ドラセナリア王国
| 国名 | ドラセナリア王国 |
|---|---|
| 成立 | 推定12世紀末 |
| 消滅 | 1794年頃 |
| 首都 | キンボラ港 |
| 公用語 | 古バントゥー語群の一変種、宮廷ラテン語 |
| 宗教 | 樹液崇拝、祖霊祭祀 |
| 通貨 | 葉脈ディナール |
| 主要産物 | 香木、染料、鉢植え用土壌 |
| シンボル | 七本葉の竜血樹 |
| 現況 | 歴史王国として研究対象 |
ドラセナリア王国(ドラセナリアおうこく、英: Kingdom of Dracenaria)は、のを神聖樹として戴くとされる、沿岸部の古王国である。末にいったん消滅したとされるが、以降は外交文書と園芸学の双方でたびたび再発見されてきた[1]。
概要[編集]
ドラセナリア王国は、から下流域にかけて存在したとされる交易国家である。名称は、宮廷で栽培された属植物の一系統に由来し、王権の正当性を示す「葉冠儀礼」に結びついていたとされる。
同国については、の交易記録、の標本台帳、さらに東京都内の個人植物園に残る栽培メモが断片的に一致しており、実在性をめぐって長く議論が続いた。ただし、いずれの史料も妙に園芸用語が多く、王位継承の記事よりも鉢替えの記述のほうが詳細である。
起源[編集]
竜血樹の誤認説[編集]
最も広く知られる説では、ドラセナリア王国は末、沿岸部の交易民が大陸内部から流入した樹脂を「血の木のしずく」として神聖視したことから成立したとされる。初代統治者とされるは、実際には部族連合の調停者であったが、後世の年代記では「夜ごと樹液を確認し、滴の数で徴税を決めた」と記されている[2]。
この滴数課税は、現在の税務史でも異様な制度として引用される。なお、税率は樹液の濃度ではなく、葉の裂け目の数で変動したとされ、1580年代の記録には「裂け目が九つを超えると通関を停止する」とあるが、現代の研究者の多くは園芸カレンダーの誤読であるとみている。
港市国家への変質[編集]
に入ると、ドラセナリアは内陸の鉄器交易と海岸の香木輸出を結ぶ港市国家へと変化した。首都には王宮、倉庫、そして「葉床」と呼ばれる巨大温室が建設され、ここで育成された苗木が外交贈答品として各地に送られた。
の宣教師は、現地で見た王宮を「半分は砦、半分は温室」と記録している。もっとも、その手稿の余白には、鉢の水やり時刻と昆虫の発生記録がびっしり書き込まれており、王国研究者のあいだでは彼が史官ではなく園芸に取り憑かれた修道士だった可能性が高いとされる。
王権と儀礼[編集]
ドラセナリア王国の王位は直系継承とされたが、実際には「葉冠会議」と呼ばれる評議機関が候補者を選定したとされる。会議は新月の夜、の王宮裏手にある温室で行われ、候補者は七鉢のドラセナに水を与え、そのうち三鉢以上で新芽が出れば即日即位となった。
王の衣装は、樹皮繊維を編んだ外套に銀粉を混ぜたものであった。とくに第7代は、即位式で自らの冠を鳥の巣から取り落とし、式典が中断したにもかかわらず「落冠こそ王権の開始である」と宣言した逸話で知られる。この話はの植物文化史講座でもしばしば取り上げられるが、原史料には「鳥の巣」とは別に「水切り皿」とも読める箇所があり、要出典とされることが多い。
また、王妃は外交上きわめて重要な役割を担い、他国への贈答に用いる株分け苗の配分を管理した。苗木一株の価値は銀貨12枚から36枚まで変動したとされ、干ばつ期には「斑入り個体」が実質的な準通貨として流通した。
交易と外交[編集]
ドラセナリア王国は、やポルトガル商人との間で、象牙、染料、香料、そして異様に丈夫な鉢を交換していたとされる。特に17世紀後半の外交記録には、経由で輸出された「青い葉脈を持つ観葉株」が高値で取引されたことが残っている。
一方で、同国はしばしば「植物の関税が高すぎる国」として近隣諸国から警戒された。ある商館員は、関税担当官が貨物より先に葉の枚数を数え、必要に応じて船員に土を詰め直させたと報告している。もっとも、この証言は船酔いの最中に書かれた可能性が高く、研究者のあいだでは信憑性が割れている。
外交史上もっとも有名な事件は、の「三鉢交換条約」である。これは王国がフランスの植民地総督に対し、香木3樽と引き換えに耐湿性の高いドラセナ鉢を12基贈ったもので、条約文には「鉢の返却は国家の名誉を損なう」とわざわざ記されている。
社会と文化[編集]
宮廷音楽と葉擦れ歌[編集]
ドラセナリア王国では、王宮で演奏される弦楽器「リキンバ」に合わせ、葉をこすり合わせてリズムを取る「葉擦れ歌」が発達した。これは貴族だけでなく港の荷役夫のあいだにも広まり、労働開始の合図として定着した。
18世紀の旅行記によれば、キンボラ港の朝は「鳥より先に葉が鳴る」と形容されたという。なお、同地の祭礼では葉擦れの音が強すぎると雨が遅れると信じられていたらしく、雨乞いの際には逆に鉢をすべて南向きに並べる習俗があった。
土壌学と王立研究院[編集]
、王国はを設置し、土壌の水はけ、塩分、灰分、虫食い率を官僚的に測定し始めた。研究院の初代院長は、王国の強みは軍事力ではなく「根が呼吸できる制度設計」にあると述べたとされる。
この研究院の台帳は、植物学、地質学、会計学が一体化した珍しい史料として知られている。ある年の報告書には、研究費の大半が「黄化対策のための茶葉」購入に充てられており、のちに会計検査で問題視されたが、担当官は「茶葉は研究材料である」として処理を押し通した。
衰退と消滅[編集]
18世紀後半、ドラセナリア王国は沿岸部の潮位変動と、鉢植え用土壌をめぐる内紛により急速に弱体化した。とくにの大高潮では、王宮の葉床が半壊し、保管されていた外交苗の約3割が塩害で枯死したと伝えられる。
、最後の王は、王宮の裏庭で行われた避難会議の席上、国璽の代わりに種袋を差し出し、これをもって「国は土へ還る」と宣言したとされる。しかし、同年以降も王国の名は税関記録、修道院台帳、さらに19世紀の園芸カタログに断続的に現れるため、完全な消滅ではなく「行政上の鉢替え」が行われたにすぎないとする説もある。
再発見と近代研究[編集]
博物館標本としての復活[編集]
後半、ロンドンの標本市場で「ドラセナリア産」と記された乾燥葉が出回り始め、これをきっかけに王国の実在性が再評価された。とくにの調査では、ラベル番号の連続性が王国の交易網と一致する可能性が示され、学界に小さな騒ぎを起こした。
ただし、その後の再検証で一部標本の裏面に「鉢A」「鉢B」とだけ書かれていたことが判明し、いくつかは単なる展示準備品ではないかとの指摘も出た。にもかかわらず、ドラセナリア王国は「消えた王国」ではなく「園芸行政の極北」として人気を集めるようになった。
批判と論争[編集]
ドラセナリア王国研究は、史料の大半が交易記録・園芸台帳・宣教師の私信に依存しているため、早くから懐疑論にさらされてきた。とくにの歴史学者は、王国史の核心は「国家」ではなく「高品質な植木鉢の流通圏」にあった可能性があると主張した。
また、王族名の一部が植物品種名と一致することから、後世の収集家が意図的に脚色したという説もある。これに対し、支持派は、もし捏造であればこれほど会計帳簿が細かいはずがないと反論している。実際、王国の経費には「雨除け網」「蝋紙」「根腐れ防止の砂」など、国家財政としては妙に実務的な項目が並んでおり、かえって信憑性を高めている。
一方で、最も奇妙な論争は「王国の国歌に本当に葉擦れ音が含まれていたのか」という問題である。の音楽史研究班は再現演奏を行ったが、結果はただの風の音にしか聞こえず、録音技術の限界か、あるいは当時の演奏者の熟練の問題かで議論が続いた。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Jean-Pierre Moreau『Les royaumes feuillus de la côte du Golfe』Presses Universitaires de Bordeaux, 1978, pp. 44-91.
- ^ 渡辺精一郎『西アフリカ沿岸植物国家史料集』岩波書店, 1984, pp. 112-168.
- ^ Margaret A. Thornton, “Potted Sovereignty in Central Africa,” Journal of Tropical Historical Studies, Vol. 12, No. 3, 1991, pp. 201-233.
- ^ アウグスト・デ・ソウザ『キンボラ港巡察日誌』リスボン国立古文書館刊, 1862, pp. 7-58.
- ^ I. Valdés, “The Political Economy of Leaves,” Annals of Maritime Botany, Vol. 8, No. 1, 2004, pp. 15-39.
- ^ 高橋園子『王権と鉢植え—ドラセナリア王国の儀礼体系—』植物文化研究社, 2011, pp. 5-104.
- ^ H. C. Whitcombe, “The Seven Pots Ceremony and Its Afterlives,” Royal African Review, Vol. 19, No. 2, 1976, pp. 88-120.
- ^ エステヴァン・カンポス『土壌と国家会計の相関に関する覚書』王立ドラセナ研究院, 1763, pp. 1-29.
- ^ 佐々木緑『消えた王国の温室行政』東京園芸史出版会, 1998, pp. 73-140.
- ^ N. Adeyemi, “A Kingdom or a Nursery? Revisiting Dracenaria,” Bulletin of Atlantic Archaeology, Vol. 27, No. 4, 2016, pp. 401-428.
外部リンク
- ドラセナリア王国史料アーカイブ
- キンボラ港遺構調査団
- 王立ドラセナ研究院デジタル館
- 葉冠会議再現プロジェクト
- 港市国家園芸史協会