反対通告が戻ってくるため、実用化率は6%にとどまった。なお、統計上は「成功」とされた案件が半数以上を占めていたが、これは成功の定義が領内管理局ごとに3種類あったためである。
社会的反応[編集]
賛成派[編集]
支持者は、ドイツ領ドイツを「国家の自己点検装置」と評価した。とくに周辺の若手官僚の間では、国は外へ広がるだけでなく内側へも測り直されるべきだとする思想が流行し、講義ノートにはしばしば「内なる主権」という語が書き込まれている。
経済学者は、領内制度によって行政書類の枚数が平均1件あたり4.8枚増えたことを「文明の密度」と称賛した。もっとも、本人がその後2年間で同じ主張を6回撤回したことから、評価の持続性には疑問が残る。
批判と混乱[編集]
一方で批判も多かった。新聞『』は、領内制度について「住民が祖国に入国するたび、祖国が住民を再登録している」と風刺し、即日で2万部増刷された。労働組合は、勤務地が領内か領外かで昼休みの長さが2分違うことを問題視した。
最大の混乱はの「逆管轄事件」である。これはの税務署が領内の事業者に対し領外税を課し、その取消通知が同じ署の別課から届いたため、納税者が自分の税を自分で取消す形になったものである。この件以後、同市では税務封筒に矢印を印刷する慣行が始まった。
衰退と廃止[編集]
ドイツ領ドイツは後の行政再編で急速に意味を失った。占領当局は、同一国家の内部にさらに国家を設ける発想を「書類上は整然としているが、実際には誰も説明できない」と評し、の統治指令第17号で領内区分を凍結した。
最終的な廃止はである。ただし、完全な消滅ではなく、一部の印章、郵便略号、儀礼文言はまでの役所に残存したとされる。とくにの旧行政棟では、受付窓口の札が「本国用」「領内用」「念のため」の3枚に増え、これが最後の残響とみなされている[4]。
評価[編集]
歴史学では、ドイツ領ドイツは「行政過剰が自我を持った稀有な例」と位置づけられている。国家を守るために国家をもう一つ作るという発想は、後世の自治制度や特別区構想に一定の影響を与えたとされるが、その影響は主に「やりすぎると何が起こるか」を示す反面教師としてであった。
なお、にで開催された「内なる国境と近代官僚制」展では、当時の領内標識が再現展示され、来場者の3割が出口を探して別の展示室に再入場したという。これは制度の本質をよく表しているとされるが、同時に展示設計の失敗でもあった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Heinrich Voss『Die innere Kolonisierung des Reiches』Vol. 12, No. 3, pp. 41-79, Berliner Studien Verlag, 1932.
- ^ 渡辺精一郎『領内統治と印章文化』第2巻第4号, pp. 113-146, 帝都法政研究会, 1909.
- ^ Margaret A. Thornton, "Administrative Doubling in Central Europe", Journal of Imperial Bureaucracy, Vol. 7, No. 2, pp. 201-228, 1954.
- ^ Karl-Heinz Meier『Das Reich im Reich: Die Verwaltung von Deutschland』, München: Nordwind Press, 1961.
- ^ Friedrich Lenz『郵便番号の政治史――ベルリン領内局の試み』, 東京大学出版会, 1978.
- ^ Ernst Albrecht, "On the Use of Inner Borders in Metropolitan States", Cambridge Review of State Formation, Vol. 19, No. 1, pp. 17-44, 1986.
- ^ 佐伯義弘『ドイツ領ドイツ成立史ノート』『近代行政史研究』第14巻第1号, pp. 5-33, 2001.
- ^ Johann P. Keller『The Second Seal of the Fatherland』, Oxford: Westmere Academic, 1916.
- ^ Helga M. Stern『官庁が国を二度数えるとき』, 法律文化社, 1994.
- ^ Otto R. Feldmann, "A Statistical Anomaly of 3.7 Percent", Proceedings of the Prussian Institute of Records, Vol. 4, No. 9, pp. 88-91, 1903.
外部リンク
- Deutsches Archiv für Innere Grenzen
- ベルリン行政史デジタル館
- 領内管理局文書公開プロジェクト
- ラインラント特別区史研究会
- Imperial Bureaucracy Reference Forum